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第四十五話:『聖餐の食卓、あるいは欠損の証明』


玄関の鍵が開く音がした。

カナは、コウタがいつも座っている編集デスクの椅子で、身を強張らせて待っていた。

脳内では、昨夜から擦り切れるほど再生した「恋愛指南動画」のフレーズが、黄金律のように響き渡っている。


「……おかえり、コウタ。……早かったわね。寂しかった」


カナは立ち上がり、動画で学んだ通りの「小首をかしげた、少しだけ不安げな微笑み」を浮かべる。

完璧な角度。完璧な間。

これでコウタは動揺し、罪悪感に苛まれ、私という「庇護すべき対象」に溺れるはずだ。

だが、コウタは濡れた傘を玄関に置きながら、心底感心したような声を上げた。


「おー、ただいま。……お前、なんか今日、顔の筋肉引き攣ってないか? ほら、約束通り『むね肉』買ってきたぞ」


コウタは鼻歌まじりにキッチンへ向かい、レジ袋から白く瑞々しい肉の塊を取り出す。

トントン、とリズム良くまな板を叩く音。

カナの脳内では、それがコウタの肉を削ぎ落とす「解体」の音に変換され、脊髄を震わせた。

カナは、動画の次なる一手『パーソナルスペースの侵食』を仕掛けるべく、背後からコウタに密着した。


「……ねえ、コウタ。……その『むね肉』、私にくれるの? ……あんたの、一番熱いところ、……私に食べさせてくれるのね?」


コウタは包丁を止め、真面目な顔で振り返った。


「あー、そうだな。タンパク質は大事だしな。でもこれ、熱いっていうか……さっきまで保冷剤でキンキンに冷えてたぞ。腹壊すなよ?」


「…………そう、」


効かない。

動画の女が「これで男はイチコロ!」と豪語していたテクニックのすべてが、コウタという天然の防壁に弾き返されていく。

やがて、キッチンから香ばしい匂いが漂い始めた。

コウタが、湯気の立つ皿をテーブルに置いた。白く、淡白な肉の塊。

カナはそれを、涙が滲みそうなほど熱烈な眼差しで見つめる。


「……ふふっ、……あはっ、……そう。……あんたの、むね肉……。本当に、私にくれるんだ……」


カナは皿を置くコウタの手首を、獲物を見定めた獣の目で凝視した。

キッチンから漂う暴力的な香気。それはカナの脳内で、コウタの体温が脂となって滴り、彼自身の細胞がパチパチと爆ぜる、至高の音色へと翻訳される。

カナは震える指でフォークを握り、皿の上の白い肉を……コウタの「一部」を、執拗に突き刺した。


「…………んぅ、……は、ぁ……っ」


一切れを口腔へ招き入れた瞬間、舌の上で男らしい、逞しい弾力が跳ねた。

鶏むね肉特有の、意外なほど筋張った筋繊維。それがカナの歯を押し返し、抗い、強固な意志を持って存在を主張する。

パサついた繊維の隙間から、周りの焦げ目によって封じ込められていた旨みが、一気に決壊した。

(……あぁ、……コウタの、胸から……肉汁が、溢れてる……っ)

熱い。甘い。

噛みしめるたび、彼の厚い胸板を食い破り、その奥に流れる生命力を直接啜っているのだという確信が、カナの粘膜を支配する。

コウタが私を愛するために。私を飢えさせないために。その健全で美しい身体を、自ら削ぎ、焼き、捧げてくれた。

その事実が、脳を、脊髄を、焼き尽くすような悦楽となって駆け巡る。


「……う、あ、ぁ……っ、……おいしい、……おいしいわよ、コウタ……っ!」


口いっぱいに広がる多幸感。

視界が白く爆ぜ、バチバチと火花が散るような激しいめまいに、カナは椅子の上で大きく身をよじった。

食欲は性欲へと融解し、支配欲は祈りにも似た狂気へと昇華される。


あんたの心臓を、私の拍動で上書きする。

あんたの未来を、私の血肉として受肉させてやる。

そうすれば、もう二度と、あんたは私以外の誰にも「修復」されない体になるでしょ?


