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第三十八話:『浴室の残滓、あるいは嗅覚の隷属』


「……っ、……もう限界。ねえ、さっさと準備しなさいよ!」


アパートの狭い四畳半。

ドアを閉めるなり、カナは泥に汚れた『あかまむし』製の200円ブラウスを苛立たしく脱ぎ捨てた。

安物の染料と鉄錆の匂いが混ざり合い、部屋の空気を重く沈ませる。

コウタは心身の摩耗を自覚しながらも、先に浴室へと這い入った。

一時間。

美川漁港での重苦しい記憶と、冷えた泥の感触を洗い流そうとするうちに、湯気に巻われて思考が溶けていた。

浴槽の縁に頭を預け、危うく意識を手放しかけていたその時、浴室のプラスチックのドアが、外から乱暴に、拳で何度も叩かれた。


「コウタ! まだなの!? 溺れてんじゃないでしょうね! あたしも入りたいんだから、さっさとあがりなさいよ!」



「……今あがる」


コウタは滴る水を雑に拭い、脱衣所へと踏み出す。

だが、そこに置いてあったはずの、自分が着るつもりだった『ペンギン』の新品スウェットも、脱ぎ捨てたはずの古いパーカーも、影も形もなくなっていた。


「やっとあがったの! ちょっと遅くない!?」


入れ替わりで浴室へ駆け込むカナの肩には、コウタが脱ぎ捨てたばかりの古いパーカーが、温熱と生活臭を孕んだまま羽織られていた。

数分後。

浴室から溢れ出す熱い蒸気と共に、カナが再び居間へと現れた。

髪を拭うこともせず、彼女はコウタから奪い取った古いパーカーのジッパーを、わざとらしく胸元まで大きくはだけさせている。

その隙間から覗くのは、コウタが先ほど『ペンギン』で選ばされた、面積の極端に少ない「漆黒のレース」だ。

男の泥臭い生活臭が染み付いたパーカーと、鋭利な殺意のような勝負下着。

その暴力的なまでのコントラストを振りまきながら、彼女はローテーブルに陣取った。


「……ちょっと、見てよこれ。あんた、本気でこんなの選んだわけ? 信じられない、とんでもない変態ね」


カナはテーブルの上に広げられた、今日買ったばかりの「戦利品」を指差した。

そこには、紐のような細いストリングや、透け感の激しい極小の布地が、まるで解体された獲物のように並べられている。

彼女はストロングゼロを煽り、一キロ入りのごまドレッシングを、カット野菜の袋に直接ドロリと注ぎ込んだ。


「……言っただろ。お前が『何でもいいから一番エロいの選べ』って脅したからだ。……あと、そっちのババパンも買っただろ。それは普段用だ」


コウタは、漆黒のレースの横に置かれた、あまりにも色気のない、ベージュ色の深い「ババパン」を指差した。

その瞬間、カナの顔がアルコールとは別の熱で真っ赤に染まった。


「あんた、どういうつもりよ! 隣にいる彼女なら、いつもキレイでいてほしいでしょ! ババパン履かせる男がどこにいんのよ、この無能!」


カナはごまドレまみれの唐揚げを放り出し、テーブルを叩いて立ち上がった。

はだけたパーカーの下で、漆黒のレースが挑発的に波打つ。


「……言ったろ、普段用だって。別にお前がババパン履いたって、カナが履いたなら、それだけで高級なブランドもんに見えるよ。……似合うと思うぞ」


コウタは無表情のまま、手元のスマートフォンの画面をカナに突きつけた。


「……そもそもそれ、ババパンか? ほら、見ろよ。元値、相当高かったんだぞ」


そこには海外の高級ランジェリーブランド『BBA-URYYババア・ウリィイ』の公式ページが開かれていた。

漆黒の背景に浮かび上がる、ベージュ色のシンプルな布地。

そこに記された価格は、日本円換算で「1,000,000円」を超えていた。


「はぁ!? ……ちょっと待って、これ……BBA-URYYババア・ウリィイじゃない! 嘘でしょ、これ本物なの!?」


カナはスマホを奪い取り、画面を凝視した。

目の前の「ババパン」と、スマホの中の「芸術品」。

色が、股上の深さが、そしてその独特の機能美を感じさせるカッティングが、寸分違わず一致している。


「あんた、なんてもん買ってんのよ!!! 意味わかんない、意味わかんないわよ! 百万円のパンツあんた! バカじゃない! いくらしたの! 無駄遣いすぎるでしょ!」



「ペンギンで棚卸しの処分品だったんだよ。99.9%オフでちょうど 1,000円。本物かどうかは知らんけど、店側はそうやって売ってた」



「本物に決まってるじゃない、この質感! あんた、本当にバカね……これ、人間辞めたくなるくらい履き心地良くてババアでもウリィイってなって肌年齢若返る謎の極少数生産品なのよ!? なんであんのよセールで!」


カナは画面と「ババア・ウリィイ」を交互に見つめ、あまりの事態に震える手でベージュの布地を抱きしめた。

コウタは冷めた声で、淡々と、けれど淀みなく、見え透いたお世辞を付け加えた。


「カナが履けば、それだけで百万円なんて超えるよ。ちなみに普段使い用に 3つ買っといたしフリマサイトでうる?」


カナは言葉に詰まり、口を半開きにしたまま固まった。

怒りと、予想外の肯定による混乱。

彼女は乱暴に自分の胸元を掻きむしり、パーカーの襟を鼻先まで引き上げると、そこに残るコウタの匂いを深く、深く吸い込んだ。


「絶対売らないから! まだあった?」



「いやそれで最後。買い占めた」


再び腰を下ろし、ごまドレの袋に指を突っ込んだ。

撥水加工されたコウタのトレーナーに弾かれたドレッシングの滴が、彼女の太ももを滑り、漆黒のレースへと吸い込まれていく。

コウタは、何も考えないことにした。

世界で自分だけが知っている、勝負下着と百万円の真実と、ごまドレの匂い。

それだけが、この四畳半に許された、唯一の不潔で絶対的な「愛」の形だった。


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