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第四十一話:『聖者の行進、あるいは極彩色の吐き気』
深夜三時。
安酒の酔いが中途半端に抜け、頭を鈍く刺す痛みと共に、カナは目を覚ました。
隣ではコウタが、昨日の激戦の疲労からか、泥のように眠っている。
カナは暗闇の中でスマホを手に取り、Dチューブのホーム画面を開いた。
トップに鎮座していたのは、今最も勢いのあるカップルチャンネル――『ルカとハルキの“丁寧な”同棲生活』の最新動画だった。
「……またこいつら。死ねばいいのに」
毒づきながらも、指は吸い寄せられるように再生ボタンをタップした。
画面が切り替わった瞬間、世界が爆発したかのような高彩度の色彩と、耳を裂くような絶叫が飛び込んできた。
『ルカぁぁあん!!! きゃわわしゅぎぃいい!!! 今日も胸が爆発して脳が溶けそうだにゃあああ!!!』
『はるきもぉおおん!!! かっこよすぎて視界が虹色にバグってるううう!!!』
ルカはハルキの太ももに吸い付き、耳元で叫びながら体をよじる。
ハルキは笑いながらも目をひんむき、ルカの頭を胸に押し付けて絶叫した。
『お前、可愛すぎて俺が存在ごと消えそうだぁああ!!!』
『らぶちゅらぶちゅー!!! ねえ、ハルくん!!! 今日も世界を救っちゃうぅうう!? にゃあああん!!!』
『そうだね!!! 日本も世界も、俺たちの愛で完全再起動だぁああ!!! ひゃっほおおおおう!!!』
指が絡み合い、吐息が嵐のように飛び交う。
二人の声は画面の向こう側まで炸裂し、コメント欄は「頭おかしいけど尊すぎるwww」「狂気のキモかわ」「幸福の暴力で死ぬ」「視聴者全員洗脳されたwww」で埋め尽くされていた。
ルカは突然、ハルキの鼻先を両手でつかみ、画面いっぱいに叫んだ。
『ほら、これで君も俺の世界に完全捕獲! にゃああああん!!』
ハルキは笑いながらも、息を荒げて叫びを返す。
『俺の心臓、爆弾並みにドクドクしてる!!! 世界が粉々に愛で溶けるううう!!!』
画面の中では、ただの恋愛を超えた狂気の祭典が繰り広げられていた。
光と音と吐息が渦巻き、視聴者の理性を飲み込み、吸い込む——それがルカとハルキの「聖者の暴走」だった。
「……何でこいつらが、百万もいってんの」
カナの指が震え、メニューの「通報」ボタンを連打する。
不適切コンテンツ、有害行為、スパム……適当な理由を次々と選択し、憎悪を込めて送信ボタンを叩きつけた。
「……は? 日本を救う? 死ねよ。消えろ、今すぐ」
しかし画面の中のハルキは、ルカの首筋に顔を埋めながら、矛盾した正論を吐き散らす。
『一人の時間を尊重するのが自立した愛だよ。依存は愛じゃないんだ』
「……うっざ。死ぬほど、うざい。……自分を愛せ? そんなの、コウタがいなきゃできないに決まってる」
カナはスマホを布団に叩きつけた。
だが、暗闇の中で脈打つ心臓が、画面の中の「光」を無視させてくれない。
「……いや、待って。光の世界? これが?」
コメント欄をスクロールすると、『尊すぎる!』『二人は私の希望です』『キモいけど中毒性ある、狂気のキモかわ!』——現実は、これが世間の「正解」の一つであることを証明していた。
「……あれが、キモかわいい? 世間ではあれがアリなの? 嘘でしょ」
混乱が思考を侵食する。
もし、あんな薄っぺらな赤ちゃん言葉や、綺麗事の「自立した愛」が百万人に愛されているとしたら——
――じゃあ、私のこれは?