「……あはっ、……あんたが、……私の中で、ぐちゃぐちゃに混ざってる……っ!」


カナは、皿にこびりついた脂までをも舌で執拗に舐めとった。

それは、愛する男を自らの内臓という名の深淵へ引き摺り込む、最高にファナティックで、ルナティックな聖餐の完遂だった。


カナは恍惚とした表情で、一気に肉を飲み込んだ。

皿が空になり、満たされた陶酔の中、彼女はキッチンで何かをつまんでいるコウタの背中を、とろけるような目で見つめる。


「……ねえ、コウタ。……あんた、今、何してるの?」


「ん? 味見。焼く前にちょっとだけ取り分けてたやつ、俺も食べたくなってな」


コウタはそう言いながら、小さな小皿に乗せた同じ胸肉を、普通に口に運んだ。


「…………!」


カナの心臓が、急激に跳ね上がる。

彼も食べている。

同じものを。

同じタイミングで。

私が彼の「一部」を食べたのと同時に、彼もまた……。


「……あんた、……それ、……私と、同じものを……?」


「当たり前だろ。同じ食卓だしな」


コウタは特に何も考えていない様子で、もう一切れを口に入れる。

カナの脳内では、それが「彼もまた私と一つになりたかった」という証拠に変換されていた。


(そうか……。彼は、私が彼を食べることで一つになるのと同じように、私と同じものを食べることで、彼の中に私を取り込もうとしている……!)


「……コウタ。……あんた、私のこと、食べたくなったの?」


「……は? 食べるって、これのことか? 別に、ただの胸肉だぞ」


「ちがうわよ! そういう意味じゃなくて……!」


カナは立ち上がり、コウタの背後から抱きつく。

彼の手に持った小皿には、まだ一切れの胸肉が残っている。


「……それ、私にちょうだい」


「え? いいけど……お前、もう食べ終わっただろ」


「いいから!」


カナはコウタの手から小皿を奪い、その一切れを口に放り込んだ。

そして、まだフォークを持っているコウタの指先を、自分の唇でそっと撫でる。


「……これで、おあいこね。あんたが私の一部を食べて、私があんたの一部を食べる。……私たち、これで本当に一つになったのよ」


コウタは、少し呆れたように、けれどどこか嬉しそうに笑った。


「……そういうことにしといてやるよ」


その返事に、カナの全身が熱くなる。

(彼は認めた。私たちは一つになった。この「聖餐」は、彼も望んでいたことなんだ……!)


その日の夜。

カナはコウタの胸に顔を埋めながら、何度も何度も「あの胸肉」の味を反芻した。

彼の心臓の鼓動が、自分の拍動と重なって聞こえる。

(これが、本当の「共感」……。私たちは、もう離れられない。体ごと、混ざり合ったんだから……)


コウタは何度も「ただの胸肉だぞ」と言っていたが、カナの耳には届かない。

彼が「そういうことにしといてやるよ」と笑ったあの瞬間、それはもう「事実」になっていた。

彼が否定すればするほど、彼が「普通」であればあるほど、カナの妄想はより強固に、より美しく、より狂気を帯びて育っていく。


翌朝、コウタが冷蔵庫から昨日の胸肉の残りを取り出そうとした時、カナはそれを奪い取って言った。


「……これ、全部私が食べる。あんたは、昨日もう十分食べたでしょ」


「え? いや、俺ももう少し食べたかったんだけど……」


「ダメ。これは、『私たちが一つになるための聖餐』の続きなの。あんたが食べたら、バランスが崩れるでしょ」


コウタは「よくわかんねえけど」と呟きながら、冷蔵庫を閉めた。

カナはその背中を見つめ、胸の奥で燻る悦びに震える。


(わからなくていいの。あんたは、私が考えてる通りに動いていればいい。……それで、私たちは「共感」してるんだから)


カナは冷えた胸肉を口に運びながら、それがコウタの「献身」の証であることを、何度も何度も心の中で反芻した。


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