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第四十三話:『コウタの味、化け物の研究』

 玄関のドアが閉まった。

 その瞬間、部屋から酸素が消えたみたいに息が苦しくなる。

 数時間が経った。

 カナは、コウタの指定席である編集用の椅子に深く沈み込んでいる。

 机の上には、コウタがいつも「これが一番落ち着く」と言っていた、茶色い食卓が並んでいた。

 『ペンギン』印の安い日本酒、レンジで温めただけの脂ぎった唐揚げ、袋から出したままのカット野菜。


「…………苦っ。……最低の味」


 冷やの日本酒を喉に流し込む。ストロングゼロの暴力的な甘さに慣れた舌には、安酒の臭みがただ不快なだけだった。

 それでも、カナはそれを飲み込み続けた。

 コウタと同じものを胃に入れる。そうしないと、自分の中からコウタの成分が消えて、またあの「ゴミの匂いがするバケモノ」に戻ってしまいそうだったから。

 モニターには、昨日投稿した自分たちの動画が映っている。

 マウスを握り、画面の端にコウタが映り込んだ瞬間にシークバーを止める。


『早く帰ってきてほしいなら、お前も少しは手伝え』


 今朝のコウタの声。

 カナはその数秒間だけを、何度も、何度も、壊れた機械みたいに再生した。


「……手伝ってるじゃない。あんたの代わりに、あんたの好きなもの食べてあげてるわよ。……ねえ、見てよ。コウタ、見てなさいよ」


 返事はない。

 スマホは、一度も光らない。


「……なんで、自分から連絡してこないわけ?」


 怒りが、泥のように沸き上がる。

 コウタは今頃、実家の清潔な布団で、カナの罵声もない「平和」を楽しんでいるのかもしれない。

 


「……いいわよ。あんたがそのつもりなら」


 カナは別のタブを開いた。

 検索欄にぶち込んだのは『両思いになる方法』。

 画面に並ぶのは、ピンク色のテロップが躍る、キラキラした恋愛指南動画だ。

 『相手を依存させるテク!』『既読無視する彼を振り向かせるには?』


「……バカみたい。こんなので上手くいくなら、苦労しないわよ」


画面の中では、派手なメイクの女が「相手を依存させて離れられなくする極意!」なんてほざいていた。


「……はあ? キッショ……。依存? 何それ、馬鹿じゃないの」


 カナは鼻で笑い、画面を強く叩いた。


「……私とコウタのは、そんな安っぽい『依存』なんて言葉で片付くレベルじゃないのよ。これは、もっと綺麗で、純粋な……そう、究極の『純愛』系なんだから。アンタたちみたいな低俗な奴らと一緒にしないでよ」


 安酒を煽り、不在の男の食卓を模倣し、剥き出しの執着で震えている自分が、一番「依存」という言葉に相応しいことなど、カナの耳には届かない。

 

 毒づきながらも、音声を最大にして食い入るように見つめる。

 画面の中で笑う女の「愛される努力」が、今のカナには、獲物を仕留めるための「狩猟講座」にしか見えなかった。


「……恋愛テクニック、ね」


画面の中で笑う女の「愛される努力」。

 それが今のカナには、獲物の急所を正確に突くための「狩猟講座」にしか見えなかった。

 

 愛されたいんじゃない。

 このテクニックを牙にして、コウタの心臓を確実に仕留めたい。

 二度と、私のいない「平和」なんて思い出せないくらい、徹底的に。


「……いいわよ。その『テクニック』、私が全部喰ってあげる」


 カナは暗い部屋で、恋愛動画の女の笑顔をなぞるように、鏡の中の自分を歪に歪めた。

でも、もっと。もっと欲しい。もっと啜りたい。

 コウタが咀嚼し、血肉に変えていたこの「安っぽい日常」を、一滴残らず胃袋に収めたい。

 寂しいのか、腹が減っているのか、抱かれたいのか。

 もはや判別すらつかないドロドロの塊が、喉の奥をせり上がってくる。

 コウタという存在を絡め取り、八つ裂きにして、丸焼きにして、そのすべてを食らい尽くしたい。

 彼の心を、私の底に沈殿させる。

 コウタが喜びながら私に身を捧げてくれたら、一体どれほど嬉しいのだろう。


想像しただけで、脳が震えた。

 その悦びに導かれるように、カナの指は勝手に動いていた。

 気づけば、画面の向こうでピンク色のテロップが踊る「恋愛テクニック」の動画を、むさぼるようにタップし続けている。

  

