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第三十九話:『聖遺物の肌触り、あるいは魂の剥離』
「……もういいから。とりあえず風呂入ってこいよ。その百万円、汚したくないだろ」
コウタは安酒の空き缶を潰しながら、呆れたように浴室を指差した。
カナは、大切そうに胸に抱えていたベージュ色の布地を、まるで壊れ物を扱うように両手で捧げ持った。
「そうね……そうよ! こんな尊いもの、今のあたしの薄汚れた体で触れるなんて万死に値するわ! 洗ってくる! 隅々まで磨き上げてくるわよ、この無能!」
カナは、コウタから奪い取ったパーカーを脱ぎ捨て、全裸に『BBA-URYY』だけを握りしめて浴室へと駆け込んだ。
バタン、と乱暴にドアが閉まる音が響く。
直後、猛烈な勢いでシャワーが噴き出す音と、石鹸の泡が弾ける微かな音が四畳半まで漏れてきた。
十分。
二十分。
普段なら烏の行水で済ませるはずのカナが、いつになく入念に自分を磨き上げている。
やがて、水の音が止まった。
静寂が訪れたかと思った次の瞬間、浴室の奥から、女の喉を震わせるような、絞り出すような奇声が響き渡った。
「URYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY!!」
コウタは、思わず持っていたグラスを止め、浴室のドアを見つめた。
それは苦痛の叫びではなく、かといって単純な歓喜でもない。
もっと根源的な、細胞が一つ一つ組み替えられていくような、不気味なほど透明な咆哮だった。
「……おい、生きてるか?」
返事はない。
代わりに、浴室のドアがゆっくりと、音もなく開いた。
そこから溢れ出したのは、先ほどまでの湿った生活臭ではない。
抜けるような、清涼な、それでいてどこか非人間的な「無」の香りだ。
「……コウタ。見て。あたし、人間辞めたわ」
「……下着って、すげえな。そんなに変わるもんなのかよ」
コウタが呆然と呟くと、カナは虚ろだった瞳に異様な熱を宿し、膝立ちのまま一気に距離を詰めてきた。
「当たり前でしょ! これ、ただの下着じゃないわよ! 『BBA-URYY』はね、高級なデトックスや新陳代謝、果ては美容を司る『モンスター』を素材に組み込んだ、生きた概念なのよ! 肌に接触させるだけで、そのモンスターの効能をダイレクトに細胞に送り込む……文字通りのオーパーツ、値段相応の『怪物』なのよガチで!」
「……なあカナ、ちょっと聞きたいんだけどさ。それ、本当に百万円で買えるもんなのか? サイトにはそう書いてあったけど……今の変化を見てると、なんかもっと、もっと高いような気がしてきたぞ」
コウタの冷ややかな、けれど確信めいた問いに、カナの口角が歪に吊り上がった。
「……ふふ、あんたやっぱり鋭いわね。そうよ、百万円なんてただの『数字上の建前』に過ぎないわ。いい、よく聞きなさいよ。女にとって『老い』や『汚れ』はね、細胞の一層一層に深くへばりついた呪いなの。普通の美容液なんて、その呪いの表面を撫でるだけ。でもこれは違う。肌に接触させた瞬間に、繊維に宿った怪物が毛穴から侵入して、あたしの中に溜まったドロドロの毒素を、脂肪を、美川漁港の脂っこい記憶ごと全部喰い殺してくれるのよ!」
カナは自らの首筋を愛撫するように指でなぞり、狂気じみた速さで言葉を継ぐ。
「今、あたしの新陳代謝は爆速で回り始めてる。古い不潔な細胞が瞬時に死滅して、代わりに純粋な『美』だけが超速で再構築されていく……。血流が黄金に変わって、脳髄まで洗浄されていくこの感覚、あんたにわかる!? これこそが全人類の女が、魂も、未来も、尊厳すらも売って手に入れたかった究極の『脱皮』なのよ! 百万? 一千万? 冗談じゃないわ、これは国家予算を積んでも手に入らない、選ばれた者だけが纏うことを許される神の皮膚よ!」
カナは自分の滑らかな太ももを指先でなぞりながら、陶酔しきった表情で言葉を重ねる。
「これ、本物だったわ……。偽物じゃこの浸透圧は出せない。着ているだけで全身の血流が黄金に変わって、脳髄まで洗浄されていくこの感覚、あんたにわかる!? コウタ、あんた、本当に神様か何かなの!? なんでこれを千円で拾ってこれたのよ!」
「……おい、生きてるか? 人間辞めたって、なんだよ。下着一枚で大袈裟だろ」
コウタの問いに、カナが奇妙な角度で首を傾げた。その瞳には、安酒に溺れる女の濁りは微塵もない。
「大袈裟あぁ!? 違う、断じて違うわッ! コウタ、あんた何もわかってないわねッ! 今、あたしの脊髄に直接書き込まれた『真実』がッ! サイトの謳い文句が血流と共に逆流して脳髄を焼いているのがわかるわッ!」
