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第27話:極彩色の底溜まり、ペンギンの檻
「……ねえ、コウタ。あっちの看板、まだ『マダヤデンキ』の文字が透けて見えるわよ。無様に剥がされて、放置されて。……まるで、アンタの『正しさ』の成れの果てじゃない」
深夜の小松。
かつて家電量販店だった巨大な骸に居座る、深夜のディスカウントショップ『ペンギン』。
ピロティ状になった一階の薄暗い駐車場へ、コウタの車が滑り込んだ。
頭上を支える太いコンクリートの柱には、剥げかけた番地と、かつて家電を運んでいた頃の煤けた跡が残っている。
車を停め、首なし火星怪獣のようにパーカーの「檻」から顔を出したカナが、窓の外を指さしてクスクスと笑った。
「…………いいから早く降りろ。酒、切れてるんだろ」
コウタはエンジンを切り、湿ったコンクリートの匂いを吸い込みながら、重い足取りでドアを開けた。
一階の駐車場から、二階の売り場へと続くエスカレーター。
かつては家族連れが最新のテレビや冷蔵庫を夢見て昇ったその場所は、今は安っぽい芳香剤と、夜の底の熱気に支配されている。
上り切った先、極彩色の看板が、二人の疲弊した顔を不健康な黄色と紫に塗りつぶした。
店内に足を踏み入れた瞬間、耳を塞ぎたくなるような、あの能天気なメロディが二人を迎え入れる。
♪ペン、ペン、ペン、ペンギン〜 何でも揃う〜
♪ペン、ペン、ペン、ペンギン〜 夢の国〜
♪悪意も〜 地獄も〜 安売りよ〜
「レモン、シークゥアーサー、ピーチ」
カナは通路を歩きながら、メロディに合わせて軽やかにステップを踏む。
エスカレーターを降りてくる客とすれ違う際、彼女はわざとコウタの腕に深くしがみつき、パーカーの奥から冷たい視線を投げかけた。
衣料品コーナー。
色とりどりの安い布切れが並ぶ棚の前で、カナが足を止めた。
彼女が細い指先でつまみ上げたのは、ギラギラとした光沢を放つ、あまりにも面積の小さい布地だった。
「……見てコウタ。これ、アンタにぴったりじゃない。……男性用のティーバック。あはは、最高に似合いそう!」
「………………冗談だろ。絶対嫌だ。……さっさと選んで酒買いに行くぞ」
コウタが顔を背けて立ち去ろうとするが、カナはその腕を離さない。
彼女はティーバックをコウタの腰元に押し当て、鏡越しにその「滑稽な姿」を想像して悦に浸る。
「嫌って言っても無駄よ。アンタの肌に触れるものは、全部私が決めるの。……逃げられるなんて、思わないことね」
カナの瞳が、蛍光灯の光を反射して鋭く光る。
彼女の指は、ティーバックを放り投げると同時に、今度は隣の「ボクサーパンツ」の棚へと伸びた。
コウタが死守しようとする「トランクス」の領域を侵略するための、熾烈な布きれの戦いが幕を開けようとしていた。
「……冗談じゃないわよ。ボクサーパンツにしなさい。アンタ、自分のこと自由だと思ってトランクスなんてダメ。……これからは私が選んだゴムの締め付けの中で生きるのよ」
カナはコウタが掴んだ地味なトランクスを奪い取り、代わりに蛍光色のボクサーパンツを強引にカゴへ叩き込んだ。
衣料品コーナーの鏡の前で、二人は安っぽい布切れを巡って、醜く、けれどどこか必死な攻防を繰り広げている。
「…………トランクスでいいだろ。履き慣れてるし、蒸れなくて済む。……お前、さっきから極端なんだよ」
「履き慣れてる? ……それがムカつくの。アンタの『昨日までの慣習』なんて、全部私が塗りつぶしてあげるわよ。……ほら、これも。これも!」
カナは半狂乱気味に、次々とボクサーパンツのパッケージを積み上げていく。
