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第四十話:『沈殿する狂気、あるいは胡麻の洗礼』

二本目のストロングゼロが空になり、ローテーブルに無造作に転がった。

急激に回ったアルコールが、カナの細い血管を駆け巡り、脳の隅々にまで「甘い麻痺」を届けていく。

彼女はもはやソファに座っていることすらできず、コウタの胸元にしがみつくようにして、その体温を貪っていた。


「……ねえ、コウタ。……お昼のやつ、もう一回言ってよ」


カナの声は、先ほどまでの生意気なトーンを完全に失い、粘着質な熱を帯びていた。

彼女はコウタの新品のスウェットの首元を乱暴に引き下げ、剥き出しになった鎖骨のあたりに、深く顔を埋める。

そこにあるのは、『BBA-URYY』がもたらした、異常なほどになめらかな「神の肌」だ。


「……はぁ、……ぁ。……これよ、これ……。……私の、コウタの匂い……」


石鹸の清潔な香りを突き抜けて、コウタの内側から立ち上る「生命」の匂い。

カナはそれを感知した瞬間、獣のように喉を鳴らし、彼の皮膚を吸い込むようにして激しく呼吸を繰り返した。


「……忘れたなんて、言わせないわよ。……久しぶりだったじゃない。私のこと……『好き』って言ったの……。ねえ、言って。ねえってば!」


カナは痺れを切らしたように、コウタの項のあたりを甘噛みした。

鋭い犬歯が皮膚を押し込み、コウタが短く「……っ、痛いって」と声を漏らす。

だが、その痛みが、今のカナにとっては極上の報酬だった。


「……私、コウタのこと、メッチャクチャすき……。……世界で一番、宇宙で一番……。……ねえ、うれしい?」


湿った吐息が、コウタの肌を濡らす。

カナは震える手でコウタの頬を挟み込み、無理やり自分の方へ向けさせた。

アルコールの混じった甘ったるい香りと、剥き出しの飢餓感が、至近距離でコウタを圧倒する。


「……うれしいよ。……分かってるから、少し落ち着け」


コウタは、自分のパーソナルスペースを粉々に踏み荒らしていくカナの熱量を、どこか冷めた、けれど心地よい諦念と共に受け入れていた。


「……落ち着けないわよ! ……あんたが、私の匂いだけで窒息しそうになってるの、見てると……もっとぐちゃぐちゃにしてあげたくなる……。……このエッチ」


カナは酔いからくる高揚感のまま、子供じみた悪戯っぽさと、剥き出しの独占欲を混ぜ合わせて笑う。


「……スケッチ、ワンタッチ……お風呂に入って、あっちっち……♪」


脈絡もなく、どこか懐かしい、けれど今の状況では酷く卑猥に聞こえる手遊びのフレーズが、彼女の唇からこぼれ落ちる。


「……っ! ……あはははは! なんだよそれ、お前……っ、ふふ、……っははは!」


コウタは堪えきれず、腹を抱えて爆笑した。

あまりにも場違いな、そしてあまりにも「カナらしい」壊れ方に、これまでの緊張感が一気に吹き飛ぶ。


「……なによ! なんで笑うのよ! 私は大真面目なのに! ……コウタのバカ! あっちっちなんだからね!」


カナは顔を真っ赤にして怒りながらも、笑っているコウタを逃がさないように、さらに強く抱きしめる。

その激しい身悶えの最中だった。

カナの肘が、ローテーブルの端に置いてあった「一キロ入りのごまドレッシング」を、無造作に弾き飛ばした。

ドロリ。

重低音のような鈍い音と共に、キャップが外れたボトルの口から、大量の乳白色の液体が溢れ出した。

それはコウタのスウェットを掠め、そのままターゲットへと直撃した。

カナが履いている、百万円の聖遺物――ベージュ色の『BBA-URYY』の股間部分へ。


「……あっ。……最悪……。あたしの、あたしの百万円が……ッ!」


カナが絶望の悲鳴を上げようとした、その瞬間だった。