 次にこのドアが開いた時。

 コウタは自分が「愛されている」と勘違いしながら、永遠に解けない私の呪いの中に沈んでいく。

 カナは震える指で、自らを肯定するための「最悪の攻略本」を読み込み始めた。





ルカとハルキ

「……はい、オッケー。テスト終了。じゃあ五分後、本番回します。ハルキ、ルカ、準備いい?」

 

スタジオのスタッフの無機質な声が、重い空気の中に落ちた。

数秒前まで「世界を愛で再起動ぉお!」と絶叫し、互いの喉元を愛おしそうに撫で合っていた二人の指が、合図とともに磁石が反転したように離れる。

 

ハルキはすぐさま手元のタブレットを引き寄せ、表情を消したまま、最新のアナリティクスを確認し始めた。

ルカは乱れた髪を指先で整えながら、鏡の中の自分――「聖女の擬態」を纏った自分を、品定めするように凝視する。

 

「……ハルキ。昨日のショート、エンゲージメントの初動が目標より三%低い。次の本番、もう少し『物理的な執着』を見せて。首筋の噛み跡、隠さないで露出させて」

 

「了解。……あ、ごめん。トイレ」

 

ハルキが短く言い残し、逃げるようにスタジオの隅にある個室へ消えた。

 

重い防音扉が閉まった瞬間。

ハルキは洗面台の縁を両手で掴み、鏡に映る自分の顔を睨みつけた。

喉の奥から、胃液の混ざった熱い塊がせり上がってくる。

さっきまでルカの肌に触れていた指先が、自分の意志とは無関係に小刻みに震えていた。

 

「……くそ。……なんだよ、これ」

 

蛇口を捻り、冷たい水を顔に叩きつける。

けれど、目元から溢れ出す熱い液体は、水道水では洗い流せなかった。

声を出さずに、ただ肩を震わせて、彼は「ハルキ」という化け物の殻を一度だけ脱ぎ捨て、独りで泣いた。

 

いつから、俺たちは『これ』になった?

ただ二人で、誰にも邪魔されない場所へ行きたかっただけなのに。

気づけば、俺たちが手に入れたのは、幾万人の視線と、一円単位で計算された「愛」の死体だけだ。

 

一方、スタジオに残されたルカもまた、椅子に座ったまま動けずにいた。

ハルキが消えた瞬間に、張り詰めていた「擬態」の糸がぷつりと切れる。

 

「…………」

 

ルカの頬を、一筋の雫が伝い、完璧に作り込まれたファンデーションの上に、無慈悲な亀裂を刻んでいく。

隣に誰もいなくなった瞬間にだけ訪れる、猛烈な孤独。

世界中から愛されているはずなのに、今この場所で、自分を「一人の女の子」として見てくれる人間は一人もいない。

ハルキですら、今の自分を「効率の良い集客パーツ」としてしか扱っていない。

 

「らぶちゅらぶちゅー、だにゃ

 らぶちゅらぶちゅー、だにゃ

 らぶちゅらぶちゅー、だにゃ」

 

ルカは震える手で、ポーチから最高級のコンシーラーを取り出した。

涙の跡を塗り潰し、赤くなった目元を冷静な手つきで修正していく。

 

「本番、三十秒前です!」

 

外からの声。

ハルキが個室から戻ってくる。

その顔には、もう涙の痕跡はない。

冷徹なビジネスマンの、完璧な「ハルキ」の顔だ。

 

「ハルキ。目、少し赤い。ライトの加減で調整して」

 

「ごめん。……ルカ、さっきの『噛みつき』の角度、一五度右に修正。カメラ映り優先だ」

 

「了解」

 

二人は視線を交わすこともなく、定位置につく。

カメラの赤いランプが点滅を始めた。

 

「……ルカぁぁあん!!! きゃわわしゅぎぃいい!!!」

 

「はるきもぉおおん!!! 愛で世界を、再起動だぁああ!!!」


 狂気が、再びスタジオを満たしていく。

そのすぐ隣のモニターには、カナが憎悪を込めて視聴していた、あの「聖者の行進」が、完璧な商品として映し出されていた。

 2人の涙は誰にも見えなかった。

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