42
第四十二話:『朝の光と、怪物たちの残響』
眩しい朝の光が、カーテンの隙間からカナの瞼を執拗に刺した。
意識が浮上すると同時に、昨夜の断片的な記憶が、濁流となって脳内に逆流してくる。
「……っ! ……あ、……うあああ……っ!」
カナは枕に顔を埋め、言葉にならない絶叫と共にのたうち回った。
――スケッチ、ワンタッチ。お風呂に入って、あっちっち。
――大好き。窒息してよ。
自分のものとは思えない、甘ったるく、泥のように濁った声が耳の奥でリフレインする。おまけに、夜中に目が覚めてからの「通報連打」と、眠るコウタへの「追い吸引」。
羞恥心が限界を突破し、カナは跳ね起きるなり、隣で作業しているはずの背中を探した。
「……起きてんの」
リビングのデスクでは、コウタが既に機材に向かっていた。
彼は昨日撮った美川の戦いの素材を編集しつつ、手元のスマホで「何か」を真剣な表情で見入っている。
カナがフラフラと近づき、その画面を覗き込んだ瞬間、彼女の顔が再び引き攣った。
映っていたのは、昨夜彼女が憎悪を込めて通報したはずの、あの『ルカとハルキ』の動画だった。
「……何で、それ見てんのよ。……キモ」
カナの刺々しい声に、コウタは視線も上げずに淡々と答えた。
「いや……こいつら、やっぱ化け物だわ。これ見ろよ。編集のテンポも、絶叫の合間に入るバン対策のテロップも、コンプラ意識も、全部が完璧すぎる。……参考になるんだよ」
「はあ? ……あんな赤ちゃん言葉のどこが完璧なのよ。……バカじゃないの」
「これ、よく見ろ。キャラは濃いしビジュアルも最強、企画力だってエグい。何より、活動初期からずっとトップ層にいる。……いつ結婚するんだって偽結婚式の鉄板ネタを毎年やって、引退詐欺ももう百回くらいやってるだろ。……視聴者が何を求めてるか、完全に理解してやってるんだよ、確信犯で」
コウタが冷静に分析を続ける。その「クリエイター」としての敬意が、カナには耐え難かった。
画面の中では、ルカがハルキの耳を噛みながら『日本を救っちゃうにゃああ!』と叫んでいる。
「……キモい。……絶対、あんな風になりたくない」
「そうか? お前も昨夜、似たようなことしてたけどな。……『あっちっち』とか言いながら」
「……っ!!! ……死ね! 今すぐ死ね! 消去しろその記憶!!!」
カナは顔面を真っ赤に染め、コウタの椅子を背後から激しく蹴り飛ばした。
ガタン、と大きな音がしてコウタがよろめく。その拍子に、彼のスウェットの襟元が大きくはだけた。
そこには、昨夜カナが執拗に刻みつけた、赤黒く生々しい「痕跡」が幾つも並んでいた。
朝の光の下で見ると、それは愛などという綺麗なものではなく、まるで獲物を仕留めた獣の噛み跡のようで。
「……キモいのは、お前よ。……その首、何よ。変態!」
「……お前がやったんだろ。……痛えんだよ、マジで」
コウタは溜息をつきながら首を摩り、立ち上がった。
「……明日編集して動画あげたら、いったん帰るわ。……洗濯もんとか、着替えとか。……もうちょいこっちに持ってきたいし」
昨日も聞いたその言葉。
カナは胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じながら、精一杯の虚勢を張って、鏡の前で自分の髪を乱暴に整えた。
「……ふん。一生帰ってこなくていいわよ。……その汚い首のまま、実家で親にでも通報されればいいじゃない」
トゲのある言葉を投げつけ、カナが背を向けた瞬間。
後ろで椅子の軋む音がして、コウタがふっと息を吐くのが聞こえた。
「……悪い。嘘だよ、からかってごめんな」
不意に届いた、低くて熱のない、けれど確かな謝罪。