ベージュ色の布地が、まるで生き物のように「脈動」を始めた。

ジュウ、という肉を焼くような微かな音が響く。

降り注いだ大量のごまドレッシングが、布地に染み込む暇もなく、猛烈な勢いで「吸い込まれて」いく。

繊維の一本一本が、美容を司るモンスターの触手となって、巨大な不純物を「捕食」し始めたのだ。


「……ひ、……あッ!? なにこれ、待って! やばい、これやばいわッ!! 止めてッ、コウタ、これ止めてッ!!」


カナの顔から血の気が引き、代わりに肌が異常なまでの発光を始めた。

パンツに宿る怪物が、ごまドレという大量の有機エネルギーを喰らい、過剰なデトックスをカナの体内へとフィードバックしているのだ。


「……吸われすぎッ! あたしの中の何かが、ごまドレと一緒に全部持っていかれるッ! ああああッ! 脳みそがッ、脳みそが洗われるみたいいいいいッ!!」


カナは腰を浮かせ、白目を剥いてガタガタと震え出した。

一千円で買った聖遺物が、ごまドレを燃料にして、持ち主であるカナの存在そのものを「洗浄」しようとしている。

コウタは、ごまドレを飲み込みながら、不気味な鈍色に光り輝くベージュの布地を、ただ冷徹に見つめていた。

やはりこれは、ただのパンツではなかったのだ。


「……おい、カナ。お前、さっきから顔が……さっきの浄化された白さじゃないぞ。茹で上がったタコみたいに真っ赤だぞ」


コウタは後ずさりしながら、ベッドの端に追い詰められていた。

四畳半の空気は、先ほどまでの清涼な「無」の香りを、濃厚な胡麻の脂臭と、カナの毛穴から噴き出す暴力的なフェロモンが塗り替えていた。

カナは、ひしゃげたドレッシングのボトルを足蹴にし、四足歩行の獣のような姿勢でコウタを見上げている。


「当たり前でしょッ! 浄化のフェーズは終わったのよッ! この『BBA-URYY』がごまドレを……一キロ分もの高純度エネルギーを『捕食』した瞬間、あたしの細胞のスイッチが切り替わった(リミットブレイク)のよォッ!」


カナは自らの胸元をかき毟り、狂ったような熱を帯びた瞳で叫ぶ。


「いいッ!? ゴマはね、古代エジプトやインドでも『性エネルギーを高める秘薬』として珍重された、生命の根源ジェネレーターなのよッ! 豊富に含まれるセサミンとビタミンEが、このパンツの繊維に宿るモンスターと化学反応ケミカルリアクションを起こして、あたしの女性ホルモン(エストロゲン)を通常の三千倍に跳ね上げているのッ!」


カナは喉を鳴らし、獲物を定める猛禽類のように身をよじった。


「不飽和脂肪酸が潤滑剤となって、繊維の触手が私の奥底まで浸透しッ! あたしの本能を、この四畳半という宇宙の限界まで膨張させているのよッ! 今、あたしの全身は一粒の巨大な『胡麻』となっているの!」



「……待て待て待て! なんでお前、そんなにゴマの効能に詳しいんだよッ!? お前、ハンターだろ普通の! どっからそんな怪しい知識持ってきたんだよッ!」


コウタがたまらずツッコミを入れると、カナは一瞬だけ動きを止め、不気味に口角を吊り上げた。


「……フフ、無能ねコウタ。……女が『百万円のパンツ』を手にした時、その脳内にはッ! 歴代の家畜セレブたちが蓄積してきた『美と愛のデータベース』が直接ダウンロードされるのよォッ! 経験したこともない歴史が、あたしの海馬を今も蹂躙してるわッ! ああああッ! あっちっち、あっちっちなのよッ!!」


カナは咆哮し、弾かれたようにコウタの胸元へ飛びかかった。

一千円で買った聖遺物が、一キロのごまドレを燃料にして恋する女性へと作り替えてしまった。

コウタは、迫りくる胡麻の匂いと、逃げ場のない愛の渦に飲み込まれながら、自らの指先が、彼女の熱すぎる肌に吸い付いて離れなくなるのを感じていた。


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