コウタに罵声を浴びせ、酒に溺れて縋り付き、首筋に歯を立て、その匂いだけで辛うじて正気を保つ。
誰にも見せられない、百万回再生なんて絶対にされない、濃密で泥まみれの執着——
「……あんなの、偽物よ。でも、百万……。はぁ」
カナは縋り付くようにして、隣で眠るコウタの布団に潜り込んだ。
スマホの青白い光に焼かれた目に、コウタの体温が唯一の「正解」として染み込む。
「……くん、……くん。ああ、落ち着く……」
昨夜の「あっちっち」の記憶が羞恥と熱を帯びて蘇る。
あんな安っぽい光の言葉で、自分たちの濁った幸福を上書きさせるわけにはいかない。
カナはまだ赤みの残るコウタの首筋に、深く唇を押し当てた。
吸い付くような音が、静かな部屋に響く。
「……あんたは、あんなバカみたいに騒ぐ世界に行っちゃダメだからね。……あんな、眩しいだけの……うるさいところに、行かないでよ……」
「……ここで、私と……静かに、溺れてればいいんだから……」
画面の向こう側の「ルカとハルキ」を思い返す。
憎らしく、薄汚い赤ちゃん言葉で愛を語る、百万登録の聖者たち。
「……顔だけは無駄にいいのが、余計にムカつく。ハルキとか、黙ってれば……。……あんな顔して、なんであんな赤ちゃん言葉吐けるの。反吐が出る」
普通にしてれば、もっと「正しく」格好良く、多くの人間に憧れられる存在になれるはずなのに。
あえてあの不快な「あっちっち」の世界に身を投じている。
その歪さが、自分たちの姿と重なり、カナの吐き気はさらに強まった。
「……ふん。私たちが、あんなキラキラした狂気奴らと同じなわけないでしょ」
明け方、スマホの画面がスリープモードで消え、部屋は完全な闇に包まれる。
カナはようやくコウタの体温を抱きしめ、安らかな眠りに落ちた。
「……はい、オッケー。収録終了です。ハルキ、お疲れ様」
防音完備のスタジオ。
ルカがそう言った瞬間、空気が一変した。
「にゃあああん!」という残響が壁に吸い込まれ、極彩色の熱狂は、無機質なLEDの白光に塗りつぶされる。
ハルキはすぐさま手元のストップウォッチを止め、キーボードを叩き始めた。
その指先に、先ほどまでルカの首筋を貪っていた狂気の色は微塵もない。
「お疲れ。ルカ、どっか食べ行く? 腹減っただろ」
「あぁ、悪い。このあと、この前のコラボ相手と会食の約束あるから。ハルキは?」
「そうだったな。じゃあ、出る前にアナリティクスだけ聞いて。報告する」
ハルキが淡々と画面を読み上げる。
そこにあるのは「愛」でも「尊さ」でもなく、ただの「数字」と「推移」だ。
「昨日のショート、初動は良かったけど30秒以降の離脱が目立つ。中盤の『絡み』、もう少し解像度落として、代わりに『独占欲』のワードを強調したほうがいい。次、撮影スケジュールは2日後。例の『隠しステージ』で」
「了解。あとハルキ、SNSの2時間ごとの定時更新、このあいだ忘れてただろ。エンゲージメントが5%落ちてる。仕事なんだから、そこは徹底してよ」
ルカの声は、冷徹な上司のそれだった。
「……そっちも、編集の外注費、もっと値切り交渉ちゃんとしてくれよ。利益率が目標に届いてない。僕たち、慈善事業やってるわけじゃないんだから」
「分かってるわよ。……あ、ごめん。いつものパターン入る前に、喧嘩はやめよう」
「……あぁ。こっちも、ごめん。言いすぎた」
沈黙。
二人の間を流れるのは、互いへの執着ではなく、「完璧なコンテンツを維持するための、最低限の礼儀」だ。
「じゃあ、行くわ。コラボ相手に失礼のないようにな。向こうのフォロワー層、うちの弱点補完に最適なんだから」
「わかってる。ハルキも、今日の『傷跡』、ちゃんとケアしといて。次の撮影までに消えたら、またメイクの手間が増えるから」
「……あぁ、了解」