カナの指が止まる。コウタはモニターの中の『ルカとハルキ』を見つめたまま、独り言のように続けた。
「……お前のこと、一人にするつもりなんてないよ。たださ、こいつらの数字見てると考えちまうんだ。……俺ら、今は『ビジネス不仲』で売ってるけどさ。……思い切って、こいつらみたいにイチャイチャ系に路線変えてみるか?」
コウタの言葉に、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
カナはゆっくりと振り返る。その瞳には、軽蔑と、信じられないものを見たという驚愕が混じり合っていた。
「……は? あんた、今なんて言ったの。……正気? 本気で言ってるの?」
「……いや、効率の話だよ。あっちっち系は数字の伸びが違う。お前だって昨夜、あんなに甘えて……」
「……っ! 死ね! 二度と言うな、その言葉!」
カナは耳を塞ぎ、喉の奥からせり上がる不快感に顔を歪めた。
画面の中では、ルカがハルキの鼻先を甘噛みしながら、極彩色のテロップと共に愛を叫んでいる。
「……あんな、おもちゃみたいな赤ちゃん言葉で媚び売って、視聴者に『尊い』なんて言わせるの? ……反吐が出るわ。あいつらみたいになるのだけは、絶対、死んでも嫌よ!」
カナはコウタのデスクに詰め寄り、モニターを乱暴に消した。
暗転した画面に、寝起きの、酷い顔をした自分たちの姿が映り込む。
「……いい? 私たちがやってるのは、あんな安っぽいお遊戯じゃない。お互いの首を絞め合いながら、辛うじて生きてる……そういう地獄を見せてるんでしょ。…だいたい、私がこのチャンネルの『メインコンテンツ』なわけ。私が可愛いだけのクソみたいなやつら寄せて誰が喜ぶのよ!」
カナの細い指が、コウタの胸ぐらを強く掴む。
【裏側の独白:摩耗した魂の清算】
スタジオを出て、それぞれのタクシーに乗り込んだ瞬間。
二人の「仮面」は、音を立てて崩れ落ちる。
ハルキは暗い車内で、ルカに噛みつかれた首筋を、汚れでも拭うように乱暴に指でなぞった。
痛い。けれど、この痛みすら「次の撮影で使える素材」として脳内で処理してしまう自分に、猛烈な吐き気が込み上げる。
(……いつからだ。いつから、俺たちは『これ』になった?)
最初は、ただ二人で生きていきたかっただけだった。
貧しくて、誰からも見向きもされなかった頃、ルカの体温だけが本物だった。
けれど、生き残るために「愛」を演じ、切り売りし、数字に変えていくうちに、本物の「愛」を語るための言葉をすべて、カメラの前で使い果たしてしまった。
今さら「寂しい」なんて言えば、それは「不適切な演出」として処理される。
「愛してる」と言えば、それは「脚本の使い回し」だと脳が拒絶する。
一方、ルカもまた、コラボ相手との会食に向かう車内で、膝の上で拳を握りしめていた。
窓に映る自分の顔は、世界中が称賛する「清楚で狂った聖女」のままだ。
けれど、その内側は、度重なる「ビジネスとしての接触」で、感覚が麻痺し、空洞になっている。
(……ハルキ、私、本当は今日、お腹が痛かったのよ。……お疲れ様じゃなくて、大丈夫?って、一言だけでいいから、……普通の男の子として、聞いてほしかった……)
けれど、それを言えばハルキは困るだろう。
「体調管理不足によるスケジュールの遅延」として、冷徹にアナリティクスを読み上げる彼を見たくない。
だから、二人は今日も、世界で一番深く繋がりながら、世界で一番遠い場所で、独りきりで泣く。
「……あは。……らぶちゅらぶちゅー、だにゃ。……死ねばいいのに、私」
ルカはスマホのインカメラに向かって、一瞬だけ、誰にも見せない「死んだ魚のような目」をして、すぐに最高の笑顔を作って自撮りをアップした。




