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第三十六話:『潮騒の檻、あるいは共犯の体温』
美川漁港、最北端。
波の音が、耳障りなほどにデカい。
鉄パイプの錆びた匂い。
凍りついた消波ブロックの隙間。
そこから、ドロリと「それ」が這い出してきた。
〈深海棲の氷蝕鬼〉。
それも、二体同時。
——あー、最悪。
マジで、殺す。
カナは、感覚の消えかけた指で、ノーマルソードを握り直す。
冷たい霙が、容赦なく身体を叩く。
ガタガタと震える手で、影の糸——【絡め取る残火】を展開した。
狙うのは、隣に立つ男。
コウタの腰と脚を、これまで以上に「執拗に」縛り上げる。
「 ……あんた。……自分から、……一歩でも離れたら、……承知しないからね 」
精一杯の、虚勢。
コウタは無言だ。
ただ、赤くなった指先でコントローラーを握り、モニターを凝視している。
「 ……分かってる。……昨日よりは、……マシに動くよ 」
配信開始。
赤いランプが灯った瞬間、カナの顔から「体温」が消える。
——スイッチ、オン。
「 ……さあ、……見なさいよ、……愚民ども! ……こんな凍えそうなドブに、……この無能を扱き使いに来てあげたわよ! 」
カメラに向かって、最高に傲慢な笑みを貼り付ける。
だが、影の糸は嘘をつけない。
糸を伝って、コウタのバクバクと騒がしい心拍が、カナの脳に直接流れ込んでくる。
——うるさい。
——でも、これが「生きてる」感触。
「 ……カナ、……右! ……甲殻、……そこだけ薄い! 」
コウタの叫び。
かつての「ビビリ」はもういない。
カナは、泥濘を蹴った。
バチン、と氷が弾ける。
だが、二体目の爪が、カナの背後に迫っていた。
——間に合わない。
「 ……カナ、……動くな……っ! 」
瞬間。
腰の糸が、肉に食い込むほどの強さでカナを真後ろに弾き飛ばした。
泥に膝をつき、必死に自分の体ごと糸を引くコウタ。
カナは、そのまま彼の腕の中へと転がり込んだ。
——ドクン、ドクン、ドクン。
背中に、彼の心臓の音が響く。
恐怖が、一瞬で「殺意」という名の熱に変わる。
「 ……余計なこと、……しないでって言ってるでしょ、……ボケ! 」
泥まみれのまま、跳ね起きる。
即座に、コウタの手がカナの背中を打った。
「 ……肉体回帰……! ……いけ! 」
——きたっ。
魔力が、劇薬のように血管を焼く。
この、頭が真っ白になるような、最悪で最高の感覚。
「 ……っ、……あぁ、……これよ、……これ……っ! 」
狂気の連撃。
二体の氷蝕鬼が、まとめて粉砕された。
……静寂。
荒い呼吸と、霙の音だけが残る。
カナは震える手で、配信停止ボタンを叩き潰すように押した。
「 ……はぁ、……はぁ。……死ぬかと思ったわよ、……マジで 」
コウタは、魔法の反動で胸を押さえ、荷台に腰を下ろした。
「 ……帰ろう。……もう限界だ。……やっぱり、……割に合わないな、……ここは 」
泥に溶けていく魔物の残骸。
カナは、魔石を爪先で転がしながら、コウタを振り返った。
飢えている。
戦いだけじゃ満たされない、もっとドロドロした何かに。
「 ……ふん、……まあまあの稼ぎね。……でも、……でかいのは、……出なかったわね 」
かつて遭遇した、巨大個体。
死の淵で、二人の魔力が「混ざり合った」あの、脳が腐るような快感。
カナはコウタの首筋を掴み、顔を至近距離まで寄せた。
「 ……ねえ。……あんた、……またアレを、……期待してたでしょ? 」
期待に震える、自分の指先。
コウタは何も答えず、ただ静かにカナの手を解いた。
「 ……帰ろう。……ペンギンで、……一番度数の高いやつ、……買ってやるから 」
軽トラ「ダンジョンキャリーMK-II」に逃げ込む。
凍りついたドアを閉め、ヒーターを全開にする。
温風が吹き出すまでの数分間。
二人は、互いの「汚れ」を分け合うように、狭い車内で身を寄せ合った。
泥のついたカナの手が、震えるコウタの手を、無言で握り締める。
——この、泥と、鉄と、あんたの匂い。
アパートに帰ったら、今の「好き」の続きを、どうやって分からせてあげようか。




