第52話 動く星々
湖岸の船着き場では、調査艇の出航準備が進んでいた。
「ルカ、そっちの箱を頼む!」
「おう!」
ギルに呼ばれ、ルカは観測機材の入ったケースを艇へ運び込んだ。
調査艇は六人が乗っても作業できる広さがあり、中央には観測装置、船尾側には採集や釣査のための空間が確保されている。
「思ったより大きいな」
「水深を測る装置や観測機材を積んでいるからね」
ノックスが答えた。
「この湖は、岸から見ているだけじゃ分からないことが多いんだ」
その横では、ダリオが計器を確認していた。
「電源もソナーも問題なし。通信も今のところ良好だ」
「今のところ?」
ルカが聞き返す。
「岩に囲まれた地下だぞ。場所によっては通信が不安定になる。艇の位置はこっちでも記録しておく」
「なるほどな」
フィンは採集容器を確かめながら、ノックスに尋ねた。
「採集した魚を、一時的に観察できる場所はありますか?」
「うん。水温を保てる容器を用意してあるよ。今日はまず、どこにどんな生き物がいるのかを見て回ろう」
「分かりました」
フィンが記録装置を取り出す。
その手つきを見て、ルカは笑った。
「もう始める気満々だな」
「もちろんです。ルカさんだって、さっきから湖ばかり見てるじゃないですか」
「そりゃ見るだろ。あんなの、初めてなんだから!」
「僕も同じですよ」
二人が笑い合っていると、オーウェンの声が飛んできた。
「よし! 準備ができたら乗り込め! 今日はノックスの指示で動くぞ!」
「了解!」
全員が乗り込むと、調査艇は静かに船着き場を離れた。
船首が暗い湖へ向かっていく。
ルカは手すりに身を寄せた。
「……おお」
岸から眺めていた時とは、光の見え方がまるで違った。
湖面に映る天井の星々が、艇の起こした小さな波に揺れている。
その下を、別の光が泳いでいた。
青い点が幾つも並んで流れ、緑の光がその間を横切っていく。
遠くでは一つの帯に見えた光も、近づくにつれて、異なる速さで動く無数の光に分かれていった。
「フィン、あそこ!」
「見えています!」
ルカが指さした先で、青い光の群れが二つに割れた。
その隙間を、細長い影が通り抜ける。
「あれ、魚だよな?」
「ええ。ただ、どの光が魚自身のものなのか、周囲の光を反射しているのかは……」
フィンは記録装置を向けた。
「もう少し近くで確認したいですね」
ノックスがうなずく。
「そういう違いを調べるのが、ここの面白いところなんだ」
調査艇は速度を落とし、光の群れから少し距離を取った。
青い点の一つが、すっと向きを変える。
それにつられるように、周囲の光も動いた。
「群れになってる!」
ルカが声を上げた。
小さな魚影がいくつも重なり、流れるように進んでいく。
ルカは目を凝らした。
「……でも、全部が同じ動きじゃないな」
「どういうことです?」
「ほら。あの辺りの光は群れと一緒に流れてるけど、こっちは動きがばらばらだ」
フィンが二つの場所を見比べる。
「本当ですね。光っている生き物が違うのかもしれません」
「調べてみたいな!」
「ええ。採集地点の候補にしておきます」
フィンが位置と観察内容を記録した。
その時、ノックスが船首の向こうを見た。
「……あれ?」
「どうした?」
オーウェンが尋ねる。
「いや、今、何かが通ったような……」
ノックスは水面を見つめた。
ルカも同じ方向へ目を向ける。
青白い光が漂う水中。
その奥で、何か大きなものが動いた。
「……でかいぞ」
最初に見えたのは、ゆっくりと広がる薄い影だった。
影は光の群れの下を滑るように進み、調査艇へ近づいてくる。
「ノックス、あれは?」
オーウェンが声を落とした。
「たぶん……ヴェイルレイだ」
「ヴェイルレイ?」
ルカが聞き返す。
「見てごらん。もうすぐ艇の下を通る」
ルカは身を乗り出しかけた。
「手すりから出るなよ」
ギルがすぐに声をかける。
「分かってる!」
次の瞬間、大きな影が光の中へ現れた。
「……うわっ!」
エイに似た、幅の広い魚だった。
左右に大きく広がった胸鰭を、ゆったりと波打たせている。
その幅は二メートルを優に超えていた。
だが、ルカが息を呑んだのは大きさだけではなかった。
胸鰭が、透けていた。
半透明の薄い鰭を通して、向こう側の青や緑の光が見える。
光が重なるたび、鰭の中を走る細い筋が淡く浮かび上がった。
まるで、光でできた大きな翼が水中を漂っているようだった。
「……なんだ、あれ」
ルカは目を離せなかった。