コウタはため息をつき、カゴの中から派手すぎるそれらを棚へ戻そうとするが、カナはその手を爪を立てて抑え込んだ。
深夜の店内に、布とビニールが擦れ合う乾いた音が響く。
「…………お前、本当に面倒くせえな」
「面倒くさくて結構。……そうやって、一生私に手を焼いて……っ」
カナの言葉が、唐突に途切れた。
商品の山の間から現れた一人の女が、カナの顔を、怪訝そうに覗き込んだからだ。
そして、その瞳が驚愕に大きく見開かれた。
「……え、ちょっと。もしかして……カナ?」
「…………っ」
カナの肩が、目に見えて硬直した。
相手は、どこにでもいるような「普通」の服装をした女だ。
地元で真っ当に生き、深夜に買い出しに来たような、そんな当たり前の清潔感を纏っている。
「やっぱりカナだ! ……久しぶり。中学以来? ずっと連絡取れなかったからさ。……ねえ、カナのお父さん、アンタのこと探してたよ」
「…………っ!」
パチンコ、借金、蒸発。
自分を捨てたはずの、あの男の影。
カナがパーカーの暗闇に隠していた「持たざる者」としての惨めな過去が、蛍光灯の下に引き摺り出される。
女はさらに踏み込もうと、カナの腕を掴もうとした。
「……あのさ、あのおじさん、またパチ――」
「すいません。人違いじゃないですか」
カナは女の言葉を遮るように、冷たく言い放った。
顔を極限まで伏せ、パーカーの奥に自らを閉じ込める。
「え、そんなはず……カナ、私だよ? そんな格好してどうしたの? この人……もしかして彼氏?」
女が、怪しむような視線でコウタをなめるように見た。
その哀れみの視線。
自分を、そして自分の「所有物」であるコウタを、「可哀想な側の人種」として分類しようとするその眼差しに、カナの奥底で何かが弾けた。
「……っ、知らない!!」
カナはカゴを床に投げ出した。
プラスチックの乾いた音が響き、中にあった派手なボクサーパンツが床に散らばる。
「カナ! 待ってよ!」
背後の声を、深夜のペンギンの能天気なメロディが塗りつぶしていく。
一人残された同級生の女は、呆然とその後ろ姿を見送っていたが、隣に立ち尽くすコウタに気づき、探るような視線を向けた。
「……あの、カナの彼氏さん……ですか?」
「ああ、そうだ」
コウタは感情の消えた声で、短く応じた。
「……よかった。彼女に伝えてもらえますか? お父さんが探してたって。ずっと心配してて、今、また小松の――」
「断る」
被せ気味に放たれた拒絶に、女は言葉を詰まらせた。
「えっ……?」
「なんだ? あの様子を見て、あんたはまだそんなことが言えるのか」
コウタは一歩踏み出し、女を見下ろした。
パーカーの奥から覗く瞳は、まるで害虫を見るように冷え切っている。
「あんた、どういう関係だよ」
「ち、中学時代の同級生で……。ただ、親切心で言ってるだけで」
「へぇ。名前は? どこに住んでる」
「え……? いえ、あなたに教える必要は……」
怯えたように後ずさる女を、コウタは蛇のような執拗な視線で追い詰める。
今のコウタにとって、カナの過去を暴こうとする「善意」ほど、反吐が出るノイズはなかった。
「そうか。じゃあ、この商品、全部戻しておけ」
コウタは足元に散らばった派手なボクサーパンツと、カナが投げ捨てたカゴを指差した。
「えっ……ちょっと、何言ってるの……!」
女の抗議を無視して、コウタは背を向けた。
エスカレーターを駆け降りる足取りに、迷いはない。
背後で女が何かを叫んでいたが、すぐにあの不快な「ペン、ペン、ペンギン」の歌声にかき消された。
一階の駐車場。
かつての『マダヤ』の亡霊が彷徨う湿ったコンクリートの闇の中、コウタは自分の車を見つけた。
その助手席で、パーカーの「檻」に閉じこもって震えている、一匹の怪獣の影を。




