第51話 地の底の星空
エドガー・ノックスは、壁の地下地形図を指さした。
「さて、まずは明日の予定を確認しようか!」
「おっ! いよいよだな!」
ルカが身を乗り出す。
ノックスは図面の端にある細い線を指でたどった。
「今いるのはここ。明日は調査用の通路を通って、湖の手前にある船着き場まで下りる」
「船着き場! 地下にそんなものまであるの?」
「あるよ。調査艇を使うには必要だからね」
ノックスは楽しそうに笑った。
「作るのは大変だったけど!」
図面には、地下へ続く通路のほかにも、幾つもの細い線が描かれていた。
「こっちは?」
「古い探索経路だよ。今は使っていない場所もある」
「なんで?」
「狭すぎたり、岩が崩れやすかったりね。水が流れ込むこともあるから、通れる道がいつも同じとは限らないんだ」
「へえ……!」
ルカは図面を見つめた。
「地下って、そんなに変わるんだな」
「変わるよ。だから面白いんだけどね!」
ノックスは笑い、一本の通路に指を戻した。
「今回はここを使う。人も機材も通せるように整備してあるから、勝手に脇道へ入らなければ大丈夫」
「勝手に入らなければ、だな!」
オーウェンがルカを見た。
「俺を見るなよ!」
「まだ何も言ってねえだろ!」
ギルが吹き出した。
ノックスも笑っていたが、やがて地図の一角を示した。
「ただ、湖に出てからは別だ」
その指先には、調査済みの水域を示す線が引かれていた。
「船を出せる範囲は広がってきたけど、岩の張り出しや、水中に沈んだ地形が残っている。湖面が広く見えても、好きなところへ進めるわけじゃない」
「水の中にも岩があるんだよな」
「そう。しかも、ここは場所によって深さがずいぶん違うんだ」
ノックスは地図を指でなぞりながら、湖岸に近い調査区域を示した。
「まずはこの辺りから始めよう。今までの観測で魚影が確認されているし、艇の位置も確保しやすい」
「釣れるかな!」
「それを確かめるのも、今回の仕事だよ!」
ノックスはルカに笑いかけた。
「君たちの話はオーウェンから聞いてる。楽しみにしてたんだ」
「俺も!」
◇
その後、機材の確認が始まった。
調査施設の作業室には、持ち込んだケースが並べられていた。
「これ、現地の観測記録と合わせられそうだな」
ダリオが水中カメラの端末を操作する。
隣ではフィンが自分の記録装置をつないでいた。
「はい。時刻も同期できました」
「よし。映像と観測値を照らし合わせやすくなる」
ノックスは二人の画面を覗き込んだ。
「いいねえ! これなら今まで取り逃がしてた動きも拾えるかもしれない!」
そのまま設定を変えようとして、ダリオに手を止められた。
「待て。まず接続試験だ」
「あっ、そうだった!」
「気持ちは分かるが、順番がある」
「うん、分かってる!」
ノックスは笑いながら端末から手を離した。
ルカも作業台へ近づいた。
「これ、明日使うの?」
「予定ではね」
ノックスが答える。
「ただし、湖へ出る前に回収装置も試しておきたいんだ」
「回収装置?」
「水中に下ろしたカメラを引き上げるためのものだよ」
ノックスは壁に掛かった図を示した。
「前に岩の出っ張りへケーブルが引っ掛かって、回収にずいぶん手間取ったことがあってね」
「壊れたの?」
「機材は無事だった。でも、調査を切り上げることになった」
「そっか……」
「一つしかない機材を失ったら、その先の調査もできなくなるからね」
ノックスは作業台の小さな部品を持ち上げた。
「だから、こういうところも大事なんだ」
ルカは部品を覗き込んだ。
「魚を釣る時と似てるな」
「似てる?」
「掛けた後のことを考えてないと、岩に巻かれて終わっちゃうだろ?」
ノックスが顔を上げた。
「……なるほど!」
急に目を輝かせる。
「そうか、釣りの道具なら、別の方法もあるかもしれない!」
「えっ?」
「ダリオ! ちょっと相談が――」
「今の試験が終わってからだ!」
「分かった!」
オーウェンが大笑いした。
「ははは! 休む暇がねえな、ダリオ!」
「笑ってないで手伝ってくれ!」
◇
翌朝。
調査隊は施設の奥にある地下通路の入口へ集まった。
ルカは扉の向こうを覗き込んだ。
そこには、岩肌に沿って下へ続く通路があった。
照明が一定の間隔で設置され、壁際には機材を運ぶためのレールが延びている。
「おお……!」
「ここから先は、ヘルメットを着けてね」
