第5話 水中の翼
「やっと見えた」
青白い光が閉じる。
その瞬間には、もう魚の輪郭が分からなくなっていた。
だが糸は張っている。
竿の先には確かに何かがいる。
「下流!」
フィンの声に、ルカが走った。
魚が浅瀬を横切る。
白い砂の上を大きな影が走った。
「でかい!」
これまで消えていたのは、小魚だった。
ルカは無意識に、相手もそれほど大きくないと思っていた。
違う。
影だけでも、ルカの腕よりずっと長い。
魚が体を傾けた。
水の中が光った。
今度は見えた。
銀白色の細長い体。
背には青緑色が薄く走っている。
そして体の左右から、薄く半透明なものが異様な大きさで開いた。水を受けて広がったそれが太陽を返し、白い光を水底へ投げる。
「翼……?」
ルカが呟いた。
魚が反転する。
開いていたものが体へ沿う。
するとまた輪郭が薄れた。
「胸ビレです!」
フィンが叫ぶ。
「あれが胸ビレかよ!」
魚が上流へ向く。
竿が一気に引かれた。
ルカは両手で支え、足を踏ん張る。
「行かせる!」
「そっちは岩があります!」
「分かってる!」
ルカは竿を横へ倒した。
魚の進む向きがわずかに変わる。
白砂の上へ戻る。
また光。
今度はルカも目を逸らさなかった。
光そのものではなく、その前後を見る。
胸ビレが開く。
魚体が傾く。
その角度で光が走る。
「……あの動きだ」
「何がです?」
「胸ビレを開いて、体を傾けた時に光ってる!」
胸ビレが開く。
魚体が傾く。
その瞬間に、太陽を受けた光が水の中へ走る。
あの小魚たちは、その直後に群れを崩していた。
「だから群れが割れたんだ」
ひとつ、つながった。
その瞬間だった。
魚が急に走った。
「うわっ!」
竿が大きく曲がる。
ルカの靴が水際を滑り、一歩、二歩と持っていかれる。それでも竿は離さない。
「ルカさん、無理に止めないで!」
フィンが荷物へ走る。
ケースを開く。
中から折り畳まれた大きな網を引き出した。
「それ入ってたの!?」
「必要なものです!」
「それも!?」
「今まさに必要でしょう!」
ルカが笑った。
「確かに!」
魚がまた反転する。
だが最初ほど勢いはない。
ルカは魚が走れば無理に止めず、動きが弱まれば少しずつ手前へ寄せた。
距離が縮まり、魚の姿が見える時間も長くなった。銀白色の体に青緑の背、大きな半透明の胸ビレ。閉じれば輪郭が薄れ、開けば光が走る。
「すげえ……」
ルカは釣っている最中なのに笑っていた。
「こんなのいるんだ」
魚が浅瀬へ入る。
「フィン!」
「行けます!」
フィンが網を水中へ沈めた。
ルカがゆっくり魚の向きを変える。
一度、魚が網の手前で反転した。
光が弾ける。
網を避ける。
「まだ元気!」
「もう一度!」
ルカは焦らなかった。
魚が落ち着くまで待つ。
再び寄せる。
頭が網の上へ入った。
「今!」
フィンが網を持ち上げる。
魚が暴れた。
水面が大きく揺れる。
「入った!」
二人で網を支えた。
ルカがすぐにしゃがむ。
「上げすぎるなよ」
「分かっています」
魚の体は水の中に残したまま。
網の中で、胸ビレがゆっくり開いた。
さっきまで激しく走っていた光が、今度は水底へ静かに広がった。
ルカは何も言わなかった。
ずっと姿を追えなかった魚が、透明な水の中でようやく一メートルを大きく超える全身を見せている。
ルカの視線が頭から尾まで動く。
一度では追いきれなかった。
フィンも魚を見ていた。
「一メートル五十前後ありそうですね」
「これがずっといたのか」
ルカは水面近くまで顔を寄せた。
近くで見ると、少しずつ分かってきた。
銀白色の体は、差し込む光を拾って白い砂の色に紛れる。
半透明の胸ビレの向こうには、水底がそのまま透けて見えた。
魚が少し体を傾ける。
白い反射がルカの目を横切った。
その一瞬だけ、頭から尾まで追えていたはずの輪郭を見失う。
「……そっか」
フィンが顔を上げる。
「どうしました?」
「透明だったわけじゃないんだ」
ルカは魚を見る。今なら、そこにいる輪郭がはっきり分かる。
それでも少し角度が変われば、体の境目が水へ紛れる。
胸ビレ越しには背景が透ける。
そこへ強い反射が重なる。
「見えてたのに、追えなかったんだ」
フィンも魚を見た。
「この水の透明度も関係していそうですね」
ルカは頷いた。白い砂と澄みきった水へ、銀白色の体が溶け込んでいる。
「ここの魚って感じだな」
