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第四十四話:『模倣の檻、あるいは歪んだ攻略本』
暗い部屋に、場違いなほど明るいBGMが響き渡っている。
画面の中では、華やかなメイクを施した女が、完璧に管理された笑顔で「恋の必勝法」を説いていた。
『いいですか? 大切なのは“共感”です。相手と同じものを食べて、同じように感じてあげて。人は、自分と完全にシンクロしてくれる存在を、運命の相手だと確信するんです』
カナは食い入るように、その声を鼓膜に流し込む。
動画の女は説く。「彼と同じリズムで生活しましょう。そうすれば、彼はあなたなしでは生きていけなくなります」と。
「……やっぱり。……そうよね。……私のやってることは、間違ってなかったんだ」
カナは、机の上に並んだ『ペンギン』印の安酒の空き瓶と、脂の浮いた冷たい唐揚げを、愛おしそうに見つめた。
今、自分がやっていること。コウタと同じものを胃に収め、彼が座る椅子で、彼が見る世界をなぞっているこの行為。それは「異常」なんかじゃない。動画の専門家が推奨する、最高に効果的な「愛されテクニック」なのだ。
「……もっとシンクロしなきゃ。……あいつが飲んでる時だけじゃなくて、……あいつが苦しんでる時も、寝てる時も、……全部。私とあいつが、一つになるまで……」
動画の女はさらに続ける。
『相手が今、何を感じているかを想像して、それを言葉にしてあげましょう。彼にとって、世界で唯一の理解者になるんです』
カナの脳内で、言葉が都合よく書き換えられていく。
理解者。それは、コウタが実家で「平和」を感じているなら、それを「私という欠落」で上書きしてやる権利があるということ。コウタが私を思い出して苦しんでいるなら、その苦しみを一緒に増幅させてやることが、動画の言う「共感」なのだ。
「……分かったわ。……あいつは今、私がいなくて寂しがってる。……ううん、寂しがってなきゃいけないの。……だから、私が教えてあげなきゃ。……あんたが今、何を感じるべきなのかを」
カナは動画の女の笑顔を、自分の異常性を肯定してくれる「聖書」のように崇め、瞳を爛々と輝かせた。
彼女が手に入れたのは、反省ではない。
「今の自分のまま、もっと徹底的に侵食してもいい」という、最悪の免罪符だった。
十分な自己正当化を終え、カナは震える指で通話ボタンをタップした。
「……三、二、……一」
スリーコール。それだけで、画面が切り替わった。
そこに映ったのは、実家の穏やかな光の中で、少し髪を乱し、眠そうに目を細めるコウタの顔だった。
「……あー、カナ。悪い、寝てた」
コウタの、どこまでも平熱な声。
だが、カナの脳内には動画の女の「共感」という言葉が、万能の翻訳機として響き渡っていた。
嘘よ。寝てたなんて、そんなの嘘。
だって、スリーコールで出るなんて、スマホを握りしめて待ってたに決まってる。
あんた、今、寂しかったんでしょ?
実家の平和な空気が、あんたには退屈で、耐えられなかったんでしょ?
だから、私からの着信という「毒」を、本当は今か今かと待ち望んでいたんじゃない。
「……ふふっ、……寝てたんだ。……寂しかったでしょ?」
カナは、動画が教えてくれた「最高の理解者」の微笑みを浮かべた。
暗い部屋の中で、その瞳だけが爛々と、確信に満ちて輝いている。
「……分かるわよ。……あんたが、私が恋しくて死にそうになってるの、……ちゃんと“共感”できてるから。……三回鳴る前に出たかったんでしょ? 私に、求められてるって、……確認したかったんだよね?」
画面越しのコウタが、目に見えて動揺した。視線が泳ぎ、喉仏が小さく跳ねる。
「……っ、……別に。……ただ、そろそろ、お前から連絡来るかなって思ってただけだ。……その、お前の家にいつ行くか、こっちから連絡しようかなって……」
しどろもどろに紡がれる言葉。
カナはその「隙」を逃さない。動画の先生が言った通り。彼は今、私と完全にシンクロしている。彼ですら自覚していない「私の毒への渇望」が、手に取るようにわかる。
「……いいよ、隠さなくて。……実家の平和なんて、あんたには退屈だったんでしょ? ……ねえ、今すぐ私を、もっと必要だと言いなさいよ。……そうすれば、……許してあげてもいいわよ?」
カナの声は甘く、それでいて逃げ場のない呪詛のように、深夜のビデオ通話を通じてコウタの鼓膜を侵食していった。
「……ねえ、コウタ。……美味しいお肉があったら、食べたくならない? ……箸でつつくようなお上品なやつじゃなくて、生臭くて、熱くて、噛み切るたびに血が溢れるような……そういう、『本物』のお肉」
カナはスマホのレンズを自分の鎖骨に押し当て、熱を帯びた吐息をマイクに吹きかける。
コウタを丸焼きにして食らい尽くしたい。そのドロドロした衝動を「お肉」という言葉に込めて、彼の反応を待った。
画面越しのコウタは、一瞬きょとんとした顔をして、それから「あぁ」と思い出したように頷いた。
「……肉? 『むねにく』でいい?」
「…………は?」
「むね肉。……お前、タンパク質足りてねーだろ? 明日、俺が帰ったらさ、お前のためにその『むね肉』、美味しく焼いてやるよ。楽しみにしてろ」
コウタは「名案だ!」と言わんばかりに、一点の曇りもない笑顔で親指を立てる。
カナの心臓が、ドクンと跳ねた。
(……コウタの、むね肉……?)
カナの脳内で、恋愛指南動画の『共感』という言葉が、猛毒のスパイスとなって弾ける。
コウタが「自分の胸肉」を、私に食べさせてくれると言っている。
彼が喜びながら、自分の身を削ぎ、私に捧げてくれる。
あぁ、そうよね。それこそが、究極のシンクロ。それこそが、私たちが目指す「純愛」の儀式なんだわ。
「……ふふっ、……そう。……あんたの『むね肉』……。……わかったわ。……明日、楽しみにしてる。……最高に、美味しく……食べてあげる……」
カナは熱に浮かされたような、うっとりとした表情でスマホを見つめた。
画面の中のコウタは、自分の言った「鶏むね肉(ブラジル産・特売)」が、まさか自分の「大胸筋」として解釈されているとは夢にも思わず、「おう、じゃあな!」と能天気に手を振って通話を切った。
暗くなった画面に、顔を真っ赤にして、よだれを啜る自分の姿が映る。
「……あはっ……あいつ、自分から食べられたいなんて、本当に変態ね……。でも、いいわよ。……あんたがそのつもりなら、……骨の髄まで、一滴残らず啜ってあげる」
カナは、冷蔵庫に眠る「コウタ(鶏むね肉)」を想像しながら、シーツを固く握りしめた。
それは明日、二人が一つに溶け合うための、血生臭い聖餐式の予行演習だった。