ノックスが全員を見回した。
「足元が濡れている場所もある。先頭を追い越さず、歩く時は頭上にも気をつけて」
「了解!」
オーウェンが答える。
ギルとダリオが荷物の固定を確かめ、フィンも記録装置を身につけた。
「よし、行こう!」
ノックスを先頭に、一行は地下へ足を踏み入れた。
◇
通路を進むにつれて、外の気配が遠ざかっていった。
足音が岩壁に反響する。
やがて、天井から細い水滴が落ちるようになった。
「……冷たい!」
ルカが頬を拭う。
「地下水だよ」
ノックスが振り返った。
「この辺りは雨の後だと、もっと水が増えるんだ」
「へえ! じゃあ、湖にも流れてるの?」
「一部はね。地上の水がどこを通っているのか、まだ分かっていない場所も多いんだ」
ルカは天井を見上げた。
岩の隙間から落ちた雫が、足元の溝を流れていく。
「この水も、どこかで湖につながってるのかな」
「そうかもしれないね」
ノックスが笑った。
「確かめたくなるだろ?」
「なる!」
フィンが小さく笑う。
「ルカさんと気が合いそうですね」
「そうかな?」
「ええ。ノックスさんも、気になったらすぐ調べたくなるみたいですから」
ルカは前を歩くノックスを見た。
「ノックス! 今度、あの水がどこへ行くのか調べようぜ!」
「いいね! でも今日は湖が先だ!」
「おう!」
その返事を聞いて、ギルが笑った。
「似た者同士だな!」
◇
しばらく進むと、通路は広い空間へ出た。
壁際に大きな昇降装置が設置されている。
「ここからは、これで下りるよ」
ノックスが操作盤へ向かった。
ルカは昇降台から下を覗いた。
「うわっ、深い!」
ライトの光が、縦穴のずっと下まで続いていた。
「足元から離れろよ」
オーウェンが声をかける。
「分かってる!」
全員が昇降台に乗り込むと、低い機械音が響いた。
台がゆっくりと下がり始める。
ルカは壁を見つめていた。
岩肌が次々と上へ流れていく。
「……まだ下りるの?」
「まだまだ!」
ノックスが楽しそうに答える。
「湖面までは結構な高低差があるんだ」
「こんなに地下深くに水があるなんて……!」
フィンも周囲を見回していた。
やがて、下の方から微かな音が聞こえてきた。
ルカが耳を澄ませる。
「……何か聞こえない?」
「水の音ですね」
フィンが答える。
耳を澄ますと、確かに水が岩へ当たるような音がしていた。
その音は、下りるにつれて少しずつ大きくなった。
「もうすぐだよ」
ノックスが言った。
◇
昇降台を降りると、そこには岩を削って整えた通路が続いていた。
空気がひんやりとしている。
ルカは一歩進み、足を止めた。
「……なあ、フィン」
「はい?」
「何か、広くなった感じがしない?」
フィンも立ち止まる。
それまで近くに感じていた足音の反響が、少し変わっていた。
声を出すと、音が遠くへ広がっていく。
「そうですね……」
ノックスが振り返った。
「いいところに気づいたね!」
「えっ?」
「この先で、通路が大きな空間につながってるんだ」
ノックスは少し先へ進み、壁際の照明を操作した。
前方の灯りが落ちる。
「うわっ!」
ルカが目を瞬かせた。
「急に暗くなった!」
「足元の灯りは残してあるから大丈夫。少しだけ、向こうを見てごらん」
ノックスが暗闇の先を指さした。
最初は、何も見えなかった。
黒い岩壁があるのか、それとも通路がどこまでも続いているのか。
ルカが目を凝らしていると――
「あっ」
暗闇の奥に、小さな青い光が浮かんだ。
一つ。
その隣に、もう一つ。
さらに離れた場所にも、淡い光が瞬いた。
「……何だ、あれ?」
ルカは思わず声を落とした。
フィンも息を呑んでいた。
「……光ってる」
ノックスが笑った。
「さあ、行こう!」
ルカは暗闇の先へ歩き出した。
◇
通路の終わりに着いた時、ルカは足を止めた。
「…………え?」
目の前に、空間が広がっていた。
いや、広がっているというだけでは足りなかった。
それまで頭上を覆っていた岩の天井が、突然、遥か高みへと遠ざかっている。壁も、左右のどこまで続いているのか分からない。
まるで、山の内部が丸ごとくり抜かれてしまったようだった。
「……なんだよ、ここ」
ルカの声が、暗闇へ吸い込まれていく。
ふと見上げると、遥か頭上に無数の青白い光が瞬いていた。
