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第18話:腐敗の証明


---


「……答えろよ。誰なんだ」


コウタの指先が、カナの首筋に食い込む。

石鹸の香りで上書きされているはずなのに、コウタの脳裏には、あの粘つくような「他人の気配」がこびりついて離れない。

カナは恐怖に顔を歪めながらも、その瞳の奥に、ぞっとするような暗い光を宿した。


「……そんなに知りたい? 私が……あんたがいない間に、何をしてたか」


カナの唇が、自嘲気味に歪む。


「上手くなってたでしょ?」


「……っ、ふざけんな!!」


「男? ええ、そうね。画面の向こうには、腐るほどいたわよ」


「……っ」

(やっぱり)

(浮気してた)


「必死だったんだよ。

 あんたを繋ぎ止める方法、

 ずっと調べてた」


「……誰と?」


「……誰とって。

 動画のモデルよ。

 ……男なんて、呼んでない」


「……え?」


コウタの理性が、激しい猜疑心と嫌悪で真っ白に染まった。

この部屋に、自分がいない間に見知らぬ空気が入り込み、カナの思考を侵食した。その想像が、コウタの中に眠る独占欲を叩き起こす。


「動画だか何だか知らないが、あんな生臭い匂いがするまで何を研究してたんだよ! 配信者としてのプライドはどうしたんだ!」


「動画、見たわよ。

 たくさん。

 どうすれば、男を逃がさないか。

 どうすれば、依存させられるか。

 ……全部、勉強した」


(……そのために)

(……キス、上手くなった)

(……俺を、実験台に)


カナが叫び、コウタの手を振り払って、逆に彼の胸ぐらに掴みかかった。

その勢いに押され、コウタは掃除したばかりの床に倒れ込む。

カナは馬乗りになり、狂気すら感じさせる笑みを浮かべて顔を近づけた。

濡れた髪の先から滴る水が、コウタのシャツに落ち、染みを作る。

彼女の太腿が、コウタの腰を挟むように微かに動いた。

——湯上りの温もりと、まだ完全には拭えていない「あの匂い」の残滓が、布越しに伝わってくる。


「あんたが実家帰る前、

 脱ぎ捨てたシャツ。

 ……あれ、ずっと抱えてた。

 洗わないで。

 あんたの匂い、消えないように」


(……あのシャツ)

(……洗濯機に入れたはずなのに)

(……ない、と思ったら)


コウタの思考が停止した。

「男がいる」と言われるよりも、その「一人で煮詰められた異常な執着」の方が、はるかに恐ろしく、吐き気を催すものだった。


カナの指先が、コウタの頬をなぞる。

その動きは、彼女が動画で何度も見返した「男を夢中にさせる仕草」そのものだった——唇の端を親指で撫で、耳たぶを指で挟むように。

コウタはその技巧に、自分の体が勝手に反応しそうになるのを感じた。

嫌悪しているはずなのに、皮膚だけは彼女の指を覚えようとしている。


「ねえ、まだ臭い? まだ私が汚い? ……だったら、もっと掃除してよ。あんたが、私の世界を全部塗りつぶしてよ。……ねえ、コウタ」


カナの体から、アルコールと、泣き腫らしたあとの体温が混ざり合った、逃げ場のない匂いが立ち上る。

コウタは彼女を突き飛ばすことができなかった。

嫌悪しているはずなのに、その「異常な愛」の重さに、自らの魂がさらに深く、泥沼へと沈んでいくのを感じていた。


「……コウタも、怒るんだね」


馬乗りになったカナが、ふっと力を抜いて呟いた。

頬をなぞる指先が、微かに震えている。

先ほどまでの狂乱が嘘のように、その瞳には歪んだ、それでいて純粋な悦びが浮かんでいた。


「うれしい。……アンタ、実家に帰ってからずっと、私を他人みたいに見てたでしょ。正論ばっかり言って、冷たくて……。でも、今は違う」


カナはコウタの胸元に顔を埋め、深く、深く息を吸い込んだ。

除菌スプレーで漂白されたはずの空間で、二人の体温だけが泥臭く混ざり合う。


「そんなに怒るくらい、私のこと……誰にも渡したくないんだ。私の不潔さも、だらしなさも、全部アンタを苛立たせて、アンタを私に縛り付けてる」


コウタは何も言えず、天井の染みを凝視していた。

彼女を突き放すための「正論」も、彼女を軽蔑するための「清潔さ」も、この女の前ではすべてが執着の餌に変換されてしまう。

怒りさえも、彼女にとっては自分を愛している証拠になってしまうのだ。


「……もう、どこにも行かないでね。私がどれだけ臭くても、どれだけ最低でも、アンタが掃除して、アンタが私を叱ってよ。……約束だよ?」


カナの細い指が、コウタのシャツを強く掴む。

コウタはゆっくりと目を閉じ、自分の内側で何かが音を立てて崩れるのを感じた。


「ねえ、コウタ。……いい臭くならない方法、あるか知ってる?」


カナはコウタの顔のすぐ横に唇を寄せ、熱を帯びた吐息とともに囁いた。

その声は甘く、それでいて逃げ場を塞ぐような粘り気を持っている。


「簡単なことだよ。……アンタが、私の臭いに慣れればいいんだよ」


コウタの体が、微かに強張った。

カナは勝ち誇ったような、あるいは慈しむような笑みを浮かべ、さらに距離を詰める。


「慣れちゃえば、もう何も気にならないでしょ? 清潔とか、正しいとか、そんなのどうでもよくなるの」


カナの指がコウタの耳朶をなぞり、ゆっくりと絡みついていく。


「……私はね、あんたの匂いに、もう慣れたよ」


耳元で、絹が擦れるような低声。


「一緒に、混ざり合おうよ」


その言葉が、コウタの理性の最後の糸をそっと撫でた。

——混ざり合う。

自分の匂いと、彼女の匂いが、境界を失って一つになる。

清潔も不潔もなくなる、濁った色のない世界。


カナはその言葉の余韻を味わうように、ゆっくりと瞬きをした。


「この、澱んだ空気の中で、二人だけで。……外の綺麗な空気なんて、アンタには必要ないんだよ」


カナの指がコウタのシャツの襟を握り、彼女の体重がさらに乗せられる。

自分と同じ場所まで堕ちて、自分と同じ「毒」を吸って、二人で腐っていこうという招待。


「…………」


コウタは答えなかった。

拒絶するための言葉が、喉の奥で泥のように固まって出てこない。

鼻腔に残るストロングゼロの安っぽい香りと、掃除しきれなかったカナの残り香。

それらが混ざり合い、彼の脳を、理性を、ゆっくりと麻痺させていく。

実家で見た青い空が、遠い前世の記憶のように霞んでいった。


ここまで読んでくれてありがとう。

作者は今日も睡眠不足で脳のネジが飛びかけています。

感想・ポイント・お気に入りは、作者のメンタルを回復させる神聖なる薬草です。


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