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第三十五話:『冷めた朝と、乾いた契約』
昼過ぎの重い光が、カーテンの隙間から散らかった六畳間に差し込んでいた。
カナは割れるような頭痛とともに目を覚ます。口内には昨夜のポン酢と安酒の、ひどく不快な後味がへばりついていた。
横を見れば、キッチンでコウタが淡々とドローンのプロペラを拭いている。昨夜、自分が彼を押し倒し、あんなにも醜く縋り付いた記憶が、鮮明すぎる解像度で脳裏をよぎった。
「……いつまで、ボサッとしてんのよ、無能。……さっさと機材、片付けなさいよ」
カナは震える声で、精一杯の虚勢を張った。昨夜の「好き?」なんて問いかけを、上書きして消し去るための罵倒。
コウタは手を止めず、感情の読み取れない声で応える。
「……あそこ、あんまり稼げなかったな。昨日の今日だし、今日はもう休んだほうがいいんじゃない? 一応、準備はしたけど」
カナは答えられず、黙って鏡に向かった。
メイクで塗り潰しても、昨夜の涙の痕が、自分の弱さが、消えてくれないような気がした。
「……カナ。昨日、覚えてるか分かんないけど」
コウタが不意に、作業を止めてこちらを見た。
「……カナのこと、好きだよ」
あまりにもサラッとした、挨拶のような告白。
カナの持つファンデーションのパフが、床に落ちた。心臓が跳ね、視界が白く明滅する。
「……えっ。……今、なんて、言ったの?」
カナが縋るような目で振り返ると、コウタは途端にバツが悪そうに視線を逸らし、乱暴に機材バッグのジッパーを閉めた。
「……いや、覚えてないならいい。忘れて」
夕暮れ、重機と貨物列車の音が響く小松市の裏道。
カナは軽トラの助手席でシートベルトを締め、窓を開けて髪を風になびかせていた。
隣でハンドルを握るコウタは、目の前の道に集中している。さっきの部屋でのやり取りから、車内にはひどく居心地の悪い沈黙が流れていた。
「……ねえ。もう一度言って」
カナが不意に、窓の外を向いたまま掠れた声を出した。
走行音に掻き消されそうなほど小さな声。コウタは視線を正面に向けたまま、生真面目な顔で問い返す。
「……何が。……防風林の先の砂地で降りるって話?」
「違うわよ、ボケ。……さっき、部屋で言ったこと」
カナは膝の上で、スカートの布地をぎゅっと握りしめた。
コウタは喉を一度鳴らし、赤くなった耳を隠すように視線をわずかにモニターへ逃がした。
「……だから、覚えてないならいいって。……忘れてよ」
「忘れるわけないでしょ。……あんた、私に言ったじゃない。……好きだって」
カナが横を向くと、コウタは観念したように短く息を吐いた。
「……そうだよ。好きだよ。……だから何だよ、仕事中に」
「……べつに。……確認しただけよ」
カナは再び窓の外へ視線を戻した。
夕闇に沈む手取川。これから向かうのは、かつて死にかけた因縁の美川漁港だ。
「好き」だなんて言葉、この泥沼のような生活には似合わない。それでも、その一言が、昨夜から続く喉の奥の鉄臭さを、ほんの一瞬だけ消してくれたような気がした。
「……行くよ、コウタ。……遅れないで」
「……わかった」
軽トラがダートの未舗装路に入り、激しく揺れる。
二人は再び「ビジネス」という冷たい鎧を纏い直し、潮騒の響く魔境へと足を踏み入れていった。
軽トラを降りた瞬間、叩きつけるような冬の海風が、霙混じりの飛沫となって二人の顔を打った。
防風林の向こう、荒れ狂う冬の日本海は鉛色の牙を剥き、巨大な波がテトラポットを飲み込んでいる。
「……海側はやばいな。あんな波にさらわれたら、素材もろとも終わりだぞ」
コウタが顔を顰め、荒ぶる海を指差した。カナはその激しい波音に、かつて死にかけた記憶が疼くのを感じ、わずかに喉を鳴らした。だがすぐに、いつもの傲慢な笑みを張り付ける。
「……当たり前でしょ。
あんな汚い海に私の靴を汚させる気?
汚れたらコウタに洗って貰うから!
河川側へ行くわよ。あっちの方がまだ足場がマシだわ」
二人は逃げるように河川敷へと足を向けた。ドローンの起動ランプが赤く灯り、配信が開始される。カナは一瞬で「高慢な令嬢」の仮面を被り、カメラのレンズを見据えて言い放った。
「……さあ、愚民ども! 今日はこの無能に、私の華麗な狩りを見せつけてあげるわ。海なんて荒れすぎててあたしが汚れるから、この泥臭い河川敷で我慢なさい」
罵倒の裏で、カナの指先は冷気とは違う理由で震えていた。
凍りついた泥の中から、冬の魔力で青白く硬質化した〈氷蝕岩鬼〉が、ずるりとその巨躯を現す。
「……来るぞ、カナ! 足元、凍ってる!」
「うるさいわね! あんたこそ、そんな貧弱な足腰で転んで泥だらけになったら、洗濯、クリーニング、慰謝料、を全額請求フルローンでしてやるんだから!」
カナは叫びながら、影の触手【絡め取る残火】を放った。それは地面を這い、コウタの腰と脚を、これまで以上に執拗に、強固に縛り上げる。
カメラの前では「逃げ出さないように繋いでおく」と説明しているが、その実、それは彼を自分から一歩も離さないための、歪な保護の鎖だった。
魔物が咆哮し、冷気を纏った岩の腕を振り下ろす。
カナは泥を蹴り、愛剣を抜いた。




