第47話 フィンの故郷
天龍瀑の麓へ戻った時、ルカは大きく背を伸ばした。
「っはあー! 帰ってきた!」
「……ようやくですね」
フィンは荷物を下ろし、その場に腰を下ろした。
「登るのも大変でしたけど、下りるのも相当きつかったです……」
「足、笑ってる?」
「笑ってます。ルカさんは平気なんですか?」
「俺も! さっきから膝が変!」
「だったら立ったまま伸びないで、座ったらどうですか」
「それもそうだな!」
ルカが隣に腰を下ろすと、ミンが笑った。
「二人とも、登る前とはずいぶん静かになったね」
「俺はまだ元気だぞ!」
「そういうところは変わらないか」
マーカスは積み上げた機材を見て、長く息を吐いた。
「……しばらく岩壁は見たくないな」
「えー! 俺、また登りたいけど!」
「今度は一人で行ってこい」
「いや、またマーカスにも来てほしい!」
「人の話を聞け!」
リン博士が笑った。
「それだけ大変だったからこそ、天湖までたどり着けた時は嬉しかったわね」
「うん! あの景色、忘れられない!」
「僕もです」
フィンは山を見上げた。
「登っている間は、天湖が本当にあるのかと思うくらい遠かったですけど……」
「実際、あんな場所に湖があるんだからな」
ミンが言った。
「映像で見返しても、まだ信じられないよ」
「帰ったら見せて!」
「ルカは現物を見ただろ」
「映像でも見たい!」
セイランが荷物をまとめながら、声をかけた。
「みんな、よく頑張った。全員でここまで戻ってこられてよかったよ」
ルカは振り返った。
九つの滝。
切り立った岩峰。
その上に広がっていた天湖。
ここからは、もう見えない。
「……すごいところだったな」
「ええ」
フィンが隣でうなずいた。
「でも、まだ分からないことがたくさんありますね」
「だな!」
ルカは笑った。
「また来たい!」
「もう少し休んでから考えましょうよ」
六人の笑い声が重なった。
◇
機材を積み終えると、いよいよ別れの時間になった。
「ルカ、フィン。二人とも、本当にお疲れさま」
リン博士が声をかけた。
「博士も! ロンユウのこと、何か分かったら教えてよ!」
「もちろん。フィン、記録の共有もよろしくね」
「はい。整理できたものから送ります」
ミンがフィンに手を振った。
「また映像を一緒に見よう。確認したいところもあるんだ」
「ぜひ。連絡しますね」
セイランはルカとフィンの顔を見た。
「次の釣査でも、無事に帰ってきてくれよ」
「もちろん!」
「はい。セイランも、お元気で」
最後にマーカスがルカの肩を叩いた。
「次に登る時までに、もう少し足腰を鍛えておけ」
「おう! 次はもっと鍛えてくる!」
「次も登る気か?」
「もちろん! また案内してよ、マーカス!」
「……少しは休ませろ」
フィンが笑った。
ルカは仲間たちに大きく手を振り、山を見上げた。
あの滝の向こうでは、今もロンユウが泳いでいる。
「また来るからな!」
「ロンユウに言ってるんですか?」
「うん!」
「届きませんよ」
「分かんないだろ!」
二人は笑いながら、帰路についた。
◇
機構へ戻ってから、フィンは天龍瀑の記録整理に追われていた。
ルカも報告を済ませ、二人がゆっくり顔を合わせたのは数日後だった。
「記録、終わった?」
「提出する分は、ひとまず。まだ確認したいところはありますけど」
「お疲れ!」
「ルカさんも」
フィンは鞄を肩に掛けた。
「それで、明日から少し故郷へ帰るんです。久しぶりなので」
「フィンの故郷?」
「リードウェルっていう町です」
「どんなとこ?」
「川沿いの町ですよ。古い建物や店が多くて……」
フィンは少し考えた。
「ルカさんも、一緒に来ませんか?」
「えっ、いいの?」
「はい。僕の育った町も、見てもらいたくて」
「行く!」
「まだ予定を聞いてませんけど」
「ない!」
「……そうだと思いました」
フィンが笑う。
「じゃあ、案内しますね」
◇
