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23話:帰還のノイズ、虚飾の編集点
「……近いわね。能美からここまで、十五分もかからないなんて」
カナがストゼロの空き缶を、アパートのゴミ箱に放り投げた。
小松と能美。隣接する二つの市を繋ぐ道は、夜の闇に塗り潰され、一つの巨大な「檻」のように感じられた。
アイアン・パイン号をアパートの下に停め、泥まみれのまま階段を駆け上がってから、一度も会話はない。
部屋に入った瞬間、コウタは「データ・アイ」製のPCを起動し、青白い光の中に逃げ込んだ。
「……ああ。……あっという間だったな。……あの巨像のプレッシャーが、まだ背中に残ってるみたいだ」
「……ふん。……さっさとその『記録』、ゴミ動画に書き換えなさいよ。……見てられないわ」
カナは「織色」製の戦闘服を乱暴に脱ぎ捨てる。
画面には、巨像の十字に組んだ腕から放たれた光線が、すべてを焼き払う瞬間が映し出されている。
スローモーションで再生される映像の中、カナはコウタの胸元に顔を埋め、恐怖に震えていた。
「……ここ、カットして。……あと、さっき車で話したことも。……アンタが、あの巨像を『ヒーロー』だなんて呼んだところも全部。……気持ち悪い」
カナはコウタの肩に指先を食い込ませ、画面上の自分を睨みつけた。
自分たちを殺そうとした存在に、幼い日の郷愁を重ねるコウタの歪み。
それが、自分だけの知らないコウタの「聖域」であることに、彼女の独占欲が苛立っていた。
「わかってる。……『無能な助手のせいで魔石を取り損ねて、枷奈が激怒した』……。そういうシナリオで繋ぐ。……お前が俺の胸ぐらを掴んだところは、『演出』として使うよ」
「……そう。それでいいわ。……視聴者は、私たちが殺し合いそうなところを見たいんだから。……本当の私たちが、あんな像の前で震えてたなんて……誰も知らなくていい」
コウタはマウスをカチカチと鳴らし、嘘のテロップを挿入していく。
映像の中のカナは、傲慢で、強く、コウタを虐げる「理想のパートナー」へと書き換えられていく。
カナはその嘘の自分を満足げに見つめながら、コウタの首筋に熱い吐息を吹きかけた。
「……ねえ、コウタ。……能美は近すぎたわね。……もっと遠くへ行かないと、アンタの頭の中から、あの『ヒーロー』の記憶は消えないの」
「…どうだろうな。……でも、今夜はもう、編集以外何も考えられないよ」
コウタの自嘲的な笑い。
貨物列車の通過音がアパートを揺らすたび、現実と映像の境界線が、ストゼロの泡のように溶けて混ざり合っていく。
嘘で塗り固めた動画が「書き出し」を終える頃、二人は本当の意味で、この狭い部屋以外の居場所を失っていた。
「……ねえ、コウタ。……逃げられると思わないで」
カナは囁きながら、椅子に座るコウタの膝の上に、下着同然の格好で強引に跨った。
コウタは一瞬息を呑み、マウスを握る手が止まる。
戦闘の余熱と、ストゼロのせいで火照った彼女の身体の重みが、ダイレクトに伝わってきた。
「……カナ、……お前、……重い。……いいから離れろ」
「……うるさい。……アンタ、私のこと『臭い』って言ったわよね。覚えてる」
カナは冷たく笑い、わざとコウタの太腿に、汗ばんで湿り気を帯びた自身の身体を執拗に押し付けた。
薄い布地を通して伝わる、生々しく不快な湿り気。
彼女は自分の体温と、酒と、生活の匂いすべてを、コウタの清潔なズボンに擦り付けて上書きしていく。
「…………やめろよ。……汗、湿ってて気持ち悪いだろ……」
コウタは顔を歪めて避けようとするが、狭い椅子の上が逃げ場にならない。
カナはその「気持ち悪い」という言葉を、まるで称賛であるかのように受け取って、さらに深く懐へ潜り込んだ。
「嫌よ。……気持ち悪いなら、もっと私の匂いを嗅げばいいじゃない。……こうしておけば、アンタがどこに行っても、……私がアンタの隣にいるって、嫌でも思い出せるでしょ?」
カナはコウタの首筋に鼻を押し付け、彼自身の匂いを強引に吸い込んだ。
