87 聖女のお披露目
本格的な夏の暑さが訪れた、八月上旬。
ソフィアはモンドヴォール公爵に付き添い、王室所有の遊猟地を訪れていた。
今日は狩猟の解禁を祝うとともに、社交シーズンを締めくくる、大切な一日となる。
狩猟の森は、ある程度整備されているものの、自然を最大限に生かした猟場のようだ。足元にはいろんな植物が、青々と生い茂っていた。
なぜ頑丈な靴を勧められたのかと思っていたが、なるほど華奢なハイヒールでは、この道を歩き続けるのは難しいだろう。
ソフィアは柳色のドレスを汚さぬよう、裾をそっと持ち上げた。
気温は高いものの、見上げるほどの高木がそこらじゅうに伸びているので、厳しい陽の光だけは、なんとか防ぐことができている。
長年、狩猟大会への参加を控えていたモンドヴォール公爵だが、レオンの説得を受け、大会への参加を決めてくれた。
ソフィアはちらりと“父親”をのぞき見る。伝統的な赤い狩猟服を羽織った公爵は、うだるような暑さをものともせず、涼しげな顔で受付人に声をかけていた。
リリーと王太子が親密になれば、娘は婚約者候補から脱落せざるを得なくなるが、承知の上で引き受けてくれたようだ。
あるいは、それが狙いなのかもしれない。
ステファニーからの便りの内容を、詳しくは聞かされていないものの、今回届いた手紙にも、婚約を辞退したい旨が書かれていたらしい。
平然としているが、色々と思うところはあるのだろう。
「セルジュ・ドゥ・モンドヴォール公爵様に、ステファニー・ドゥ・ラ・モンドヴォール様ですね。公爵様は左手にお進みください。ご令嬢は、係の者が後ほどご案内いたしますので、それまで私とお待ちいただけますか」
「ああ」
短く答えた公爵は、くるりとこちらを振り返り、目元を二回叩いてみせた。
おそらくこれは、視ろと言っているのだろう。
呼吸を整えたソフィアは、そっと目を細める。これは、狩猟大会に参加するにあたり、新たに教わった手法だった。
『そうです! 魔力が分散しないように、目頭に力を込めたまま……こちらを視てください! どうですか!?』
ソフィアが目を凝らしたところ、正面に立つ青年の身体をなぞるように、ほのかな光が巡りだす。
うなずいてみせると、真っ黒いポンチョ姿のシャリエは、大袈裟に手を叩いて喜んだ。
ネックレスの分析に夢中になっているマルクスに代わり、ここしばらくは補佐役のシャリエが、魔術の講師役を務めてくれている。
新たな仕事を押しつけられた青年は、初めこそ不満を漏らしていたが、ソフィアの真面目な姿勢に感化され、近ごろは積極的に魔術を教えてくれるようになっていた。
感覚派のマルクスとは違って、細かな指示を出してくれるため、これまでよりも講義内容が理解しやすい。それに成果を褒めてくれるので、ソフィアも頑張り甲斐があった。
『先ほど行なっていただいたように、瞳に魔力をまとわせ、対象物を目視することで、物体に流れる魔力を視認できるようになります』
つまりこの術を行使すると、相手が魔道具を隠し持っていたり、魔術を発動しようとしている場合、事前に察知することが可能となるのだ。
今のソフィアは、ごく短い時間でしか技を使えないものの、有効な手段であることには変わりがなかった。
そして、目の前にいる受付人は、ごく一般的な魔力が、身体中を流れているだけのように見える。
「大丈夫です」
「そうか。一人になってからも、気は抜かないように」
モンドヴォール公爵はぼそりと言い残すと、あっという間にその場を去ってしまった。
ここからソフィアは、大会参加者たちと異なる動きをとることになる。いつもはそばにいてくれるレオンも、今日は別行動だ。
剣術大会の事件も、まだ記憶に新しい。公爵の忠告通り、気を引き締めていかねばならないだろう。
案内係に連れられ、ソフィアが天幕の中に入ると、すでにクロエ達が待ち構えていた。
「ステファニー様っ! お待ちしておりましたよ」
にこやかな顔で、侯爵令嬢が駆け寄ってくる。控えめなデザインの、珊瑚色をしたドレスがとても美しい。
「私たち、ずいぶんといい場所で観覧できるみたいですよ……!?」
クロエの後ろから、おどおどとリリーも近づいてくる。貴族ばかりの慣れない環境で、相当緊張しているらしい。
こちらは蜜柑のような、鮮やかで可愛らしい黄赤の装いに身を包んでいた。
やはり彼女には、暖色系の色合いがよく似合う。軽めの化粧も、緩やかに結い上げている髪も、天真爛漫なリリーにぴったりだった。
貴族の子女たちは他にも参加しているが、どうやら別の天幕に案内されているようだ。
歓談する少女たちの高い声が、離れたところから聞こえてくる。
それにしても。
リリーの話したように、この観覧場所は視界を遮るものがなく、絶好の位置取りだった。心なしか、用意されている調度品も、高価なものに思える。
けれども、若い子女のためだけに、ここまで観覧場所を整えるかしら?
