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第19話 :断ち切れぬ糸
「……親父にさ。たまに帰るって言ったんだ」
あの「混ざり合おう」という言葉が頭の中で反芻されてから、もう数日が過ぎていた。
機材の最終チェックをしながら、コウタは背中越しに呟いた。
昨夜の狂乱を換気したはずの部屋に、自らの「正しさ」を再確認するように、乾いた声を響かせる。
「母ちゃんにも、ちゃんと連絡するって約束した。……定期的に顔を見せるよ。俺も、あっちの方が落ち着くしな」
それは、カナの執着から自分を切り離すための「宣言」でもあった。
だが、返ってきたのは、予想していたヒステリックな拒絶ではなかった。
「……ふーん。いいんじゃない? 親孝行は。応援するわよ」
カナはソファに深く腰掛け、爪を弄りながら、驚くほどあっさりと答えた。
その声には、かつての焦燥や余裕のなさが微塵も感じられない。
コウタは眉を潜め、振り返って彼女を盗み見た。
カナは薄く微笑み、何か楽しいことでも考えているかのように、柔らかな表情でスマホを眺めている。
「……なんだよ。もっと喚くかと思ったけど」
「まさか。アンタがそうしたいなら、そうすればいいじゃない。私はここで、アンタの帰りを待ってるだけだから」
カナは優雅に立ち上がり、鏡の前で髪を整え始めた。
その余裕のある態度に、コウタは逆に得体の知れない違和感を覚える。
昨夜までの、あの死に物狂いで縋り付いてきた女はどこへ行ったのか。
だが、カナの脳内は、コウタの想像も及ばないほど「前向き」な闇で満たされていた。
(……いいよ、コウタ。たまに帰ればいい。その間に私は、溜まった映像をじっくり編集して、アンタの寝顔を何度も見返すんだから。……新しい角度、試してみようかな。もっとアンタが無意識に見せる表情、引き出せるはずだから)
カナは鏡越しにコウタを見つめ、陶酢したように瞳を細めた。
隠し撮りした「無防備なコウタ」のアーカイブを整理し、どうすればもっと彼を支配できるか、ネットの海に沈んで研究を重ねる。
彼が「実家」という外気に触れて帰ってくるたび、自分の手でまた「上書き」して、汚していく。
その工程を想像するだけで、カナの胸は甘美な期待に震えていた。
(実家の匂いなんて、私が一晩で消してあげる。……もっと研究しなきゃ。アンタが私のいない場所で、私のことしか考えられなくなるように)
「……おい、カナ。準備できたぞ。ぼーっとしてんなよ」
「わかってるわよ。……さあ、始めましょ。無能なアンタを、今日もたっぷりと扱いてあげるんだから」
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アイアン・パイン製「ダンジョンキャリーMK-II」の狭い運転席に、小松の冬を目前にした重たい空気が充満していた。
ダッシュボードに置かれたスマホが、不規則な振動で「ストリーム・ゲート」社からの通知を知らせ続けている。
コウタはハンドルの感触を確かめながら、フロントガラスの向こう、能美の空にそびえ立つあの「巨像」のシルエットを凝視していた。
「……あそこ、ガキの頃に連れていかれたことあるんだ。……親父と母ちゃんと」
コウタの独り言のような呟きに、助手席でストゼロの缶を弄んでいたカナが、わずかに眉を動かした。
「へえ。……幸せな家庭の、輝かしい一ページってわけ? 気持ち悪い」
カナは窓の外、流れ去る小松の無機質な工場地帯を見つめたまま、低く吐き捨てた。
だが、その声にはいつもの刺々しさだけでなく、どこか「自分だけが持っていないもの」への渇きが混ざっている。
「……別にそんな大層なもんじゃない。……ただ、あの巨像を見上げて、親父の手を握ってたことだけ覚えてる。……その時は、あんなもんが絶対に壊れない、最強の味方に見えてたんだ」
コウタが自嘲気味に笑い、アクセルを少しだけ踏み込む。
あの頃の自分にとっての「正解」や「強さ」の象徴が、今は誰も勝てない、近寄るだけで正気を削る魔境の主へと成り果てている。
それが、今の自分の成れの果てと重なって見えた。
カナは窓の外を見つめたまま、しばらく沈黙した。
ストゼロの缶を弄ぶ指が止まる。
「……私は、一人で見てた。……親なんて、パチンコに夢中でいなかったし」
カナが唐突に、自分の過去を「自己開示」し始めた。
ストゼロを一口煽り、彼女はコウタの横顔を、値踏みするように見つめる。
「ペットショップの檻の中にいた、一匹だけ売れ残った汚い犬。……あの子と目が合った時、思ったのよ。……ああ、私も、コイツも、いつか誰かに首輪を嵌めてもらわなきゃ、そのまま消えちゃうんだって」
カナの指先が、運転席のコウタの肩に、音もなく置かれた。
そのまま執拗に、彼の首元にある「見えない首輪」をなぞるように動く。
「……コウタ。あんたの手を引いてた親は、もういない。……今のあんたの首輪を握ってるのは、誰?」
「…………カナ。……前を見ろよ。……もう、巨像の足元だ」
コウタは答えなかった。
答えれば、自分が二度と「実家の子供」に戻れないことを認めることになるからだ。
——それとも、もうとっくに戻れないことを、認めたくないだけなのか。
アイアン・パイン号のライトが、薄暗いペットショップ跡地と、その上に君臨する巨像の足首を照らし出した。
(でも……あの頃の俺にとっては、最強だったんだ)




