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第16話:ビジネス不仲の舞台裏
「……ねえ、カナ。その、口悪いの、どうにかならないか」
翌朝、機材をセッティングしながらコウタが溢した言葉に、カナは手にしたマイクを握りしめた。
昨夜、狂ったように痕跡を消し去ったあとの、重苦しい沈黙を引きずったままの朝。
カナは充血した目でコウタを睨みつけ、鼻先で冷たく笑った。
「はあ? 何言ってんの。これが『枷奈』の売りでしょ。視聴者は私の罵倒を求めてるの。アンタみたいな無能、それくらいしか使い道ないんだから」
コウタは溜め息をつき、録画開始ボタンに指をかける。
「私生活までそれだと、正直きつい。……昨日の夜だって、もう少し普通に話せれば……」
「うるさい。昨日のことは忘れてって言ったでしょ。デリカシーのない男……ほら、さっさと回しなさいよ。仕事よ、仕事」
カナは無理やり会話を打ち切り、鏡の前で表情を「殺した」。
録画ランプが赤く点灯した瞬間、彼女の瞳に冷徹な光が宿る。
「……はい、皆さん。今日も無能な犬を連れて、汚いダンジョンを掃除しに来ましたよ。コウタ、さっさとカメラ持ちなさい。映りが悪いのは全部アンタの責任だからね」
配信が始まれば、そこは慣れ親しんだ「ビジネス不仲」の戦場だ。
だが、実家付近で密かにレベルを上げてきたコウタの体は、以前よりも鋭く、精密に動く。
暗がりから飛び出した魔物を、カメラを微塵もぶらさず、最小限の動きで回避してみせた。
コメント欄が「今の避け方エグい」「コウタ、覚醒した?」と色めき立つ。
その反応が、カナの苛立ちを限界まで押し上げた。
自分の支配下にあるはずの「無能」が、自分の知らないところで価値を上げている。
「ちょっと、調子乗ってんじゃないわよ!!」
カナは演出を装い、死角からコウタの足を強く引っ掛けた。
よろめいたコウタの肩を掴み、マウントを取るように顔を近づけて罵声を浴びせる。
「カメラもまともに持てないの? 本当にゴミね。アンタなんて、私が拾ってあげなきゃ野垂れ死ぬだけの――」
至近距離。
演出用の罵倒を遮るように、カナの体温とともに、昨夜の「饐えた匂い」がブワリとコウタの顔を包んだ。
風呂にも入らず、部屋で執着を煮詰めていた、あの不潔な残り香。
それが、実家の清潔な記憶を完全に汚した。
コウタの理性で、何かがパチンと弾けた。
コウタは咄嗟に、手元のスイッチを弾くようにして配信を切った。画面が暗転し、接続終了の文字が浮かぶ。
「……いい加減にしろ」
配信が切れたことを確認した瞬間、コウタはカナの腕を乱暴に振り払った。
「お前、いい加減にしろよ。……昨日からずっと、臭えんだよ!!」
「…………え?」
カナの顔が、恐怖と羞恥で真っ白に染まる。
配信者としての仮面が剥がれ落ちたあとの静寂の中で、「臭い」という言葉は、女としてのプライドも、昨夜必死に隠した醜態も、すべてを等しく叩き潰す暴力的な正論として響いた。
カナは呆然と立ち尽くし、自分の指先から立ち上る、拭いきれない匂いを自覚したように、その場に崩れ落ちた。
「危ねえだろうが! 足かけんなよ、わざとだろう! お前、やる気あんのか!!」
配信を切った直後の静寂を、コウタの怒声が切り裂いた。
いつもなら鼻で笑い飛ばすか、気だるげに受け流すはずのコウタが、剥き出しの敵意を向けている。
足元を掬われ、カメラを壊しかけた怒り。
それ以上に、演出という名目で距離を詰められ、その不潔な体臭を押し付けられたことへの嫌悪が限界を超えていた。
「仕事だろこれ。配信台無しにするつもりか? 自分の足元も見えてねえのかよ……!」
コウタは荒い息を吐きながら、カナを冷たく見下ろした。
突き飛ばされたカナは、湿った地面に手をついたまま、金縛りにあったように動けないでいる。
「…………っ、あ……」
カナの喉が、引き攣ったような音を立てる。
先ほどまでコウタを罵倒していた傲慢な「枷奈」の面影はどこにもない。
「臭い」と断じられ、さらに仕事のプロ意識まで否定されたことで、彼女を支えていた細い糸が音を立てて切れた。
カナは自分の汚れた指先を凝視し、それから逃れるように胸元を掻きむしった。
「……あ、アンタが……アンタが勝手に、どっか行くから……っ。私が、どれだけ……」
言葉がまとまらない。
昨夜、狂ったように自慰に耽り、コウタの残像を追いかけていた自分。
その結果として染み付いた「匂い」を指摘され、拒絶された。
カナの瞳に、絶望と、それを塗りつぶすような真っ黒な執着が混ざり合っていく。
「……わかったわよ。わかったわよ、私が悪いのね。私が汚いから、アンタは実家の方が良かったって言いたいんでしょ!?」
カナは震える手で地面を叩き、這いずるようにしてコウタの足首に縋り付いた。
その手からは、やはりあの饐えた匂いが漂っている。
「逃がさない。……絶対に逃がさないんだから。臭いって言ったっていいわよ。でも、アンタは私の隣で、この匂いを一生嗅いでればいいのよ……!」
「……そうやって何強がってんだよ。足引っ掛けてまでマウント取らなきゃ気が済まないのか」
コウタは吐き捨てるように言い、地面に落ちた機材を乱暴にケースへ叩き込んだ。
いつもならカナの罵倒を「ビジネス」と割り切って受け流すが、今の彼女からは仕事の矜持すら感じられない。
ただの、執着に溺れた一人の女の醜態だ。
「今日はもう帰るぞ。こんな状態でまともな画が撮れるわけねえだろ。……お前も、頭冷やせ」
コウタはカナの顔を見ることなく背を向け、ダンジョンの出口へ向かって歩き出した。
カナは這いつくばったまま、遠ざかっていくコウタの背中を、見開いた目で見つめている。
突き放された衝撃。
「臭い」と拒絶された恥辱。
そして、彼が本当に自分を置いて「実家」という正しい場所へ戻ってしまうのではないかという、身を切るような恐怖。
「……待って。待ってよ、コウタ……!」
カナは震える足で立ち上がり、よろめきながらその後を追った。
プライドも仮面も、今の彼女には何の役にも立たない。
コウタの足音だけが、冷たい通路に虚しく響いていた。
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