36 招かれた客人
「すげー、天井がめっちゃくちゃ高い!」
ジラール邸のホールへ足を踏み入れたケビンは、大声を上げた。
「あれがシャンデリア? どうやって浮いてるんだろ? 姉さん! もしかしてこの玄関だけでも、うちより広いんじゃない!?」
「やめなさい、ケビン! お行儀よくするって約束、もう忘れちゃったの!?」
「あっやべ!」
二人のやりとりを、屋敷の人々は微笑ましげに見つめている。
ケビンが大人しくなると、静かに見守っていたジラールが、ようやく口を開いた。
「ソフィア嬢、ケビン。二人にジラール家の使用人をご紹介させていただきます。バーナード」
「はい」
ホールの中央に、すい、と姿を現したのは、グレイヘアをかっちりと撫でつけた、燕尾服姿の老紳士だ。
「初めまして。家令のバーナードと申します。以後お見知り置きを。そして、こちらが身の回りのお世話を担当させていただく」
「イザベラです!」
「サラです、よろしくお願いいたします」
イザベラと名乗った女の子は、琥珀色の大きな瞳を輝かせ、こちらを嬉しそうに見つめている。
その横に立つサラは、おそらくソフィアよりも年上だろう。興奮する同僚の袖を引き、無言でたしなめている。
「ソフィアと申します。よろしくお願いいたします」
すっとお辞儀をしたソフィアに倣って、ケビンもわたわたと頭を下げた。
「えっと、僕はケビン! よろしくおねがいします」
ジラールはジャケットを脱ぎ、召使に手渡す。それから袖口のボタンを外しつつ、ケビンに語りかけた。
「これからの予定ですが、ケビンは明日と明後日の二日間、私と王城へ向かい、そこで一緒に過ごしていただきます。実際の訓練の様子を見て、しっかり学んでください」
「はい! 分かりました!」
弟は我流の敬礼を添えて、それに応える。
「そして、土曜日について。私は王族の護衛を担当することになっていますので、その日は近衛の仲間たちと過ごしていただこうと思っています。警備がてら王都を巡ると話していたので、楽しみにしていてください」
「えっ。兄ちゃん、本当に王様たちを守ってるの? やっぱすごい人だったんだなあ」
自分に向けられた羨望の眼差しなど気にも留めず、ジラールはソフィアの前に歩み寄り、白い封筒を差し出した。
「ソフィア嬢には、事前にお話ししたとおり、色々とお手伝いいただきます。詳しくはこちらに。後ほど『お一人で』お読みいただけますか?」
最後の言葉を強調したのは、ケビンに釘を刺すためだろう。中身をのぞき込もうとしていた弟は、口を尖らせながらしぶしぶ承諾する。
「本日はお疲れでしょうし、お部屋に夕食を運ばせます。朝も早いので、ゆっくりお休みください」
そういって案内された客間は、二人で過ごすには十分すぎるほどに、立派な大部屋だった。
淡黄の壁紙は無地でシンプルだが、白のモールディングが施され、可愛らしい印象を受ける。調度品が乳白色の大理石で統一されているところにも、家主のこだわりを感じた。
「うわー! 姉さん、ベッドふっかふかだよ!!」
大騒ぎする弟を眺めながら、ソフィアは長いため息をつく。ひっそりと行動したかったのに、どうしてこうなってしまったのかしら。
ソフィアとしては、こちらから提案していたとおり、ジラール邸の近辺に宿を探すつもりで考えていた。しかし、安全上の理由もあるからと、ジラールは邸宅に滞在するよう主張し、いっこうに譲らなかったのだ。
ジラール卿へ借りを作ることは気がかりだけれども、ここまできてしまったのだから、覚悟を決めるしかなさそうね。
ソフィアは受け取った封筒をそっと開く。そこには三日間の分刻みのスケジュールと、小さなメッセージカードが入っていた。
その白い紙には、『公爵邸には今晩、弟君が眠られたあとに向かいましょう』とだけ書いてある。
短いメッセージに、ソフィアの鼓動は激しくなった。ステファニーと出会ったあの日から数えて二年。ようやく、公爵と対面する時が訪れたのだ。
戦場で多くの敵をなぎ倒し、英雄とまで呼ばれた男は、どのような人物なのだろうか。