自分自身の不快な湿り気で彼を汚し、同時に彼の無防備な匂いを独占する快感。
コウタは呻き声を上げながらも、結局彼女を突き放すことができなかった。
その湿った不快な感触こそが、今の自分をこの世界に繋ぎ止めている、唯一の確かな重みのように思えたからだ。
「………………書き出し、終わったぞ」
「……アップロードしなさい。……世界中に、私たちの『偽物』をばら撒くのよ」
カナは満足げに、コウタの耳元でそう告げた。
PCの青白い光が、泥と汗と、歪んだ愛情でぐちゃぐちゃになった二人を照らし出している。
保存された動画の中の二人は、まだ何も知らずに、お互いを罵り合っていた。
「……ねえ、コウタ。アンタってさ、綺麗好きなのかだらしないのか、本当によくわかんないわよね」
カナはコウタの膝の上で身をよじり、モニターの横に積み上げられたエナジードリンクの空き缶の山を指差した。
その指先は、複雑に絡まり合って埃を被った配線や、殴り書きの付箋が所狭しと貼られたデスクをなぞっていく。
「シンク周りやコップは潔癖なまでに磨き上げるくせに、このPC周りは何よ、この惨状。……足元の配線なんて、いつ発火してもおかしくないくらい埃まみれじゃない」
「……っ、触るな。……そこは俺の領域だ。機能的に配置してるんだよ」
コウタは眉を寄せ、露骨に嫌悪の表情を浮かべた。
水場を清めるのは、彼にとって「実家の正しさ」を辛うじて繋ぎ止める儀式のようなものだ。
しかし、その指先が触れる機材や、カナに汚された自分自身の身体に対しては、ひどく無頓着でだらしなかった。
「……それに、その服。アンタ、それ何着で着回してるわけ? ……クローゼット、その色落ちしたグレーのパーカーと黒いスウェットが三組あるだけじゃない」
カナは意地悪く笑い、コウタの襟ぐりを指で引っ掛けた。
実家にいた頃は、季節ごとに誂えられた清潔な服を着ていたはずの彼が、今は数着のボロを使い回し、カナの湿り気や匂いが染み付くのを許容している。
「……別に、着られれば何でもいいんだよ。……選ぶ時間がもったいない」
「……嘘ね。……アンタ、新しい服を買って、私の匂いが消えるのが怖いんでしょ? ……洗うのも、水場をあんなに磨き上げるくせに、自分の服だけは適当。……アンタの中に残ってる『実家の残り香』が、私の匂いで完全に上書きされるのを、心のどこかで期待してるのよ」
カナはコウタの耳元で、嘲笑うように囁いた。
コウタの手が、一瞬だけ止まる。
鏡の中の自分を見れば、カナにつけられた赤紫色のマーキングが、清潔な襟元から覗いている。
自分が「綺麗な世界」の住人ではないことを、その痕跡が何よりも雄弁に物語っていた。
「……うるさいな。……コーヒー、淹れてくる。……冷めないうちに飲めよ」
コウタは目を逸らし、逃げるように乱雑なPCデスクから立ち上がった。
だが、背を向けた瞬間、後ろから腕が回される。
「……ちょっと待てよ」
カナが、椅子に座ったまま、コウタの腰にしがみつくようにして抱きついていた。
頬を彼の背中に押し当て、くぐもった声で呟く。
「……ねえ、コウタ」
「……何だよ」
「かわいい彼女の汗の匂いとかさ、健全な男子なら興奮しないの?」
コウタは振り返らず、深いため息をついた。
「……お前の汗、酒が揮発してるわ」
「……はーい、ロマンチストじゃないね」
カナは笑いながらも、腕の力を緩めない。
そのまま、ゆっくりと立ち上がり、今度はコウタの背後から、そっと彼の肩に顎を乗せた。
「……今日は、怖くなかった?」
コウタは無言のまま、少しだけ首を傾げた。
「……危なかったよ、実際」
「……うん」
「……風呂、入れよ」
「……一緒に入ろ」
「一人で入れよ」
その即答に、カナは嬉しそうに鼻先を彼の首筋に押し付けた。
酒と汗と、かすかに混ざる巨像の焦げた匂い。
それら全部が混ざり合って、今の「二人だけの匂い」になっていた。
「……コウタ」
「……何だよ」
「……覚えておいてよ。私があんたのこと、一番わかってるんだから」
コウタは答えない。
ただ、窓の外で貨物列車が通る音が、アパートの部屋を揺らした。




