第7話 石柱湖
石柱湖は、遠くからでも異様だった。
湖面の向こうに、巨大な岩の柱が何本も立っている。
一本や二本ではない。
奥へ行くほど数が増え、湖の中央が石柱の森になっていた。
「……でか」
資料で見た時とは違う。
近くでは水が静かに揺れている。
その少し先では白く波立つ流れ。
さらに向こうでは、水面が丸く窪んで回っていた。
「本当に湖なのか、ここ」
「湖ですよ」
後ろから声がした。
「フィン」
「来ましたね」
フィン・テイルは肩から記録機材を下げていた。
「今回もいるんだ」
「生態記録局から参加しています」
「じゃあ一緒に回る?」
「はい。ルカさんと同じ艇です」
「よかった。知ってるやつ一人いた」
「僕もその方がやりやすいです」
「じゃ、頼む」
「はい」
湖畔には複数の艇。
簡易テント。
水中カメラ。
流速計。
地図を広げた机。
探釣師、調査員、操船員が行き交っている。
レイクフォードの普段の現場とは、明らかに規模が違った。
「オーウェンは?」
「もう動いています」
フィンが前を示した。
大柄な男が数人と湖の地図を囲んでいる。
「第三艇、東から入れ」
男が地図を見たまま言った。
「中央の流れには近づくな。西側へ一艇回せ」
「了解」
「魚だけ見るな。水も取れ」
周囲がすぐ動く。
「あれがオーウェンか」
「はい。オーウェン・ハートです」
ルカは名前も、オーウェン隊が世界的に知られた釣査隊であることも知っている。
ただ、実際に現場で見るのは初めてだった。
オーウェンの周りでは、隊のメンバーも準備を進めている。
フィンが順に目を向けた。
「副隊長のシエナ・コール。配置と安全管理」
地図の前で、各艇の位置を確認している女性。
「ノーラン・キール。進入とルート確保」
岩場でロープをまとめている男。
「ダリオ・バレット。技術と装備」
通信機と工具箱を前に、機材を確認している。
「ギル・コーデル。ファイトとランディング、生体処理」
ギルは竿と生体保持具を艇へ積み込んでいた。
ルカが四人を見る。
「結構、役割分かれてるんだな」
「はい。オーウェンさんが全体を見て、それぞれが専門を持っています」
そのオーウェンの胸元に、小さな鱗を重ねた章が見える。
「二鱗なんだ」
「ご存じでしたか」
「鱗章くらいは」
探釣師には、一鱗、二鱗、三鱗の鱗章がある。
指揮権や上下関係を示す階級ではない。
探釣の記録、技術、功績、保全への貢献。積み重ねてきた仕事を称える名誉章だ。
一鱗でも簡単には届かない。
二鱗となれば、世界規模の探釣で長く実績を重ねた者の中でも限られる。
オーウェンはその二鱗だった。
「思ってたより普通だな」
「何を想像してたんですか」
「もっとこう、見ただけですごい感じ」
「十分大きいと思いますけど」
「そうじゃなくて」
シエナが地図を広げた。
「出発前に確認します」
地図には石柱湖の各所へ印がつけられている。
「ここ数週間、魚の確認地点が過去の記録と合わなくなっています。裂流魚の目撃地点も同じです」
東側。
西側。
石柱群の奥。
「原因はまだ分かっていません。今日は実際に釣りながら、今どこに何がいるのかを確認します」
オーウェンが周囲を見る。
「記録通りだと思うな」
短く言った。
「出るぞ」
艇が次々と岸を離れた。
ルカが乗る第三艇には、フィン、ギル、操船員、それに機材担当の調査員が乗っている。
「ギル・コーデルだ。よろしく」
ギルが竿を艇へ積みながら言った。
「ルカ。よろしく」
フィンが後方の席へ記録機材を固定する。
「僕はここで記録します」
第三艇が岸を離れる。
少し前を、オーウェンとシエナの艇が進む。
別の艇では、ダリオが通信機器とソナーを確認していた。
ノーランは岸寄りの艇でロープと装備をまとめている。
無線で各艇はつながっていた。
第三艇は、石柱群の東側へ入っていった。
近づくほど、一本一本の柱が大きい。
水際に灰色の細長い魚が張り付いていた。
「いる」
腹を岩へ押しつけるようにして、強い流れに耐えている。
「石柱ドジョウです」
フィンが言った。
「名前そのままだな」
一匹が岩肌を這うように動いた。
「でも面白い」
さらに奥へ。
今度は銀色の魚群が水中で輪を作っていた。
「何あれ」
「リングスイマーです」
渦の外周。
数十匹の魚が崩れず回っている。
ルカはすぐ竿を取った。
「投げていい?」
「調査区画内なら大丈夫です」
ルカが渦の中心近くへ落とす。
ルアーがくるりと回り、魚群の内側へ吸われた。
魚は離れる。
「あれ」
ギルが水面を見る。
「外だ」
「外?」
「渦の縁」
今度は外周へ投げる。
流れへ乗せる。
銀色の一匹が群れから外れた。
竿先が入る。
「来た」
小さいがよく走る。
艇際まで寄せる。
ギルが手早く取り込み、ルカが針を外した。
銀色の魚はすぐ群れへ戻った。
「ほんとに輪の外使ってる」
「次の柱も見てみろ」
ギルが前を示す。
艇が一本の巨大石柱を回り込む。
表側では水が激しく走っている。
裏へ入った瞬間、水面が静かになった。
「急に止まった」
ルカがルアーを落とす。
すぐ竿先が引き込まれた。
「え?」
上がってきた魚は三十センチほど。
暗い灰褐色の体。
少し平たい。
大きめの胸鰭。
「ピラーシェイドです」
フィンが記録機材を向ける。
「さっきの表側にはいなかったよな」
「流れの弱い柱裏をよく利用します」
ルカが石柱を見上げる。
「柱一本回っただけなのに、釣れる魚変わるんだ」
少し先では、二つの流れの境目に小さな魚が細い列を作っていた。
「あれは?」
「流縁モロコです」
ルカは少しだけ眺めた。
「ほんとに流れごとに違うな」
その直後。
――ドン!
