45 もう一人の婚約者②
やがて曲が終わり、新しい旋律が辺りに響き渡る。それまでソフィア達を大人しく見守っていた招待客らも、次々とフロアへ踊り出す。
「もう十分だろう。こい、ステファニー」
王太子はソフィアの背を抱き、会場から離れようとしている。
「ですが、殿下! クロエ様とのダンスは」
「そなたが気に掛けることではない」
そうは言われても、ものすごい目をした令嬢が、こちらを恨めしげに見つめているのだが。
後ろ髪を引かれながらも、ソフィアは王太子の望むとおりに、バルコニーへと移動した。
眼下の庭園では、色とりどりの花々が咲き乱れている。
「わあっ……! とても美しいですね」
「そういえば、この庭園で初めてそなたと出会ったのだったな」
ちょうど花盛りの、薔薇でできたアーチを見つめながら、彼は語りかけてきた。
ソフィアはふっと、ステファニーの自室に飾られた、ドライフラワーを思い出す。
「そうか、あの紅薔薇は」
ひとりごちたその呟きに、王太子はぱっと明るい表情を浮かべる。
「憶えていたのか」
「ええっと、……はい」
嬉しそうな彼の様子を見て、知らないとは言い出しにくかった。
王太子はなぜか咳払いをしてから、こちらに向き直る。
「なにか飲むものでも持たせよう。シャンパンでいいか?」
「申し訳ございません。お酒は飲んだことがありませんので、他のものにしていただいてもよろしいでしょうか?」
「そうなのか? では、少しここで待っていてくれ」
そう言い残し、王太子はバルコニーから離れていってしまう。
会場では、年ごろの男女が手を取りあい、華やかな社交を楽しんでいる。絢爛な世界をぼうっと眺めていると、人影がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「大丈夫でしたか? ソフィア嬢」
レオンは周囲に目を配りながら、そろりとバルコニーに降り立つ。
「今のところは、なんとか。レオン様も大変そうでしたね」
王太子と踊っている最中に、レオンが大勢の令嬢たちに囲まれているのを、ソフィアはしっかり見ていた。
「無用な誘いを避けるために、隊服を着てきたつもりだったのですが。まあ、ルイス様が身軽になるまでの相手役を探されていただけでしょう」
彼はさらりと言い述べたが、熱心な瞳を注ぐ少女たちがいたことには、どうやら気がついていないらしい。
そのことを伝えるべきかどうか、ソフィアが思い悩んでいた時に、高調子の声が届いた。
「あーら。騎士様と逢い引きですの?」
会場のほうへ向き直ると、クロエがシャンパングラスを片手に、二人の少女を引き連れてくるところだった。
「クロエ様。先ほどはご挨拶もできず、申し訳ございませんでした」
けれども、彼女はソフィアの謝罪を鼻で笑うだけで、取り巻きに飲み物を押しつけてから、こちらへ烈しく近づいてくる。
「王太子殿下だけではなく、ジラール子爵令息まで侍らせなければ、満足できないのですか。浅ましい方ですこと」
彼女は公爵家よりも爵位が下のはずだが、臆することなく不満を口にしている。それは、周囲に咎める者がいないからか、それとも己の置かれている状況に、よほど自信があるからかもしれない。
ソフィアは警戒するレオンにそっと手のひらを見せ、彼を制止させる。
「レオンは昔馴染みですから、社交の場に不慣れな私を見かねて、そばにいてくれているだけです」
「まあ! みなさん聞きましたか? 未婚の女性が、異性の名を軽々しく口にするだなんて。いったいどういった育ち方をされてきたのかしら? ああ。そういえば、あなたのお母さまも、男性の扱いだけはお上手だったのでしたね?」
高らかに笑うクロエに合わせるように、付き添いの少女たちも、引きつった笑みを浮かべた。
こちらが反論しないのをいいことに、彼女は嬉々として語り続ける。
「恥ずかしくはないのですか? 国王陛下からのお声がけも得られていないというのに、ファーストダンスを踊るだなんて。たとえ王太子殿下の寵愛を受けようとも、陛下があなたを受け入れなければ、王太子妃になるという願いは叶わないのですよ」
「ええ、その通りでございます」
ソフィアがぽつりと返すと、クロエは満願の表情を見せる。
「では、認めるのですね。国王陛下が、あなたを王太子妃の器ではないと考えられていることを!」
「ええ。クロエ様が王太子殿下から避けられているのと同じように、陛下は私を敬遠されていますから」
「なんですって?」
彼女は動きを止め、ソフィアをじろりと睨みつけた。
「お互いに、そう状況は変わらないでしょう。あなた様が王太子妃になろうとも、王太子殿下の理解を得られなければ、真実の愛を得ることはできないと、そう感じたまでですよ」
それに、ソフィアは知っている。王太子の心を手に入れるのは、クロエでもステファニーでもない。
未来の国母の座を許されているのは、いずれ“聖女”と呼ばれる、あの可憐な少女だけなのだ。
リリーの存在など知らぬクロエは、真っ向から喧嘩を売られたと思ったのだろう。眉を吊り上げ、大声で叫ぶ。
「生意気なことを言って……! あなたたち、なにをぼさっとしてるの! それを寄越しなさい!」
クロエが液体の入ったグラスを求めると、声をかけられた少女は、わずかにうろたえた。
「な、なにをなさる、おつもりですか?」
「なんでもいいでしょう。早く渡しなさい!」
しびれを切らしたクロエは、力強く細腕に掴みかかる。
「おやめください、クロエ様!」
