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第三十七話:『免罪符、あるいは不潔な聖域』
美川漁港の冷たい潮風と、返り血の混じった泥の匂いを引きずったまま、軽トラは深夜の『ペンギン』へと滑り込んだ。
アスファルトを叩く氷雨が、フロントガラスを白く濁らせる。
カナは助手席の深く、パーカーのフードの中に顔を埋めたまま、シートベルトを握りしめていた。
その下には、泥に汚れた「織色」製の漆黒のバトルスーツが、第二の皮膚のように彼女の肢体を締め付けている。
「……私、降りないからね。あんな場所、二度と足を踏み入れたくないわ。……ほら、さっさと行ってきなさいよ。……私の、……分かってるわよね?」
「……ああ。ビデオ通話、繋ぎっぱなしにしとけよ」
コウタは心臓の重い動悸を無視し、スマホを掲げて店内に踏み込んだ。
深夜の店内。コウタの体力はもう限界だった。別の店へハシゴする気力など、一滴も残っていない。
スピーカー越しに響くカナの指図に従い、数日分の派手な下着を回収する。だが、棚の前でコウタの指が止まった。
「……これ、サイズどっちだ。Mか、Lか……」
『な、……アンタ、それ、本気で聞いてるの? ずっと私のことファインダー越しに監視してるくせに、そんなことも分からないわけ?』
「映像じゃ正確なサイズなんて分からないだろ。……いいから教えろ」
コウタの淡々とした、実務的な問いかけ。
スマホの向こうで、カナの呼吸が止まる。静寂のあと、耳元を熱くさせるような、それでいて震えるほど明瞭な数字が告げられた。
『……っ、……Mよ。上下、全部……そのサイズで買いなさいよ。……っ、さっさと選びなさいよ、この変態!』
『……もっと右! 違う、その隣の、一番派手なピンクのやつよ! ……あ、やっぱりそっちの黒も。……あー、もう! アンタ、そんな一個選ぶのにモタモタして、私のこと一生穴の開いたやつで我慢させるつもり!? 洗い替えも全部買いなさいよ、この無能!』
「……わかった。黒、上下セット。……次、どれだ」
コウタは心拍数一つ変えず、機械的にカゴへ放り込んでいく。
そのあまりの「事務作業感」が、スマホ越しのカナの焦燥を煽った。
彼女にとって、下着を選ばせる行為は一種の「支配」であり、コウタの動揺を引き出すための「儀式」だったはずだ。
だが、コウタはまるできにしない手つきで、レースの海をかき分けていく。
『……じゃあ、その奥にあるやつ! そう、それよ! それも買いなさい! ほら、さっさと手に取りなさいよ、この変態!』
コウタの手が、ほぼ「細い糸の束」にしか見えない布切れを掴んだ。
指先に伝わる感触は、心許ないほどに薄く、頼りない。
「……これ、下着か? ほとんど布がないけど。……まあいい、サイズは同じでいいんだな」
『い、いいに決まってるでしょ! アンタにはそんなの、ただの「布の端切れ」にしか見えないでしょうけど、私には必要なのよ! ……ほら、次! その隣の、もっと透けてるやつ!』
カナの声は、明らかに上気していた。
コウタを揺さぶるために、より過激に、より露出の激しいものを指定していく。
だが、エスカレートすればするほど、コウタは「面積が減って掴みにくくなった物体」としてしかそれを認識しない。
彼は、自分が選ばされているものの「意味」に気づかない。
ただ、カナが指定した「色」と「サイズ」という記号を、カゴという名の収容所に送り込み続ける。
「……おい。さっきからどんどん、布の量が減ってきてるぞ。……これじゃ、洗濯してもすぐ迷子になりそうだな」
『……うるっ、……さいわね! アンタは黙って、私が指示したやつを買い占めればいいのよ! ……ほら、次! ごまドレッシングよ! 1キロ!』
カナは、自分の心臓がうるさすぎて、もう下着の指示を続けられなかった。その隙間に、これまた絶妙にダサいキャラクタープリントのスウェットが突き刺さっていた。
コウタはついでに、その横にあった、色気も何もないベージュの塊を三つ、無造作に掴み取った。
すれ違う深夜作業明けの男たちが、ゴミを見るような目でコウタの腕の中を一瞥し、足早に去っていく。
レジに向かう道すがら、品出しをしていた女性店員と目が合った。彼女の目が点になり、次いで「見てはいけないものを見た」という怯えの色が浮かぶ。
(……やべえ。通報されるか?)
