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第三十一話:『再汚染の代償、あるいは動かぬ檻』

 

「……ねえ、コウタ。どこ行くの」

 

薄暗い寝室の隅、乱れたシーツの海から、掠れた声が響いた。

昨夜、自らの限界を超えて執着し合ったカナだ。

今はその代償を払うように、激しい二日酔いと、酷使した身体の節々の痛みに顔を歪め、指一本動かすのも億劫なほど衰弱している。

 

「どこって……服がないんだよ。お前、昨日俺のシャツに全部吐いただろ。予備ももうない。実家に置いてあるやつを取りに行ってくる」

 

コウタはクローゼットの空っぽなハンガーを眺め、深く溜め息をついた。

昨夜、自分を汚し尽くして「これで私のものね」と笑いながら、果てるまで縋り付いてきた彼女の執念。

鼻を突く酸っぱい匂いと、拭いきれない汗の感覚。

実家の、あの太陽の匂いがする真っ白なシャツを身に纏わなければ、自分まで腐りきってしまうような恐怖があった。

 

「……やだ。行かないで」

 

ズルリ、と重苦しい音がした。

カナが布団から這い出し、四肢を震わせながらコウタの足元まで辿り着く。

内臓を焼くような不快感に顔を歪めながらも、その指先だけは執拗にコウタのズボンの裾を掴んだ。


「離せよ。服がないと、次の撮影も行けないだろ」


「……昨日は、ごめん。……出しちゃったのは、わざとじゃないの。……でも、アンタが、私の匂い以外の服着るの……嫌だったから……」

 

見上げてくるカナの顔は、昨夜の傲慢さは消え失せ、酷く幼く、弱りきっている。

昨夜の過剰な接触とアルコールのせいで、彼女の体温は異常に高く、掴んだ指先だけが熱病のように熱い。

「ごめん」という言葉は、反省ではなく、彼を繋ぎ止めるための最も効率的な呪文として機能していた。

 

「……水、持ってくるから。その間に準備させてくれ」

 

「やだ。水より、アンタがいい。……気持ち悪いの。……ねえ、コウタ。置いていかないで……」

 

カナは動かない身体の重みすべてを、コウタの足首に預けた。

実家の高い天井、清潔な廊下、母親の穏やかな声。

それらが、カナの病的な熱に触れるたび、急速に色褪せていく。

 

「……ちょっとだけ、隣にいて。……アンタがいなくなったら、私、本当に死んじゃう」

 

カナの指が、コウタの靴下の隙間に潜り込み、冷たい肌に直接触れた。

身体を壊してまで自分を汚し、弱さを武器にして道を塞ぐ。

コウタの心の中で張り詰めていた「正しさ」への未練が、音を立てて千切れた。

 

「……わかったよ。……分かったから」

 

コウタが膝を折り、カナを抱き上げるようにして布団へ戻ると、彼女は短く切ない吐息を漏らした。

二日酔いの吐き気だけではない。

逃がさないようにと執拗にコウタを繋ぎ止め、互いの境界がなくなるまで身を寄せ合った代償は、彼女の足腰に、ズシリとした重い倦怠感と熱を持って居座っている。

内側から熱を帯びたままの、神経を逆なでするような鈍い痛み。

けれど、その疼きこそが、コウタを自分の中に刻みつけた確かな証拠だった。

カナはその重みに、言いようのない多幸感を覚えていた。

 

「……看病、してよ。……私、アンタのせいで、もうまともに立ち上がれないんだから」

 

カナは力が入らない腕をコウタの首筋に絡め、彼を再び布団の深淵へと引きずり戻す。

シーツには、昨夜の汗と、カナがぶちまけた「汚れ」の匂いが澱んでいた。

その不潔な檻の中で、コウタは自分の肌にこびりつくカナの匂いを自覚し、逃亡の意志を削がれていく。

その時、フローリングの上で、コウタのスマホが再び震えた。

「実家(母)」の文字が、暗い部屋で無機質に点滅している。

それは「清潔な世界」からの最後の呼び声だった。

カナはその光を、獲物を狙う蛇のような目で見つめた。

 

「……出ないで……」

 

カナはクローゼットの奥から、酒と生活の匂いが染み付いた、自分の古いパーカーを引きずり出した。

実家の真っ白なシャツを求めていたコウタに、自分の「所有物」の証として、その薄汚れた布を無理やり着せかける。

コウタは抗うことなく、カナの匂いに包まれた「新しい皮膚」に袖を通した。

それは、彼が実家への帰還を完全に諦めた、沈黙の儀式だった。

昼過ぎ、コウタはシンクでふやけたカップ麺を、無機質に啜った。

昨夜の肉の塩辛さが、まだ舌の奥に残っている。

カナは布団の中から、そのだらしない、けれど自分の色に染まったコウタの背中を、蕩けるような瞳で眺めていた。

内側に残る違和感も、下半身の重だるさも、彼を独占できているという全能感の前では、甘い報酬でしかなかった。

 

「……ねえ、コウタ。……背中、さすって」

 

窓の外には、薄曇りの空の下、能美の巨像が相変わらず静止している。

だが、今の二人には、その「正しい景色」さえノイズでしかなかった。

実家への連絡を断ち、窓を閉め切り、二人は再び不潔な寝床へと沈んでいく。

コウタは、動けないカナの熱を抱きしめながら、自分が二度と「正しい場所」には戻れないことを、深い安堵と共に確信していた。


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