揉み合いのすえ、堪えきれなくなった随伴者は、なんと侯爵令嬢にグラスの中身をぶちまけてしまった。
「きゃっ……!」
あまり嗅ぎなれていない、強いアルコールの香りが鼻をつく。彼女にかかりきらなかったシャンパンが、こちらにもわずかに飛んできたようだ。
「なんてことを! あなた、このドレスがどれだけ大切なものか、分からないわけではないでしょう!?」
「申し、申し訳ござ……」
「許せないわ! 今すぐここへ、ご両親を連れてらっしゃい。どれほどのことをしでかしたのか、分からせてあげますから!」
「いい加減にしてください、クロエ様!」
それまで押し黙っていたもう一人の少女が、ずぶ濡れのまま友に詰め寄るクロエの肩を突いた。不意をつかれた侯爵令嬢は、その場で倒れ込んでしまう。
「見苦しいですよ! 先ほどご覧になりましたでしょう。殿下のお心を得られているのは、間違いなくステファニー様です」
そう吐き捨てるように言い終えると、ソフィアのもとへ駆け寄り、床に頭をつける。
「どうかお許しください。ステファニー様に悪意を持って、この場を訪れたわけではないのです」
もう一人のお付きも、慌ててこちらにひざをつき、頭を垂れた。
「お見苦しいところを見せてしまい、大変申し訳ございません。あなた様が殿下の想い人であると知りながら、このような事態に巻き込んでしまったことを、深くお詫び申し上げます」
「なにをしているのよ、あなたたち……」
クロエは陳謝する少女らを見つめながら、呆然と呟く。
「他にもお話しすることがあります。クロエ様が着用されているドレスは、本来ステファニー様に用意されていたはずのものでした」
「何を言ってるのよ!?」
「クロエ様は黙っていてください!」
それまで従順だったはずの少女に諌められ、クロエは言葉を失う。
「ですから、王室の意向としては、ステファニー様をお迎えすることが決まっているといっても過言ではないはずです」
「私たちはステファニー様を支持いたします。何卒ご寛恕くださいますよう、お願い申し上げます」
レオンは黙ってこちらを見ている。ソフィアは静かに息を吐いて、彼女たちを見下ろした。
「つまり、あなたたちは、私に謝罪をしたいと。そういうことですね?」
「え、ええ!」
「もちろんでございます!」
哀願の訴えに、ソフィアはにっこりと微笑み返す。
「分かりました。では、そこをどいていただけますか?」
「え?」「いま、なんとおっしゃいましたか?」
戸惑う娘たちに、今度は強い口調で言い放つ。
「どきなさいと言っているのです!」
「は」「はい……!」
今にも泣き出しそうな顔で、彼女らはソフィアから離れていく。
「レオン。すみませんが、ジャケットを貸していただけますでしょうか」
彼は無言で飾緒を外し、脱いだばかりの制服をソフィアに手渡した。
ずしりと重いそれをクロエにかけると、彼女は身を震わせながら、こちらに強い眼差しを向ける。
「なによ、私が哀れだとでも思ったの!?」
「いいえ。私だって、グラスを持っていたら同じことをしていたかもしれません。ですがこれは、私とあなただけの問題です。別の者が手を下すのは、間違っているでしょう?」
取り巻きに一瞥をくれると、二人は肩が跳び上がるほどに驚く。
「いいですか。まず、あなた方は謝罪の相手を間違えています。クロエ様に謝るのが道理でしょう」
ソフィアの言葉に、彼女たちはハッと顔を見合わせた。
「……ごもっともでございます」
「弁解の余地もございません」
それから短い謝罪とともに、クロエへ頭を下げる。当のクロエはというと、その言葉が届いているのかどうかさえ分からないぐらいに、愕然とした様子だ。
「家同士の付き合いによるものだったとしても、お二人にとってクロエ様は、大切なお友達ではなかったのですか? 急に手のひらを返す人より、クロエ様のように本音でぶつかってくださる方のほうが、私はよっぽど信頼できます!」
クロエの綺麗な緑の目が、わずかにこちらを見たのが分かった。
「そして、もう一つだけお伝えさせていただきます。私はこのように不利な状況で、確たる証拠もないまま、一方的に人が陥れられる事態を許容することはできません。私を味方につけたいとお考えならば、みなさま今一度、ご自身の行動を省みてください」
それから、ソフィアがクロエの手を取ったあたりで、王太子がバルコニーへと戻ってきた。
「これは……。いったい、何があったのだ?」
問いかけにレオンが答える前に、ソフィアが口火を切る。
「なんでもございません、殿下。私の不注意で、クロエ様のドレスを汚してしまって」
そう言いながら、ほんのわずかに滲んだ、自身のドレスの裾をつまんで見せた。
ソフィアの隣に立つクロエは、恥ずかしさのあまりか、滴る髪を避けることもせずにうつむいている。
「大変恐縮ではございますが、本日はこれにて退席させていただきたく存じます」
「ああ……」
深い膝折礼を見守りながら、王太子は気の抜けた声を上げた。
ソフィアとレオンは、完全に戦意を失ったクロエを支えつつ、会場中の視線を集めながら、大広間を後にする。
残された人々は、目にしたばかりの奇妙な光景を話の種にして、婚約者候補たちの争いを、それぞれに思い描いていた。
そして、ざわめく会場の片隅では、一人の青年が腹を抱え、笑いこけている。
「やっと見つけたと思ったら、ずいぶん面白いことになっているじゃないか!」
そばかす面の青年は、目尻にたまった涙を拭き、それから指を鳴らしたかと思うと、次の瞬間には忽然と姿を消したのだった。




