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第28話:鉄の檻の再契約
「…………はぁ、はぁ、……っ」
マダヤ跡地の低い天井が迫るピロティ駐車場。
車内に滑り込み、ドアを乱暴に閉めた瞬間の静寂が、カナの荒い呼吸を際立たせた。
コンクリートの支柱が並ぶ薄暗い闇の中で、コウタはハンドルを握ったまま、バックミラー越しに店の方を睨む。
店内の能天気なメロディはもう聞こえないが、カナの震えは止まらない。
「…………結局、何も買えなかったな」
コウタが絞り出すように呟いた。
カゴは床に投げ捨て、酒も、下着も、一欠片の日常も手にできないまま、ただ過去から逃げるようにここへ辿り着いた。
隣のシートでパーカーの中に顔を埋めていたカナが、掠れた声で笑う。
「……あはは、本当ね。……最悪。……お腹空いた」
カナの細い指先が、コウタの袖口を強く、逃がさないように掴んでいた。
コウタはその震える手を見つめ、それから小さく息を吐いた。
アクセルを踏み、マダヤの骸を離れて数分。
街外れの24時間スーパーの駐車場に車を滑り込ませると、コウタはエンジンを切ってシートベルトを外した。
「……お前は車で待ってな」
「…………コウタ?」
「肉とか、野菜とか……適当に買ってくる。今日は惣菜じゃなくて、なんか作るわ。……あとは、ストゼロ。多めでいいんだな?」
「…うん」
カナは助手席に深く沈み込み、窓の外を見ようともしなかった。
コウタは独り、スーパーの自動ドアへと向かう。
蛍光灯に照らされた深夜の静かな店内で、コウタは酒のケースと、数日分の食料を無機質にカゴへ放り込んでいった。
「……何よ、その顔。……『可哀想な女の子を助けてあげてる』って、そんな気分? ……反吐が出るわ」
アパートに帰り着き、酒の缶が開く音とともに、カナの感情が堰を切ったように溢れ出した。
コウタがスーパーで買ってきたストロングゼロの三缶目を、彼女は水のように喉へ流し込む。
さっきまで車内で震えていた姿はどこへやら、アルコールで濁った瞳が、キッチンに立つコウタの背中を、毒々しく射抜いた。
「……別に、そんなことは思ってない。……ただ、これ以上騒ぎになるのが面倒だっただけだ」
「嘘ね! アンタも、あの女と同じ目で私を見てる! ……『パチンカスに捨てられた、可哀想なカナちゃん』。……あはは、笑わせないでよ。……あの男が私を探してる? ……当たり前じゃない。……金が尽きたからに決まってるわ」
カナは立ち上がり、おぼつかない足取りでコウタに詰め寄った。
彼のシャツを掴み、酒臭い息を顔に吹きかける。
激昂した彼女がストゼロをこぼして自分を濡らす。
透明な液体が、カナのオーバーサイズのパーカーとスウェットのズボンを、無残に濡らしていく。
「……っ、冷た……っ、ああ、もう! ……最悪!!」
「……おい、拭けよ。そのままにしてると風邪ひくぞ」
「うるさいわね! アンタが変なこと言うから……っ。……ああ、もう気持ち悪い!」
カナは逆上したまま、びしょ濡れのパーカーとズボンをその場で剥ぎ取った。
重い衣類が床に投げ捨てられ、彼女は下着一枚の姿でコウタを睨みつける。
だが、その下着すらも飛び散ったアルコールを吸って、じっとりと肌に張り付いていた。
「………………」
コウタの視線が、ふとカナの腰元で止まった。
薄汚れた下着の、股の付け根に近い部分。
そこには、隠しようもなく大さな穴が開いていた。
「……穴、開いてる……」
ボソリと漏らしたコウタの言葉に、カナの顔が屈辱で真っ赤に染まった。
コウタは思い出した。
ペンギンの店内で、カナが笑いながら自分に言った言葉を。
『穴が開いたやつなんて履いてたら、次死んだ時に恥ずかしいわよ』。
(……自分のことだったのかよ)
コウタは胃の奥が冷たくなるような感覚を覚えた。
他人の下着を嗤うことで、彼女は自分の惨めさを必死に覆い隠していたのだ。
ペンギンで何も買えなかったせいで、その「隠したかった現実」が今、蛍光灯の下で無防備に晒されている。
「……見ないでよ。……殺すわよ、本当に……っ」
カナは震える手で、洗濯物の中からまだ乾ききっていないコウタの古いトランクスをひったくり、乱暴に足を通した。
ブカブカの布地を無理やり腰に巻き付け、彼女はコウタがテーブルに置いたばかりの皿を、獣のように引き寄せた。
「……何これ。アンタ、味覚まで死んだわけ? ……塩とコショウの味しかしないじゃない。……不味すぎ」
「…………文句言うなら食うなよ」
「……食べるわよ。……この、血の味しかしないような薄っぺらい食事……今の私たちに、お似合いだわ。
……てか、ちゃんと焼けてんのこれ?」
カナは毒づきながら、塩辛いだけの肉を咀嚼し、剥き出しの肩を震わせながら、次の缶に手を伸ばした。
カナは毒づきながら、焦げた肉の端をフォークで突き刺した。
その震える手元を、コウタはただ静かに見つめていた。
「カナ。……焼けてないなら、もう一度焼くよ」
コウタはそう言って、椅子から腰を浮かせようとした。
突き放すでもなく、憐れむでもなく。
ただ「食わせる」という義務を果たすような、あまりにも淡々とした言葉。
だが、その「普通の気遣い」こそが、今のカナには一番鋭い刃となって突き刺さる。
「……いいわよ、もう。……このまま食べるから。……アンタの焼いた、この焦げた味、一生忘れないようにしてあげるわ」
カナは無理やり肉を口に放り込み、ガリリと焦げた部分を噛み砕いた。
アルコールの熱と、塩辛い肉の味。