カナは自らの腹部に指を食い込ませ、不自然なほど瑞々しくなった肌を誇示するように身をよじった。
「いいッ!? この繊維の一本一本がッ! 美容と再生を司る『新陳代謝の怪物』を強引に織り込んだ『吸血の触手』なのよッ! 肌に触れた瞬間ッ! 毛穴という毛穴から微細な触手が侵入しッ! あたしの中に溜まったドロドロの毒素もッ! 脂肪もッ! 忌々しい美川漁港の脂汚れもッ! 根こそぎ『捕食』してエネルギーへと変換しているのよッ!」
カナは激しく吐息を漏らし、陶酔しきった表情で虚空を掴んだ。
「今ッ! あたしの細胞は人間としての旧い死を迎えッ! この『怪物』の一部として再定義されているッ! 重力という『老い』の足枷から解き放たれッ! 魂が沸騰した聖水のように純化されていくこの感覚ッ! これこそが全人類の女が、家を焼きッ! 親を売りッ! 人生というカードを全て差し出してでも手に入れたかった『神の皮膚』なのよォオオオッ!! 百万? 一千万? 笑わせないでッ! これは宇宙の法則がバグを起こして産み落としたッ! たった一千円の『終着駅』なのよッ!!」
カナはそのまま、糸が切れた人形のようにコウタの膝元へ崩れ落ちた。
「……コウタ、ありがとう。これ、最高。あたし、本当に大好きすぎるわ……。ババパンだなんてッ! このあたしのスカタンな口を縫い合わせてやりたいくらいだわッ! あんたは無能なんかじゃない……あたしをこの汚物まみれの人間界から救い出してくれた、唯一無二の救世主よッ!!」
彼女は赤子のような無垢な瞳でコウタを見上げ、その膝に顔を擦り寄せた。
一千円で買い叩かれた、一千万円以上の価値を持つ聖遺物。
「……なあ、カナ。これだけは言っておきたいんだけどさ」
コウタは、ごまドレでぬらぬらと光るカナの肩を抱き寄せたまま、天井の染みを見つめて呟いた。
その声は、祭りの後のような静けさと、形容しがたい疲労感を帯びている。
「何よ! 改まって……っていうか、お昼の告白、もう一度やりなさいよ! ちゃんとあたしの目を見て、逃げずに言いなさいよッ!」
カナは、パンツに宿るモンスターの熱に浮かされながらも、執拗にコウタの愛を求めて顔を覗き込んできた。
その瞳はまだ、ごまドレのエネルギーを吸い尽くしてギラついている。
「へへっ……おもしれえ女」
「……はあぁ!? あんた、それ、なんか別のやつじゃない! なんで今、そんな安い少女漫画みたいなセリフ吐いてんのよ! 場の空気読みなさいよッ!」
カナが顔を真っ赤にして、コウタの胸ぐらを掴んで揺さぶる。
激しい動きのたびに、部屋中に濃厚な胡麻の匂いが再循環していく。
「……わりい。わりい……ゴメン、カナ。大好きだよ」
「とってつけた風に言ってんじゃないわよ! セリフの語尾がごまドレの油分で滑ってるのよッ! この無能ッ!!」
カナは毒づきながらも、その腕に込める力を緩め、再びコウタの首筋に深く顔を埋めた。
一千円の聖遺物が、一キロのごまドレを喰らって、二人の距離を「一ミリ」の隙間もないほどに密着させていた。
「……ふふ、……ははっ、あはははは!」
コウタがたまらず、喉の奥から乾いた笑いを漏らした。
目の前には、世界一高価なパンツを履きながら、世界一安っぽいドレッシングにまみれて、必死に愛を乞うてくる「おもしれえ女」。
そのあまりのアンバランスさと、自分たちの救いようのない現状が、急にこっ放ずかしく、そして愛おしくなった。
「な、なによ……! 何がおかしいのよ、不気味ねッ!」
「いや……だってお前、ごまドレだぞ? 一キロだぞ? ……そんなもん浴びて『繁殖モード』とか言ってる奴に、まともな告白なんかできるわけねえだろ」
「……っ! ……あ、あはは! そうね、そうよ! あたしたち、一千円で神様を買い叩いて、ごまドレでその神様を汚してるのよね……! ほんと、バカみたい!」
カナもまた、コウタの胸に顔を埋めたまま、肩を震わせて笑い始めた。
四畳半の蒸せ返るような空気の中で、二人の笑い声が共鳴し、重なり合う。
それは祝福でも何でもない、ただの「壊れた者同士」の、泥沼の底での哄笑だった。
「……大好きよ、コウタ。胡麻の粒くらい、あんたの人生にへばりついてやるわ」
「ああ……。俺もだよ。一生、洗っても落ちないくらいにな」
二人は重なり合ったまま、深夜の静寂の中で、いつまでも笑い続けていた。
胡麻の匂いと、安酒の呼気と、そして誰にも立ち入ることのできない、二人だけの純粋な狂気に満たされながら。