リードウェルの駅を出ると、石造りの建物が並ぶ通りの先に川が見えた。橋の向こうには小さな店が続き、窓辺には花が飾られている。
「ここがフィンの町か!」
「そうです。あの橋も、変わってませんね」
二人で橋を渡りかけたところで、フィンが足を止めた。
「あっ」
「どうした?」
「あのお店、まだありますね。ちょっと寄ってもいいですか?」
フィンが指した先には、釣具と古い本を扱う小さな店があった。
「よく来てたの?」
「学校の帰りに、何度も」
「じゃあ行こうぜ!」
フィンが扉を開けると、小さな鈴が鳴った。
「こんにちは」
奥で本を整理していた女性が顔を上げた。
「……フィン?」
「お久しぶりです」
「あらまあ! いつ帰ってきたの?」
「さっきです」
「家には?」
「これからです」
女性は腰に手を当てた。
「あんた、家より先にうちへ来たのかい!」
「通り道だったので……」
「相変わらずだねえ。昔から、本棚の前に立つと帰らなくなって」
ルカが笑った。
「そうだったの?」
「閉店するから帰りなって言っても、あと一頁だけってね」
「途中で閉じると、続きが気になるじゃないですか」
「ほら、今でも同じこと言ってる!」
ルカと店主が笑う。
フィンは照れたように本棚へ目を向けた。
「……新しい地域魚類誌、入りました?」
店主は、今度こそ声を上げて笑った。
「帰ってきて最初に聞くのがそれかい!」
ルカも笑った。
「ははっ! 本当に変わってないんだな、フィン!」
「もう、いいでしょう!」
フィンは奥の棚へ向かった。
ルカも後ろからついていく。
しばらくして、二人とも本を手に取ったまま動かなくなった。
「……今度は二人かい」
店主の声に、フィンが顔を上げる。
「え?」
「閉店までいるなら、先に家へ帰ったって連絡しときな!」
◇
店を出ると、フィンは買った本を鞄へしまった。
「……つい長居しちゃいましたね」
「俺もあの探釣記、買えばよかったな」
「帰る前に、また寄りましょうか」
「うん!」
ルカは店を振り返った。
「フィン、小さい頃からあそこに通ってたんだな」
「はい。知らない魚を見つけると、絵を描いて持ってきたりしてました」
「店の人に見せに?」
「ええ。一緒に図鑑を探してくれたんです」
「いい店だな」
「そうですね」
フィンは少し先の通りを指さした。
「そうだ。あっちにも行きたい場所があるんですけど……先に家ですね」
「また寄り道?」
「まだ一か所しかしてませんよ!」
「帰ってきたばっかりなのに!」
ルカが笑うと、フィンも笑った。
「……見せたいところ、結構あるんです」
「じゃあ、明日も案内してよ!」
「もちろん!」
ルカは歩きながら、ふと思い出した。
「そういえば、フィンはブルーリーチに来たことないよな?」
「ないですね」
「今度来てよ。俺の故郷も案内する!」
「ぜひ。行ってみたいです」
「レイクフォードの連中にも会わせたいし!」
フィンは笑った。
「楽しみにしてます」
◇
フィンの家では、両親が二人を迎えてくれた。
「お帰り、フィン」
「ただいま」
「ルカさんね? いらっしゃい」
「ルカ・スケイルです! お世話になります!」
母親が笑った。
「話は聞いてるわ。フィンと一緒に、いろんなところへ行ってくれてるんでしょう?」
「うん! 天龍瀑にも行ってきた!」
「よく無事に帰ってきたね」
父親がフィンの荷物を受け取りながら言った。
「相当大変だったんじゃないか?」
「登りも下りも、すごかったです……」
「でも、天湖まで行けたんだよ!」
ルカが答える。
「それは後でゆっくり聞かせてもらおう。まずは荷物を置いておいで」
「はい!」
フィンはルカを二階へ案内した。
扉を開けると、壁いっぱいの本棚が現れた。
「……すげえ」
魚類図鑑、地域誌、探釣記、古い記録集。
棚の下には何冊ものノートが並び、机にも本が積まれている。
「ここ、フィンの部屋?」
「そうですよ」
「本屋みたいだな!」
「さっき行ったばかりでしょう」
ルカは棚から一冊を抜いた。
「あっ、雷帝湖!」
「昔から持ってます」
