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第30話:不浄の聖域、逃げ場のない熱
床に投げ捨てられた酒缶から、透明な液体がじわりとカーペットに染み込んでいく。
激昂したカナがなぎ払ったストロングゼロは、彼女自身のパーカーとズボンを無残に濡らし、肌にじっとりと張り付いていた。
「…………おい。とりあえず、これ着てろ」
コウタは、下着一枚の姿で肩を震わせるカナを見かねて、クローゼットから予備のパーカーを引っ張り出した。
「なによこれ。冷たい。こんなの、いらないわよ!!」
カナはパーカーの袖に手を通すこともせず、被せられた布を乱暴に引き剥がして床に叩きつけた。
アルコールで濁った彼女の瞳が、獲物を定める蛇のように、今まさにコウタが身に纏っている黒いパーカーを射抜いた。
「アンタが着てるのがいい! 脱ぎなさいよ。今すぐ、それと替えなさい!!」
「……おい、落ち着けって。これはさっきまで作業で着てたやつだ、汚れてるだろ」
「うるさいわね!! それがいいって言ってるのよ! アンタの体温がついてて、アンタの匂いが染み込んでるのがいいの!」
カナは獣のような咆哮と共に、コウタの胸ぐらへ飛びかかった。
トランクス一枚の剥き出しの脚がコウタの腰を挟み込み、爪を立ててパーカーの裾を強引に捲り上げようとする。
「アンタの『昨日までの正しさ』なんて、私が全部……この匂いで塗りつぶしてあげるから……っ!」
コウタは観念したように腕を上げ、自分のパーカーを脱ぎ捨てた。
奪い取ったばかりのパーカーに顔を埋め、陶酔したように深く息を吸い込むカナを、コウタは無言で、折れそうなほどきつく抱きしめた。
「……っ、ぐ……っ、苦しい……」
カナの細い体が、コウタの腕の中で軋む。
だが、コウタは力を緩めない。
「ねぇ……なんで何も言わないの! しゃべってよ! わたしのこと抱きしめるだけでごまかさないで!!」
カナがコウタの胸を叩き、叫ぶ。
言葉を奪われたコウタの沈黙こそが、彼女にとっては何よりの恐怖であり、同時に最高の悦びでもあった。
「……汚いんだろ、お前は。俺も、同じだよ」
コウタの掠れた声が、カナの耳元で震えた。
その言葉を聞いた瞬間、カナの顔に歪な歓喜が広がった。
「……あは。そうよ。アンタも、私と同じ。地獄まで、一緒なんだから」
カナはコウタの首筋に顔をうずめ、恍惚とした表情で笑った。
カナはコウタの腕を振りほどき、足元に転がっていたストロングゼロをひったくるようにして煽った。
アルコールが喉を焼く刺激に、彼女は喉を鳴らして笑う。
「ねぇ、さっきの同級生……会ったでしょ」
「……ああ」
「私の近所の子。ペンギンに行けば、ああいうのに会うかもって思ってたけど……意外と会わないものなのに」
カナは自嘲気味に呟き、空になった缶を握りつぶした。
「嫌だったのか?」
「近所なだけ。仲良くなんてないわよ、わかるでしょ!! あっちは『まとも』なの。全然、私とは違うのよ!」
カナの叫びが、狭いキッチンに反響する。
「まとも」という言葉が、鋭いナイフのように二人の間に突き刺さった。
「……ああ」
「あんたも、本当はあっち側でしょ! 私は違う、もう終わってるの! 詰んでるのよ! もう嫌、消えたい! どこか遠くへ消えたい! こんなところ、もう居たくない!!」
カナは狂ったように自分の髪をかきむしり、床を蹴った。
穴の開いた下着、ブカブカのトランクス、散らかったゴミ。
自分の惨めさを突きつけるすべてを破壊したい衝動。
「カナ」
「コウタ、惨めなのよ……なによ、この生活。まともになんて、どうやってなればいいの? コウタ、連れて行ってよ!! 私を、ここから『普通』にしてよ!!」
カナはコウタの胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
だが、コウタは彼女を優しく慰めることはしなかった。
ただ、冷徹なまでの静けさで、彼女の肩を掴む。
「カナ。……俺は、お前のそばにいたい」
カナは弾かれたようにコウタを振りほどき、さらに酒を煽った。
赤く染まった瞳が、絶望に濁っている。
「コウタ、嘘でしょ。……私のために、全部捨ててよ。アンタの『まとも』な未来も、家族も、全部捨てて、私と一緒に壊れてよ」
コウタは、歪んだ悦びに震えるカナを真っ直ぐに見据えた。
そして、ゆっくりと首を振る。
「……それは、できない」
「……っ、なんで!? なんで捨ててくれないのよ!!」
「カナ。……俺が、簡単に全部を投げ出すような『まともじゃない』奴なら。……きっとお前は、どこかで俺を好きになんてならなかっただろ」
コウタの言葉に、カナは息を呑んだまま硬直した。
コウタが「まとも」で「正しい」からこそ、カナは彼を汚し、縛り付けることに執着した。
彼がすべてを捨ててしまえば、それはもう、カナが欲した「檻」ではなくなってしまう。
二人は、決して交わらない地獄の底で、互いの体温だけを頼りに、夜の深淵へと沈んでいった。