背中に嫌な汗が流れる。だが、その危機を救ったのも、コウタを追い詰めているはずのその声だった。
『ちょっと! 下着選びで魂抜けてんじゃないわよ! ……次、その左にある「ぺ」のごまドレッシング! 一番デカいやつよ! それがないと私の夜食が始まらないって言ってるでしょ、この無能!』
店内のBGMを掻き消すほどの傲慢な声。
女性店員の動きが止まった。周囲の客の視線が、コウタの手元にあるスマホへと集まる。
画面には映っていないが、その声の主が「相当にワガママで、この男を顎で使っている女」であることは、誰の目にも明らかだった。
『ほら、さっさとカゴに入れなさいよ! 似合わないとか余計なこと考えなくていいの! アンタは私が選んだものを、黙ってレジまで運べばいいんだから! 分かった!?』
「……分かったよ。今入れる。……ごまドレッシング、一キロな」
コウタが死んだ魚のような目で、無機質にドレッシングをカゴへ叩き込む。
その瞬間、周囲に漂っていた「変質者への恐怖」が、急速に「凄まじい女に捕まった哀れな男への同情」へと変質した。
女性店員はインカムから手を離し、どこか救いようのないものを見るような、慈悲に満ちた、けれど決して関わりたくはないという複雑な眼差しでコウタを見送った。
自分の分として「家で着るだけならいい」と割り切った、派手なキャラクタープリントのスウェットと、太いゴムにブランドロゴが並ぶボクサーパンツも数着追加した。
棚には「ぺ」の文字が大きく躍るプライベートブランドの商品が並んでいる。
彼は投げやりに、一キロ入りの「ぺ」印の冷凍唐揚げ、袋入りのカット野菜をカゴに放り込んだ。酒も、棚の隅で見つけた安い日本酒の一合瓶……これにも「ぺ」のシールが貼ってある。
会計を終え、袋を抱えて車に戻ると、カナは獲物を確認するような鋭い視線をパンパンに膨んだ袋に投げかけた。
「……買ってきたけどさ。あそこの『ペンギン』、ラインナップやべえな。あんなもん、一般向けに置くなよ。店員に通報されかけたぞ」
コウタが死んだ魚のような目で、袋から「布地の少ない例のアレ」を引っ張り出した。
カナはベッドの上で、コウタが買ってきたダサいキャラものスウェットを握りしめ、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「……なによ! アンタ、私が選んだものにケチつける気!? せっかくアンタみたいな変態が、私のためにレジに並んだっていうのに!」
「……変態扱いされる側の身にもなれ。……てかカナ。次からはもっと、こう……ババアが履くような、しっかりしたやつにしろよ。おしとやかなやつだ」
「……はぁ!? コウタ、私にババパンなんて履いてほしいわけ!? アンタ、あたしの何なのよ! ……女として見るなら、あたしが選んだこれが正解だって思いなさいよ!」
カナが指差したのは、もはや布よりも紐の割合が多い、漆黒のレースだった。
「……いや。それ、穴の空いた下着より酷いだろ。……もはや構造物として破綻してる。お前の言う『可愛い』が、一ミリも理解できない」
「……分かってない! これが可愛いの! これが今の私の勝負下着なのよ! ……アンタ、私の可愛さが分からないなんて、本当に救いようのない無能ね!」
「……知らねえよ、下着の可愛さなんて。……そもそも、お前の下着の可愛さって何なんだよ。定義を教えろ。……それより、ごまドレ、一キロ買ってきたからな。早く食え」
コウタは投げやりに、一キロ入りのごまドレッシングを机にドン、と置いた。
「普段用だ。……いらないなら明日、返品してくるが」
ベッドの上に広がったのは、先ほどまでの「紐の束」とは対極に位置する、面積が広く、見るからに頑丈そうな綿100パーセントのパンツ。
そして、それと同じ色をした、ワイヤーの一切ない、実用性のみを追求したブラジャーだった。
カナの動きが、屈辱と驚愕で完全に止まった。
「……コウタ。……なによ、これ! こんなの、一言も頼んでないわよ! 誰がこんな、おばあちゃんの知恵袋みたいなの履くって言ったのよ!」
「普段用だって。サイズはMで合ってるだろ。あ、上下三セットあるから、洗い替えも安心だぞ」
「三セットも! なに考えてんのよ、アンタ! こんなの、こんなっ、……これを、私に履けって言ってるわけ!? アンタ、あたしの何なのよ!」
カナの声は、怒りに震えていた。
けれど、その視線は、憎らしいほど暖かそうな「厚手の綿」に吸い寄せられている。
コウタは彼女の追及を無視し、袋から取り出した「別の塊」……自分が着るための、どぎついキャラクターがプリントされたスウェットに着替え始めた。
「……なによ、そのスウェット。……ぷっ、……あはは! アンタ、センス終わりすぎ! かわいいと思って着てるわけ? それ、めっちゃ痛いから! 救いようのない不審者ね!」
カナが、自分に向けられた「ベージュの暴力」を棚に上げ、コウタのダサすぎる格好を指差して笑う。
コウタは、腹部に大きく描かれた得体の知れないキャラクターの顔を無表情に見下ろしたあと、カナの足元にあるベージュの塊に視線を戻した。
「お前の下着と、俺のトレーナー。どっちが『かわいい』んだ?」
「……違う! かわいいの意味が、……かわいいのジャンルが全然違うのよ! このバカ! アンタのそれは『痛い』の! 私の紐パンは『武装』なの! このベージュは……『絶望』よ!」
「そうか。じゃあ返品するか。紐で一晩中、腹を壊してろ」
コウタが手を伸ばし、ベージュの袋を回収しようとする。
その瞬間、カナは素早い動きで袋を抱え込み、コウタの背中に思い切り頭をぶつけた。
「全部使うわよ! アンタが、変態の分際で、私に恥をかかせてまで買ってきたゴミなんだから!
でも
ありがとね」
カナは顔を真っ赤にしながら、ベージュの布地を抱きしめた。
鼻を突く「ぺ」のごまドレッシングの匂いと、安酒のアルコール。
そして、絶望的にダサいスウェットを着た男。
この世界一お洒落じゃない、不潔で、けれど温かい「檻」の中で、カナは満足げに、新品の糊の匂いがするキャラクターの顔に自分の顔を押し付けた。