傷だらけの大男を想像していると、扉がコンコンと音を立てた。慌てて封筒を片付けたところで、給仕の男性が姿を現す。
「お食事をお持ちいたしました」
席についたソフィア達の前に、次から次へと食べ物が運ばれてくる。あたたかなスープに色とりどりの前菜、いく皿もの魚料理に加えて、美しい肉前菜や肉料理が二人の心を踊らせた。
特にケビンは、初めて目にした豪華な料理にすっかり感動し、言葉を発することも忘れ、一心不乱に食事を口へ運んでいく。
「ねえ! 明日からの三日間、姉さんはここでお仕事をさせてもらうんでしょ?」
ようやく落ち着いたのか、ケビンは大きな海老にもぐもぐとかじりつきながら、そう尋ねてくる。
ステファニーの身代わり役を引き受けたソフィアは、母と兄を説得するにあたり、ジラールが屋敷へ招待したのは、あくまで“近衛隊を目指しているケビン”だと偽った。
そして、付き添いとして邸宅に宿泊させてもらう間、自分は『メイド見習いとして働かせてもらうことにした』と告げていたのだ。
もちろん、実際にはそのようなことはしない。
お見合いが開催されるまでの二日間、ソフィアは礼儀作法を急ごしらえで身につける必要があるため、徹底的にマナーを叩き込まれる手筈となっている。
兄は当初、二人の子爵邸滞在に反対していた。しかし、受け取る予定の給金で、母親を大きな病院に連れて行きたいと力説したところ、ソフィアの堅固な意志に負けて、ようやく首を縦に振ってくれたのだった。
「そうよ。たくさんお邪魔させてもらう分、頑張ってお返ししないとね」
「僕だけ楽しいことしてて、いいのかな」
白パンを指でちぎりながら、ケビンがぽつりと呟く。
「なに言ってるの。あなたがジラール卿の仕事場に連れていってもらうのは、遊びでもなんでもなく、将来の夢のためじゃない。こんなチャンス、もう二度とないわよ。姉さんも頑張るから、一生懸命勉強してきなさい!」
喝を入れると、弟は少しだけ笑みを浮かべ、「頑張るね」と意気込んだ。
食事を終えたケビンは、ソファーの上に横たわったと思いきや、すぐ眠りに落ちてしまった。今ごろは、ご馳走に囲まれた夢を見ているのかもしれない。
ソフィアが弟をベッドまで運び終えた後、再び扉を叩く音が響き、サラとイザベラが部屋のなかに入ってきた。
「お食事はお済みでしょうか」
イザベラはすやすや眠る弟を見つけ、こっそり耳打ちしてくる。
「坊ちゃまからソフィア様をお連れするよう、申しつけられております。着替えを用意していますので、その前に湯浴みをさせていただきますね」
「あの、桶とお湯さえ貸していただければ、自分で体を拭きますから」
すると今度は、サラが声を抑えながら、叫ぶように反論した。
「いいえ! そのようなことなどできません! 私たちはソフィア様のお世話を命じられています。どうか、私たちから仕事を奪わないでください!」
そのまま半ば強引に連れ出され、あっという間に浴室へ放り込まれる。
モンドヴォールの公爵邸では一年近く暮らしていたものの、人から隠れて生活していたため、使用人たちに囲まれての入浴はこれが初めてだった。
全身を泡で包まれ、力強く洗われている自分の姿が、鏡面に映っている。既視感の正体が、市場で土落としをされているジャガイモだと気づいた時には、笑いが止まらなくなってしまい、二人を不思議がらせてしまった。
香油を塗り込まれ、体をもみほぐしてもらいながら、つくづく人生とはなにが起こるか分からないものね、とぼんやり考える。
目を閉じ、リラックスしているソフィアに、イザベラはおそるおそる話しかけてきた。
「あのお。本当に、モンドヴォールのお嬢様ではないのですね?」
「はい。私は下町暮らしの、ただの平民ですから」
すると、サラも我慢しきれなくなったのか、続けて問いかけてくる。
「坊ちゃまは、休暇中にソフィア様と出会われたとおっしゃいました。お二人はどのようにして、お知り合いとなられたのですか?」
「それは、本当に偶然で。地元のお祭りに弟と出掛けている時、変な人たちに絡まれたのを助けてくださったのが、ジラール卿でした」