おそらくこの違和感は、勘違いではないだろう。いくら王太子の婚約者候補たちが使用するとはいえ、細部にまで配慮が行き届きすぎているのだ。
答え合わせの時は、すぐに訪れた。
「あら。ステファニーもクロエも、ずいぶんと早くに着いていたのね」
声が聞こえた瞬間、ソフィアとクロエは一斉に膝折り礼をする。どうやらリリーも、クロエに背中を叩かれ、すぐさまお辞儀をしたようだ。
「楽にしてくださいな。この大会は、狩猟の腕のみを競い合う場。そこに、階級の差は存在しません。であれば、付き添いである私たちも、彼らを平等に応援すべきだとは思いませんか?」
「お心遣い痛み入ります、陛下」
ソフィアが顔を上げると、スミレによく似た、甘い香りが鼻をくすぐった。
「剣術大会のことは聞きましたよ。大変な一日でしたね」
そっとハグを求めてきたこのお方は、現トランキル王后──間違いなく、この会場で最も高貴な女性だ。
驚くことに、王后はかっちりとしたジャケットに白のパンツスタイルで、足元には長いブーツまでまとっていた。
「母上。まさか、私物まで運ばせていたのですか!?」
突然の横やりに、どきりと胸が跳ねる。幕の外から姿を現したのは、茶色の狩猟服姿をした王太子だった。
王后はこちらから離れて、息子のそばに近づいていく。
「そんな顔をしないで、ルイス。二人にも快適に過ごしてほしいと思って、用意させただけよ」
「大人しくしていてくださいね。母上は参加者ではないのですから」
「んもう。そう何度も繰り返さなくとも、分かっていますよ!」
王后はそこで初めて、リリーの存在に気がついたらしい。息子の顔色をうかがいながら、“聖女”本人に問いかけた。
「初めまして、かしら? 可愛らしいお嬢様ね」
硬直するリリーに代わり、クロエがすぐさま口を開く。
「ご紹介が遅れまして、大変申し訳ございません。こちらは私の遠縁にあたる、リリーと申します。少し前から、フリオン邸に滞在しておりまして」
ようやく正気に戻った少女は、再び深く膝を折り、勢いよく答えた。
「お初にお目にかかります! リリー・ラ・オクレールと申します。何卒よろしくお願いいたします!」
元気すぎる挨拶だが、及第点といったところだろう。
もちろん平民であるリリーに、家名などはない。クロエ曰く、中央政権からは長らく離れている親戚筋の名を借りたらしい。
「オクレール家に、こんな素敵なご息女がいたなんて、ちっとも知らなかったわ。ねぇ、ルイス?」
王后がさらりと家名を唱えていることに、一抹の不安を覚えつつ、ソフィアは王太子に目を向けた。
彼は少しだけリリーを見つめ、「はい」と答える。
普段通りに見えるが、彼はリリーのことを、どのように感じたのだろう?
リリーの方はというと、今にも溶けそうな瞳で、王太子に熱い視線を注いでいる。
そこから会話が発展する前に、王后がパンッと手を叩いた。
「さあ、そろそろ大会が始まるのではなくって? ルイスは陛下のもとへお戻りなさい」
「分かっております」
王太子は愛想なく答えると、ソフィアに近づいていく。
「ステファニー。これを、手首に巻いてくれないか」
彼が差し出したのは、剣術大会で“モンドヴォール公爵令嬢”が贈った、ハンカチーフだった。
「少々お待ちくださいませ」
ソフィアは苦労しながらも、滑りやすい革手袋の上に、ハンカチーフを結びつける。
「どうでしょうか。きつくありませんか?」
王太子は指を折り曲げたり開いたりして、感覚を確かめているようだ。
「大丈夫だ」
「よかったです。それでは、お気をつけていってらっしゃいませ」
そのまま後ろに下がろうとしたソフィアの手を、なぜか王太子が握りしめる。
ヘァッという奇妙な叫びが、クロエから漏れ出た。
「……何かまだ、ご用がありますでしょうか?」
王太子は繋いだ手に力を込めながら、ソフィアをまっすぐに見つめる。
「ここを離れるでない。むやみやたらに出歩けば、流れ弾に当たる可能性もあるだろう」
「はい、分かりました」
王后はなぜだか嬉しそうに、こちらの様子を見守っている。そばにいるリリーはというと、なんとも羨ましげな表情を浮かべていた。
「大会が終わったら、もう一度ここへくるぞ」
ソフィアはぎくりとする。なにか、不手際でもあっただろうか。
それともやはり、リリーのことが気になっているのかしら?
「承知いたしました。ではここで、お待ちしておりますね」
しばらく彼は、手を繋いだままでいたが、そろそろ移動するようお付きに促され、静かに離れていったのだった。
すぐさま駆け寄ってきたクロエが、感動の面持ちで、ソフィアの肩を揺らしてくる。
「いいなぁ、ステファニー様」
リリーがぽそりと呟くと、王后がそれに応えるように微笑んだ。
「あの子は昔から、ステファニーに弱いのですよ」
一体どういうことだろう。ステファニーが婚約者候補となるまでに、王太子とまともに交流を持ったのは、幼いころに初めて会話を交わしたその日の、たった数分間の話ではなかったのか。
私が知らないだけで、王太子と公爵令嬢には、なんらかの繋がりがあったのかしら?
もやもやしているうちに、狩猟大会の開始を告げる角笛が、森中に響き渡った。