ルカが手を伸ばしかけて止めた。
「触っていい?」
「先に状態を見ます」
フィンはすぐ記録を始め、呼吸や傷、針の位置、魚体の状態を順に確認した。
「口の端です。外せます」
ルカが水中で針を外した。
魚が一度身を震わせる。
「ごめんな」
フィンがカメラを構える。
「そのまま支えてください」
「水から出さない?」
「できるだけ出しません」
ルカは両手を水中へ入れた。
魚の腹側をそっと支える。
重い。
だが力任せには持たない。
魚自身が水の中で姿勢を保てる程度に支える。
フィンが横、背、胸ビレと角度を変えて撮影する。
「広げたところ撮れる?」
「無理に広げません」
「そりゃそうか」
ルカは笑った。
その時だった。
魚がわずかに体を傾けた。
胸ビレが自然に開く。
陽の光が透けた。
網の中に白い光が広がる。
フィンが息を呑み、続けて二度シャッターを切った。
「撮れた?」
「撮れました」
フィンの声が少し上ずっていた。
ルカが顔を上げる。
「フィン、嬉しそう」
「記録できたんですよ」
フィンは画面を確認する。
「生きた状態で、光っているところまで残せました」
ルカは魚へ目を戻した。
大きく開いた半透明の胸ビレ。
光を返す銀白色の体。
「鏡みたいだな」
「え?」
「こいつ」
ルカが胸ビレを見る。
「それで、翼みたいなヒレ」
フィンも魚を見る。
少し考えてから言った。
「ミラー……ウイング?」
ルカが笑った。
「いいじゃん、それ」
「名前として記録するなら、まだ仮称ですけど」
「じゃあ今はそれでいいだろ」
ルカは魚を見る。
「ミラーウイング」
魚がゆっくりエラを動かした。
フィンは端末へその呼び名を入力した。
正式な名前ではない。
ただ、二人が目の前の魚を呼ぶための名前だった。
「全長を確認します」
二人で魚を水中に保ったまま、大きさを測る。
一メートル五十センチほど。
フィンが数字を入力した。
ルカは魚の体を見る。
「あの光、やっぱり胸ビレだったな」
「光と捕食が続けて起きた記録は取れました」
ルカは、胸ビレを開いた瞬間の映像をもう一度見る。
反射の直後、小魚の群れが割れている。
「同じ動き、何回もやってる」
「そこまでは記録できます」
ルカは眉を上げた。
目の前まで来て、釣って、触れた。それでも分からないことは残っている。
胸ビレはどうやってあの反射を生み出すのか。どの角度まで狙えるのか。なぜ群れ全体ではなく一匹だけを外せるのか。いつ狩りをし、どこまで人の姿を見ていたのか。
釣る前は、正体さえ分かれば全部分かる気がしていた。
今は逆だった。
ルカは魚を見たまま、少し笑った。
「釣る前より、気になること増えた」
フィンも記録画面へ目を戻す。
「記録できたことと、まだ切り分けられていないことが増えました」
ルカは胸ビレを見る。
「次はそこ見る」
「はい」
フィンは即答した。
記録を終える。
針傷から出血はない。
呼吸も落ち着いている。
「戻しましょう」
ルカは頷いた。
網をゆっくり開く。
魚はすぐには出なかった。
水の中でじっとしている。
ルカは腹の下に添えていた手を少しずつ離した。
「行けるか?」
尾が二度動き、魚が前へ進む。
銀白色の体がルカの手から離れた。
数メートル先で止まる。
ルカとフィンが見守る。
魚が体を傾けた。
胸ビレが開く。
青白い光が、水底を大きく滑った。
次の瞬間。
銀白色の輪郭が白砂の中へ紛れていく。
ルカは光が消えた先を見ていた。
フィンは端末を見る。
そこには、さっき撮ったばかりの魚が映っていた。
銀白色の体。
青緑の背。
水の中いっぱいに開いた、透明な翼。
「ルカさん」
「ん?」
フィンは端末に残った写真を見ていた。
「こういう記録を残したいんです」
ルカが画面を覗く。
「こういう?」
「名前と大きさだけじゃなくて、どこにいて、どう泳いで、何を食べて、どう生きているのか」
フィンは写真を一枚送った。
光の中に浮かぶ魚。
「生きている魚を、生きている姿のまま残したい」
ルカは少し黙った。
それから魚が消えた水路を見る。
「俺は、まだ見たことない魚を探して釣りたい」
「知ってます」
「フィンは、見つけた魚を残したい」
フィンが頷く。
ルカは少し笑った。
「今回は、ちょうどよかったな」
フィンも水路へ目を向けた。
「そうですね」
透明な水が流れている。
魚の姿はもう見えない。
それでもルカは、しばらく水から目を離さなかった。




