表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/59

34

第三十四話:『縋る残滓と、偽りの祝杯』

カナは安物のストロングゼロで喉を焼きながら、ドリップの滴るカツオの赤身を指で弄んだ。

六畳一間のアパート。

テーブルには、パライゾで剥ぎ取った素材を換金して得た、生臭い札束の山が積まれている。


「……ねえ、コウタ。……血の味がするわ。あのパチンコ屋の、錆びた鉄の味が、喉の奥から離れないのよ」


シャリ、シャリ、と一定のリズムで鋼が擦れる音。

コウタはキッチンで、黙々と包丁を研いでいた。

カナがいくら喚いても、その背中はぴくりとも動かない。

研ぎ澄まされていく刃先だけが、暗い台所で冷たく光っていた。


「……それカツオじゃない?

 生姜とか、タマネギとかネギとか。そういう薬味と一緒に食わないと、血臭くて食えたもんじゃないだろ、普通」


カナは苛立ちをぶつけるように、汚れた一万円札を一枚、カツオの皿の近くに放り投げた。

カツオの皿の縁から、粘り気のある赤いドリップが音もなく溢れ出した。

液滴はテーブルの木目を伝い、積み上げられた札束の隙間へと音もなく吸い込まれていく。

乾いた紙幣が、じわじわと、死肉の汁を吸って赤黒く変色していった。


「……生意気よ、無能のくせに。血生臭いなら、最初から薬味くらいかけときなさいよ」


カナは、投げた札がドリップを吸い、皿に張り付いていくのを無表情に見つめた。

コウタが無言で差し出した小皿には、乱暴に刻まれたネギと、チューブの生姜が山盛りになっている。

カナは箸を使わず、指先でその身を掬い上げた。

血色に濡れた赤身。

それに、白く濁った生姜をねっとりと塗り込む。


「コウタ!刺身と私とどっちが好きなのよ!」

「ええエエエ、」


一切れを口に放り込む。

ポン酢の刺すような酸味が、舌の粘膜を強引に暴く。

カナは瞳を閉じ、鼻に抜ける生姜の辛味を肺の奥まで吸い込んだ。

咀嚼するたび、カツオの柔らかな肉繊維が口腔内で解け、鉄を含んだ重い脂が熱を帯びて喉を下っていく。

それはパライゾで浴びた返り血の熱さと、恐ろしいほど似通っていた。


「……あれ、これ、生きてるわ。……ねえ、コウタ。私の舌の上で、まだ心臓が動いてるみたい。……美味しい……じわじわして、……最高においしい」


カナの頬が、酒と悦楽で赤く染まっていく。

彼女は自分の指に残ったドリップを、ゆっくりと、執拗に舌で舐めとった。

鉄の味がする。

自分の血か、魔物の血か、それともこの死肉の血か。

境界が溶け、彼女の舌に不快な、けれど抗いがたい疼きが走り抜けた。


「……ほら、ここ。私が切り裂かれたとこ。あんた、指が動いたわよね。助けようとした? 」


リピートされる数秒のアーカイブ。

カナの瞳には、かつてパチンコ台の液晶を見つめていた父親と同じ、濁った熱が宿っていた。


「……てかなんでパチンコ屋行ったの。カナたぶん嫌いでしょ。オヤジがどうこう言ってるし」


カナは答えず、ストロングゼロを一気に煽った。

人工的な甘みが喉を焼き、肺の奥に溜まった淀みを無理やり押し流す。


「聞いてよ!ねぇ!






 ……結局、私も酒に溺れて……ギャンブルみたいな仕事の配信やってる。



 ……大人になったら……絶対にやらないって……決めてたのに……っ」


静寂。

アパートの換気扇が回る音だけが響く中、カナの瞳から大粒の涙が零れ落ち、ポン酢に浸ったカツオの上に落ちた。

カナは顔を覆い、子供のように声を殺して泣き崩れた。

テーブルに散らばった札束も、ドリップで汚れたカツオも、彼女が最も軽蔑していた「あの日の父親」の残骸そのものだった。

カナは意識が混濁する中、重い頭を揺らしながら、這うようにしてコウタの足元へ近づいた。

酒と涙でぐちゃぐちゃになった顔で、彼のズボンの裾を、壊れた機械のように何度も、何度も掴む。


「……ねえ、コウタ。……もっと、酒。……この音が消えるまで、全部。置いていかないで。……お父さんみたいに」


掠れた声は、配信での高慢な令嬢の面影など微塵もなかった。

カナは視界が歪むほど酔いながら、必死にコウタを見上げる。

その瞳には、彼を支配したい欲望と、彼がいなければ呼吸さえ止まってしまいそうな恐怖が混濁していた。


「……コウタは私のこと好き? コウタがいれば私、何とかなる気がする」


コウタは無言のまま、カナの頭をゆっくりと撫でた。

その手つきには愛情も、憐れみもない。

ただ、怯える獣を鎮めるような、一定のリズム。

それでもカナは喉の奥で小さく鳴いた。


「……ねえ、今日はもっと優しくして。……あんたのせいで、血の臭いがとれない」

「だからそれカツオだって…………う!」

 