艇が横へ揺れた。
「うわっ」
ルカが船縁を掴む。
「岩?」
「違う!」
操船員が水面を見る。
また。
――ドン!
今度はさっきより強い。
船腹の横を太い魚影が走った。
「魚!?」
「舟撃魚〈ハルバンパー〉です!」
フィンが身を低くする。
青灰色の魚。
一メートルほど。
厚い胴。
艇の横を並走する。
急に体を傾けた。
肩から体側を船腹へぶつける。
――ドン!
「すげえ!」
「喜んでる場合じゃないですよ!」
さらに二匹。
同じ側へ回る。
――ドン!
――ドン!
艇が大きく傾いた。
機材箱が床を滑る。
「動くな!」
ギルが叫んだ。
操船員が船首を立て直そうとする。
そこへ石柱の間から横流れが入った。
艇の側面を押す。
「まずい!」
無線から声。
『船首を流れへ向けろ!』
オーウェンだった。
『速度落とせ! そのまま前を向けろ!』
操船員が舵を切る。
横を向きかけた艇が、少しずつ流れへ正対する。
揺れが小さくなった。
ハルバンパーの影も離れていく。
しばらく誰も動かなかった。
「……今の、ひっくり返ってた?」
ルカが聞いた。
「当たり方と流れ次第じゃな」
ギルが船腹を確認する。
その直後、別艇からダリオの声が無線に入った。
『第三艇、通信と船外機は?』
「問題なし」
『船腹に異常あれば一度戻せ』
「見た感じ大丈夫だ」
『了解』
ルカは魚影が消えた方を見る。
「釣りたい」
「今それ言うか?」
ギルが笑った。
安全を確認してから、艇は流れの弱い場所へ移った。
少し待つ。
さっきのハルバンパーが一匹、船から離れた場所を回っている。
「今ならいける」
ギルが言った。
ルカが投げる。
魚影の少し前。
ハルバンパーが寄る。
いったん横を向いた。
次の瞬間、体ごとぶつかるように食った。
「来た!」
竿が一気に引き込まれる。
真っすぐ走る。
また真っすぐ。
「曲がらないな、こいつ!」
「船には曲がってくるのにな」
ギルが横で構える。
ルカが寄せる。
艇際。
「そのまま」
ギルが一気に取り込んだ。
厚い胴。
硬い体側。
頭部そのものは特別大きくない。
フィンがすぐ記録を取る。
「状態問題なし」
ギルが魚体を支えたまま水へ戻す。
ハルバンパーは一度艇から離れ、そのまま石柱の奥へ消えた。
「もう船来なくていいぞ」
少し先。
別の艇が石柱脇へ寄っていた。
ノーランがロープを持って岩へ移る。
艇では入れない柱裏。
狭い足場へ取りつき、そのまま奥へ回った。
「そこ行けるの?」
ルカが見る。
「だからノーランさんなんです」
フィンが答える。
しばらくして無線が入る。
『柱裏、到達。ここから機材下ろせる』
『頼む』
オーウェンの返事は短かった。
さらに奥へ。
何本もの流れが石柱の間を抜けている。
小魚が多い。
その時。
水面が弾けた。
魚群が一斉に散る。
「何?」
大きな黒い影。
長い魚体が石柱の陰から滑り出した。
「裂流魚……!」
映像で見た魚。
実物はずっと大きい。
魚体が傾く。
横へ滑る。
柱裏へ消えた。
と思った次の瞬間、別の場所から現れた。
渦の外側へ入り、その勢いのまま次の柱間へ抜ける。
「追います!」
前方の別艇から声。
操船員がレバーへ手を伸ばす。
『動くな!』
オーウェンだった。
手が止まる。
次の瞬間。
艇のすぐ前を強い横流れが走った。
水面が大きく歪む。
「……今入ってたら持ってかれてたな」
ギルが呟いた。
ルカはオーウェンの艇を見る。
「分かってたの?」
無線越しにオーウェンが答える。
『魚じゃない』
一拍。
『水見てた』
調査員たちが流れを記録する。
フィンも裂流魚の地点を確認した。
しばらくして顔を上げる。
「ルカさん」
「ん?」
「今の場所、過去に裂流魚の確認記録がありません」
「ここにはいなかった?」
「少なくとも記録上は」
その時、別艇から無線。
『西側、魚影かなり少ないです』
ルカが振り返る。
今いる東側には、小さな魚影がいくつも見える。
同じ湖。
同じ石柱群。
それなのに。
「……同じ湖なのに?」
オーウェンは石柱群の奥を見た。
『明日、もう一度見るぞ』