ヴェイルレイはほとんど音もなく艇の下を通り過ぎていく。
大きな胸鰭が一度波打つ。
それだけで、巨体が滑らかに前へ進んだ。
「綺麗ですね……」
フィンが小さく呟いた。
記録装置を構えたまま、その動きを追っている。
「鰭の細い筋まで見えます。あんな体の魚がいるなんて……」
「光ってるのか?」
ルカが尋ねた。
「いや、あの鰭自体が強く光っているわけじゃないんだ」
ノックスが答えた。
「周りの光を通しているんだよ」
「へえ……!」
ルカはもう一度、水中を覗き込んだ。
ヴェイルレイの輪郭が、光の少ない場所へ入るにつれて薄れていく。
やがて、広い胸鰭の先が闇に溶けた。
「あっ、見えなくなった!」
「大きいのに、不思議な魚ですね」
フィンが記録を確認する。
「鰭の動きも、もっと観察したいです」
「僕もだよ!」
ノックスが嬉しそうに答えた。
「まだ分からないことが多いんだ。何を食べているのかも、詳しくは調べきれていない」
「じゃあ、また会えるかもしれないな!」
「うん。この辺りでは時々見かけるよ」
ルカはヴェイルレイが消えた方を見つめた。
あれほど大きな魚が、光の中に姿を現し、また何事もなかったように消えていく。
この湖には、まだ見たことのない生き物がどれほどいるのだろう。
「……面白えな、ここ!」
オーウェンが笑った。
「まだ釣り竿も出してねえのに、ずいぶん楽しそうだな!」
「当たり前だろ! あんな魚が泳いでるんだぞ!」
「ははっ! そりゃそうだ!」
ギルも笑いながら、水面を見渡した。
「しかし、あれだけの大きさで、あんなに静かに泳ぐんだな」
ルカもうなずいた。
ヴェイルレイの姿はもう見えない。
だが、湖のあちこちでは、相変わらず小さな光が動いていた。
調査艇は再びゆっくりと進み始めた。
しばらくすると、ルカは少し離れた水中に、ひときわ明るい光を見つけた。
「……ん?」
青白い光が、一つだけ瞬いている。
周囲の光とは違い、ほとんど場所を変えない。
「フィン、あれ見えるか?」
「どれです?」
「あの、明るいやつ」
フィンが目を凝らす。
「ああ……見えました」
その光へ向かって、小さな魚影が近づいていた。
一匹。
少し遅れて、もう一匹。
小魚たちは光の周りを行き来している。
「なんだ? 餌でもあるのか?」
ルカが呟いた。
ノックスもそちらへ顔を向けた。
「どこだい?」
「あそこ。小さい魚が集まってる」
ノックスが指さされた場所を見た。
その瞬間だった。
光のすぐそばまで近づいた一匹が、ふっと消えた。
「……え?」
ルカが目を瞬かせる。
さっきまで、確かにそこにいた。
ところが今は、どこにも見当たらない。
「フィン、今の見たか?」
「はい。急に見えなくなりました」
「どこ行ったんだ?」
ルカは水中を覗き込んだ。
小魚が泳ぎ去ったような動きは見えなかった。
残った魚影は明るい光から離れ、暗がりへ散っていく。
そして、その光も一瞬だけ弱まった。
「……何かいるな」
ルカが呟く。
ノックスは興味深そうに身を乗り出した。
「今の、記録できた?」
「一部は撮れています」
フィンが装置を操作する。
小さな画面には、光へ近づく魚影が映っていた。
だが、消える瞬間は光が強く、細かな動きまでは分からない。
「これじゃ、何が起きたのか分かりませんね」
「だな」
ルカは画面から目を上げた。
水中では、先ほどの光が再び明るさを取り戻していた。
何事もなかったかのように、静かに瞬いている。
「……なあ、ノックス」
「うん?」
「あれ、もう少し近くで見られないか?」
ノックスの口元が緩んだ。
「僕も、そう思っていたところだよ」
ルカは思わず笑った。
美しい星々の中に、何かが潜んでいる。
その正体を、確かめずにはいられなかった。
「オーウェン! 近くまで行けるか?」
「ノックス、周りの地形は?」
「ここなら大丈夫。ただ、あの光の手前で止めよう」
「了解だ!」
ダリオが計器を確認し、オーウェンがゆっくりと進路を変えた。
フィンは再び記録装置を構える。
「今度は、消える瞬間を撮りたいですね」
「おう!」
ルカは水中を見つめた。
小魚たちが集まっていた場所には、まだあの青白い光が瞬いている。
星のように美しく、何も知らなければ、ただ眺めていたくなる光。
だが、そのそばで小魚が一匹、確かに消えた。
「……何がいるんだろうな」
ルカの声には、もう驚きよりも好奇心が勝っていた。
調査艇は速度を落とし、暗い水中で瞬く一つの光へ、ゆっくりと近づいていった。