カナは震える指先をコウタの首筋に這わせ、爪を立てた。

そのまま縋り付くようにして、彼の唇を塞ぐ。

それは慰めを求めるような、生易しいものではなかった。

ストロングゼロの人工的な甘さと、カツオのドリップ、生姜、ポン酢の味が複雑に混ざり合った彼女の舌が、コウタの口内を蹂躙する。

鉄の味を確かめるように、執拗に、貪るように。

コウタが短く呻き、身を引こうとするが、カナは逃がさなかった。

彼の髪を鷲掴みにし、さらに深く、奥へ。

互いの歯がぶつかり、鈍い音が響く。

唇が裂け、新たな鉄の味が滲み出した。

唾液が糸を引き、二人の境界がドロドロと溶け出していく。

彼女の行動は、正常な精神状態のそれとはかけ離れ、どこか狂気を孕んでいた。

酒の熱と相まって、部屋の空気はさらに重く、湿ったものへと変わっていく。

酸欠で視界がチカチカしても、彼女は止めなかった。

この男の体温と味で、頭の中に鳴り響くパチンコ玉の音を、父親の溜息を、完全に圧し潰すまで。


「……っ。おい、ちょ、待てよ。……金投げんなよ。あと、俺、準備ばっかさせられてて、まだ何も食ってないんだけど」


コウタが困惑したように顔を背け、箸を伸ばそうとする。

だが、カナはそれを許さなかった。

カナは唇を離すと、濡れた瞳でコウタをじっと見つめ、ふわりと、壊れた人形のような無垢な笑みを浮かべた。


「……カツオなんて後でいいでしょ。……こっちの方が、もっといい『味』がするわよ。……無能」


カナはそのまま、コウタの胸元を乱暴に突き飛ばし、床へと押し倒した。

六畳一間の安アパートの床が、鈍い音を立てて軋む。

動揺するコウタを組み敷くように、カナは彼の胸元に跨がった。

その瞬間、彼女自身も気づかないほど深く、長い溜息が漏れる。

アルコールの熱が、彼女の皮膚を、そしてその下にある肉を、不自然なほど艶めかしく、熱く昂らせていた。

バトルスーツの冷たい繊維さえ、今の彼女の体温には抗えず、じっとりと肌に張り付いている。

跨がった膝から、コウタの硬い肉体の感触が、直接、彼女の体内に伝わってくる。

その感触は、パライゾの戦いで感じた恐怖とは違う、もっと根源的な、甘い痺れを伴う疼きを、彼女の奥底に呼び起こした。


「コウタは私のこと好き?好きだよね?

 さっきのコウタ美味しかった。

 私とキスできて嬉しいよね?

 ねぇもっとコウタが舌いれてよ。わたしばっかりじゃない!もっと!


 もっと私のこと求めてよ!何してんのよ!

 

おねがいだから私のこと好きっていってよ」


カナは上体を屈め、コウタの耳元で、濡れた声で囁いた。

彼女の乱れた髪が、コウタの頬を撫で、安酒と生姜の匂い、そして彼女自身の体臭が混ざり合った、濃厚な香気が二人の間に充満する。

露わになった彼の肌に、彼女の指が触れるたび、コウタの体が微かに震えるのを、カナは自身の太腿で感じ取っていた。

その震えが、彼女の支配欲を、そしてその奥にある飢えた欲望を、さらに激しく、深く、焚き付けていく。

彼女は自身の体を、コウタの胸に、執拗に、貪るように押し付けた。

鉄の匂いを、父親の記憶を、この男の体温で、その匂いで、完全に、跡形もなく、圧し潰すために。

唾液が糸を引き、二人の境界が、この狭い部屋の空気ごと、ドロドロと溶け出していく。


この男の全てを、今、ここで、啜り尽くすまで。


「……ねぇコウタ今日のこと全部わすれさせて……お願い辛いの」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