3
第3話:浴室の境界線、ふやける執着
アパートの狭い玄関。
コウタは肩で息をしながら、靴を脱ぐのさえ億劫なほど摩耗していた。
ダンジョンでの【肉体回帰】の累積。
心臓がまだ、全力疾走の後のように喉の奥で跳ねている。
「……ねえ、一緒に入ろ? 汚れ、私が全部落としてあげるから」
すでに三缶目のストロングゼロを手に、カナがとろんとした瞳で覗き込んでくる。
コウタは壁に手をつき、首を振った。
「……無理。……心臓が、痛いんだ。先に入ってきなよ。俺は少し、横になるから」
その瞬間、カナの瞳から温度が消えた。
身体の限界という事実が、彼女の脳内では「私を避けている」という拒絶に変換される。
「……ふーん。いいよ。勝手にすれば」
カナは手に持っていたストゼロを床に叩きつけるように置き、乱暴に服を脱ぎ捨てて浴室へ消えた。
「ガンッ」と、鉄錆の浮いたドアが激しく閉まる。
コウタはリビングの床に倒れ込み、静寂を求めて目を閉じた。
だが、安息は数分と持たない。
浴室のドアが再び荒々しく開いた。
「……あがった。次、あんたの番」
湯気と共に現れたカナは、まともに体も拭かず、髪から雫を滴らせたまま仁王立ちしていた。
「洗ったらすぐ上がる」という、コウタとの入れ違いを最短にするための強行軍。
コウタは重い体を引きずり、入れ替わりで浴室に入る。
少しでも、一人の「聖域」が欲しかった。
浴槽に深く浸かり、彼女の湿った執着を洗い流そうと、わざと長めに湯を浴びる。
浴室の外。脱衣所の床に座り込んだカナは、新しいプルタブを弾いた。
蛇口から流れる水の音。
それが、自分を拒むシャッターの音に聞こえてくる。
「……ねえ。生きてる? 死んでるの? ……ねえってば!」
カナは、湿って重くなった拳でドアを激しく叩き始めた。
一分、また一分。
コウタが「一人の世界」にいる時間が長くなるほど、彼女のパニックは膨れ上がる。
「長いっ! はやくあがって!!」
叫び声がタイルに反響する。
ドアの向こうで、コウタが深く、重い溜息をつく気配がした。
「……分かったよ。すぐ上がるから、リビングで待ってて」
その言葉を聞いた瞬間、カナの顔に狂気を含んだ喜びが宿る。
彼女はドアに頬をすり寄せ、うっとりと目を細めた。
「……うん。待ってる。三分、いや一分で出てきて。……お刺身、一番いいところ、あんたのために取ってあるんだから」
テーブルの上には、半額のマグロと、少し衣の湿った唐揚げ。
カナは食事には一切手を付けず、ストロングゼロの3缶目を開ける。
焦点の定まらない瞳は、ひたすらにコウタの横顔だけを追い続けていた。
「ねえ……コウタ。聞いてる? 私、今日さ、あんたが私の傷を治してくれたとき……あんたの全部が、私の中に流れてきた気がしたんだよ」
コウタがマグロを一口運ぶ。
彼は「ああ」とだけ短く返し、咀嚼に集中するフリをした。
だが、その程度の「回避」でカナの飢餓感が収まるはずもない。
「……足りない。今の『ああ』じゃ、私の『好き』の百分の一も返ってきてない。ねえ、コウタ。好き。好きだよ。……ねえ、好きって言ってるの。分かってる?」
カナはコウタの腕を、爪が食い込むほどの強さで掴んだ。
アルコールの熱と、行き場を失った愛の言葉が、コウタの耳元に叩きつけられる。
「あんたの身体の全部、私の『好き』で塗りつぶしたい。……ねえ、コウタ、もっとこっち見てよ。なんでご飯なんて食べてるの? 私、あんたのこと大好きだよ」
コウタは黙って、冷めた唐揚げを口にした。
カナの言葉は、もはや会話ではなく、一方的な呪いだ。
「……好きすぎて、時々あんたを殺したくなる。そうすれば、もう誰にも見られないでしょ?」