「ええー、素敵! そんな出会いってあるんですねえ!?」
イザベラは甲高い声ではしゃぎながら、すさまじい手さばきで、ふくらはぎをねじり始めた。
「す、すみません! ちょっと痛いような……気が!?」
「ああー、大丈夫ですよ。すぐに慣れますので!」
そうしてイザベラは、ソフィアの悲鳴を聞き流しつつ、全身をこってりしぼり上げたのだった。
怒涛のマッサージを終え、放心状態のソフィアは、化粧台の前へと案内される。
「汚れを落とされたばかりで申し訳ないのですが、軽くお化粧をさせていただきますね」
サラはひたひたのコットンで頬を押さえながら、話を続ける。
「それにしても、出会ったばかりの女性を屋敷へ連れてこられると聞いた時は、私たちも驚いたものですよ」
「ここへくることになったのは、まあ……色々と事情がありまして」
『公爵令嬢の身代わりになるため』とは、口が裂けても言えない。しかしそのせいで、いらぬ誤解を招いている気がしてならなかった。
「坊ちゃまも存外、積極的なところがおありだったのですね! そもそも、異性に興味を抱かれたという話を、イザベラは初めて聞きました」
「それはきっと、坊ちゃまの目が肥えてらっしゃるからよ」
「あー……なるほど」
使用人たちは顔を見合わせながら、何度もうなずく。おそらく二人は、ステファニーのことを想像しているのだろう。
かつて社交界の花と呼ばれた彼女が、幼いころから身近にいたのであれば、女性を見る目が厳しくなるのにもうなずける気がした。
「でも、坊ちゃまが容姿だけで判断される方ではなくて、安心しました! ソフィア様は明るく気さくで、どこぞのご令嬢のような、傍若無人な振る舞いはなさらないでしょうからね!」
イザベラは白粉を叩きながら、得意げに声を上げる。
「すみません。お二人とも少し勘違いされていませんか? ジラール卿は、私になど興味を持っておられませんよ」
その言葉を受け、彼女たちの手が止まった。
「それ、本気でおっしゃってますか?」
「もちろんです!」
小さく悲鳴を漏らしたイザベラは、握っていたブラシまでも落としてしまう。
「わっ。大丈夫ですか、イザベラさん!?」
「嘘でしょう。全く伝わっていませんよ、坊ちゃま」
彼女はどんぐり眼を見開き、鏡越しにこちらを凝視している。その深刻な嘆きに、隣で固まっていたサラも賛同した。
「よく考えると、坊ちゃまは恋愛経験がないわけですから、ご自身のお気持ちをうまく伝えられていないのかもしれないですね」
「ですから、違いますって!」
だがもはや、彼女たちはソフィアの否定の声を聞き入れようともしない。
「こういうタイプには、ストレートな褒め言葉が一番効きますからね。褒めずにはいられなくなるよう、イザベラ、頑張ります!」
そう言うと、高速で顔をいじり始めた。
その頃のジラールはというと、書斎で仕事の資料に目を通しながら、考えごとをしていた。
ホールでのソフィアの挨拶。あのなめらかな動作は、やはり手慣れたものに見えた。
完璧なカーテシーは、一朝一夕では身につかないという。ならば、彼女はどこでそれを学んだのだろうか。
思索にふけっていると、扉の外からサラの声が届いた。
「坊ちゃま、大変お待たせいたしました」
「ソフィア様をお連れしましたよー!」
こちらからの返答も待たずに、扉を盛大に開いたイザベラが、足音を立てて部屋に踏み入ってくる。
「ご苦労。ソフィア嬢を残して、二人はもう休んでくれ」
資料へ目を落としたまま答えたが、彼女たちからは一向に応答がない。
「どうしたんだ?」
顔を上げると、デスクの前には、小花柄のドレスをまとったソフィアが立っていた。
ゆるく巻かれた髪を片側へ流し、胸元には髪の毛と同じ色をした、ブラックダイアモンドのネックレスが輝いている。
「さ。どうですか? 坊ちゃま!」
動きを止めたジラールに、イザベラはにんまりとした笑みを浮かべつつ、声をかける。彼はソフィアをまじまじと見つめてから、「とても美しいです」と呟いた。
イザベラとサラが、小さくガッツポーズをしたのが、ソフィアからも見えた。