岩の天井に散らばる小さな光。遠くの岩壁には緑や紫の淡い光が滲み、星雲のような霞を描いている。
天井の輪郭は闇に溶け、どこまで続いているのか分からない。
「……空?」
ルカは思わず呟いた。
足元からは、なだらかな岩の斜面が下方へ延びていた。
その先に広がるのは、黒々とした水面。
対岸は見えない。
静まり返った湖面が、頭上の星々を淡く映していた。
「これが……湖?」
地底の小さな水たまりでも、洞窟の奥に隠された池でもない。
目の前にあるのは、ひとつの巨大な水域だった。
「……こんな場所が、地下に……」
隣のフィンも、言葉を失っていた。
その時だった。
ルカは、水面の下にも光があることに気づいた。
「……あれ?」
青い光。
最初は、ほんの小さな点に見えた。
だが、目が暗闇に慣れるにつれ、その周囲にも光が浮かび上がってくる。
一つ、二つ。
十、二十。
やがて、数えることなどできなくなった。
「……うわあ」
暗い水の中に、無数の光が輝いていた。
青白い光が細かく瞬き、その間を淡い緑の光がゆっくりと流れていく。ところどころには紫や橙の色も混じり、湖の底知れぬ暗さの中で、ひときわ鮮やかに浮かんでいた。
それは、水面に映った星ではなかった。
光は、水の中にあった。
すぐ足元の浅い場所にも。
その奥の、少し深いところにも。
さらに、どれほど離れているのか見当もつかない暗闇の中にも。
幾重にも重なった光が、湖の中に奥行きを作り出している。
近くの光は鮮明に見え、遠くのものほど細かな粒となって、やがて青白い霞のように溶け合っていた。
「……すげえ」
ルカは、ようやくそれだけ口にした。
湖の中央付近では、無数の青い光がゆっくりと流れ、長い帯を形作っていた。
その周囲に緑や紫の光が散り、帯の輪郭が少しずつ変わっていく。
まるで、地の底に天の川が流れているようだった。
だが、本物の星空とは違う。
光は瞬くだけではなかった。
集まり、離れ、時には一斉に向きを変える。
目を凝らすたびに、さっきまで気づかなかった動きが見つかった。
「なあ、フィン!」
「はい……!」
「あれ、動いてる!」
「本当だ……!」
フィンは慌てて鞄から記録装置を取り出しかけた。
だが、途中で手が止まった。
目の前の光景から、視線を外せなかったのだ。
「……こんなの、見たことありません」
その声は、いつもより小さかった。
ルカも黙っていた。
湖面はほとんど波立っていない。
それなのに、水中では数え切れないほどの光が絶えず動き続けている。
水面近くを漂う光。
中層をゆっくり横切る光の群れ。
そして、遠い深みへ沈むにつれ、少しずつ消えていく光。
その下には、何も見えない暗闇が広がっていた。
どこまで深いのか。
その闇の底に何があるのか。
今のルカには、想像もできなかった。
「全部が魚ってわけじゃないんだ」
ノックスが二人の隣へ来た。
「天井や岩壁には光る微生物がいる。水の中にも小さな生き物がいて、その中を魚たちが泳いでるんだ」
「……魚が?」
ルカが振り返る。
「うん」
「じゃあ、あの光の一つ一つの中に……!」
「まだ知らない魚がいるかもしれないね」
ノックスが笑った。
ルカは再び湖を見た。
さっきまで美しい星のように見えていた光が、今度はまったく違って見え始めた。
あの青い帯の中を、魚が泳いでいる。
遠くで瞬く小さな光も、生き物の動きかもしれない。
そして、その光を追って、もっと大きな魚が泳いでいるのかもしれない。
「……すっげえ!」
ルカの声が、広い空間に響いた。
「なあ、フィン! あの奥まで行ってみようぜ!」
「はい!」
フィンも笑顔を浮かべた。
「調べたいことが、山ほどありますね!」
ノックスが嬉しそうにうなずいた。
「僕も、何度来てもそう思うよ!」
「何度も来てるのに?」
「うん。来るたびに、知らなかったことが見つかるんだ」
ルカは湖の奥を見つめた。
目の前に広がる星々でさえ、その全てを見渡せているわけではない。
「……行こうぜ!」
ルカは振り返った。
「早く、あの湖を調べよう!」
オーウェンが二人の肩を軽く叩く。
「その前に、調査艇の確認だ!」
「おう!」
ルカはもう一度、目の前に広がる光景を見渡した。
遥かな天井に瞬く星々。
静かな湖面はその光を映し、水の中では無数の星がゆっくりと流れている。
星海地底湖〈コズミック・アビス〉。
地の底に広がる、もう一つの星空だった。