カナは耐えきれなくなったように立ち上がり、背後からコウタにのしかかった。
鼻先が項のあたりを執拗に、深く、吸い込むように動き回る。
「……はぁ。ねえ、コウタ。……好き。……好き。……足りない。どうしよう。ねえ、どうしたら、私の全部、あんたに届くの……?」
コウタは一度箸を置き、彼女の頭を軽く撫でるようにして、いつもの「宥め」の言葉を口にした。
「……ちゃんと伝わってるよ。俺も、カナのこと、大好きだよ。……だから、な? 座って食べろ」
その瞬間、カナの動きが止まった。
「大好き」という言葉。
コウタにとっては、この場を収め、早く一人で眠るための「あしらい」であっても。
カナにとっては、世界が反転するほどの全肯定だった。
「……っ、ん。……えへへ。……そっか。伝わってるんだ」
コウタの体温が、彼女の毒気を抜いていく。
「……ごめんね。食べづらいよね。……ねえ、コウタ。私、もう一本だけ飲んでもいい……?」
潤んだ瞳でねだるカナ。
コウタは呆れたように笑い、手元にあったストロングゼロの空き缶を手に取った。
彼は台所へ立ち、その中に「水」を並々と注ぐ。
「……ほら。今日はこれで最後な。もう辞めときなよ」
「……ありがとう、コウタ。……大好き」
カナは、それがただの水だとも気づかず、宝物のように両手で受け取った。
幸福感と、アルコールの熱。
コウタから注がれた「水」が、彼女の毒気を一時的に抜き、脳を心地よい麻痺で包み込む。
彼女はふにゃりと顔を綻ばせると、コウタの首に腕を回し、その唇に深く、吸い付くようなキスをした。
アルコールの熱を移すような、濃厚で湿った執着の証。
そのまま、潤んだ瞳でコウタをねだるように見上げる。
「……ねえ、コウタ。……もう、ずっとここにいれる? 私の家から、一歩も出ないで……ずっと、私と一緒に……」
掠れた声で、本気とも酔狂ともつかない監禁願望を漏らす。
コウタは一瞬、背筋に冷たいものを感じながらも、彼女の頬を優しく押し返した。
「……何言ってるんだよ。流石に、一回は自宅に帰らないと。……着替えだって必要だろ」
「……いらないよ、そんなの。私の服、貸してあげるから。……ねえ、ダメ?」
「ダメだよ。……いいか。明日の朝飯を食ったら、一回帰らせてくれ。約束だぞ」
「帰る」という言葉に、カナの瞳から一瞬だけ、刺すような攻撃性が混じった。
だが、彼女はそれを飲み込み、妥協の笑みを浮かべる。
「……わかった。約束ね。……じゃあ、その代わり。今夜は、たっぷり私に『研究』させて?」
コウタは疲労で重い瞼を押し上げ、ようやく得られた「帰宅権」を死守するために小さく頷いた。
「……ああ。……じゃあ、先に寝室行ってて。……これ(動画)の書き出しだけ終わらせてから行くから」
「……うん。わかった。待ってるね、コウタ」
カナは素直に頷き、上機嫌な足取りでリビングを後にした。
廊下の角を曲がった瞬間、彼女の顔から甘い熱が、音を立てて剥がれ落ちる。
彼女は足音を殺して寝室に入ると、手慣れた動作で「研究用」の小型カメラの角度をミリ単位で微調整していく。
(……帰っちゃうんだ。……また、私じゃない世界に触れに行くんだ)
暗闇の中、録画待機を示す無機質な赤ランプが、点々と灯った。
(……なら、今のうちに全部、この箱の中に閉じ込めておかないと。……一滴も、残さず)
コウタが「愛情」だと思って受け入れる行為のすべてを、データとして解体し、保存するために。
カナは暗いベッドの上で、獲物を待つ蜘蛛のような静寂で、愛しいパートナーの足音を待ち構えていた。