「天龍瀑もある!」
「それも、行く前に読み直しました」
ルカは棚を見渡した。
「今回の記録、どこに置くの?」
「……そこなんですよね」
「場所ないじゃん!」
「だから困ってるんです!」
二人は笑った。
机の端には、使い込まれた観察帳が積まれていた。
「これも見ていい?」
「どうぞ。昔のですけど」
ルカは頁を開いた。
魚の横姿。尾を曲げたところ。石の陰から顔を出したところ。同じ魚が、何度も描かれている。
「これ、フィンが描いたの?」
「はい。動いてるところを残したくて」
「何回も描いてるじゃん」
「一枚じゃ分からなかったんですよ」
ルカは次の頁をめくった。
魚の名前の下に、細かい字で訂正が入っている。
「あ、名前間違えてる」
「後で調べ直したんです。最初は別の魚だと思ってて」
「消さなかったんだ?」
「間違えたことも、記録ですから」
ルカは次の頁をめくった。
今度は、魚の尾だけを大きく描いた絵があった。
「これ、何?」
「泳いでるところを描こうとしたんですけど、速くて」
「ははっ! 尾だけになっちゃったのか!」
「笑わないでくださいよ。結構頑張ったんですから!」
フィンは本棚から一冊の図鑑を抜いた。
「いつか、こういう図鑑を作りたいんです。世界中の魚を、自分で見て、記録して」
「世界中?」
「はい。姿だけじゃなくて、泳ぎ方も、暮らしている場所も。実際に見に行けない人にも、その魚のことが伝わるような」
「……それ、俺も欲しい!」
「まだ作ってませんよ」
「じゃあ、できたら一番に見せて!」
「ルカさんにも記録を手伝ってもらうつもりなんですけど」
「えっ、俺も?」
「今までだって、一緒に調査してきたじゃないですか」
「そっか! じゃあ、俺が釣った魚も載るな!」
「ちゃんと記録が取れれば、ですけどね」
「任せろ!」
「……本当に?」
「そこは信じてよ!」
◇
夕食では、二人が出会った頃の話になった。
「最初は、フィンが俺のところに来たんだよ!」
ルカが言うと、フィンが笑った。
「クリア・スプリングスの調査ですね。まだ説明の途中だったのに、ルカさん、行く気になってましたから」
「だって、何かいそうだったじゃん!」
「何がいるのかも分かってなかったんですよ」
「だから行きたかったんだって!」
父親が笑った。
「そこから、ずっと一緒なのかい?」
「別々の調査もありましたけど、何度もご一緒しました。雷帝湖にも行きましたし」
「あの雷、すごかったな!」
ルカが両手を広げる。
話は砕岩大峡谷での日々や、雷帝湖の雷雨、そこで出会った人々のことへと広がり、やがて天龍瀑へ移っていった。
ルカが九つの滝を身振りで説明すると、フィンが横から訂正を入れる。
「ルカさん、それは第八瀑ですよ」
「あれ、そうだっけ?」
「第九瀑はその後です」
「ああ、そうだった!」
母親は笑いながら二人の話を聞いていた。
「フィンから聞いていたけど、こうして二人に話してもらうと、また違うわね」
「ルカさん、途中の話を飛ばしますからね」
「フィンが覚えてるからいいじゃん!」
「最初から頼りにしないでください!」
父親も笑った。
「ずいぶんいろんなところへ行ったんだな」
「うん! まだ行きたい場所もいっぱいある!」
母親がフィンを見た。
「フィンも、楽しそうね」
「……はい」
フィンは笑って答えた。
食事の後、ルカが明日の予定を尋ねると、フィンはすぐに話し始めた。
「川沿いの通りと、昔よく行った広場と……あ、昼は食べてもらいたいものがあるんです」
「何?」
「明日のお楽しみです」
「気になる!」
「それから、橋の向こうにも――」
「フィン」
父親が声をかけた。
「一日で全部回れるのか?」
「……あ」
ルカが笑った。
「フィン、行きたいとこ多すぎ!」
「せっかく来てもらったので!」
ルカが笑うと、フィンもつられて笑った。
「じゃあ明日、早く起きようぜ!」
「ルカさんこそ、寝坊しないでくださいね」
「任せろ!」
父親が二人を見比べた。
「……一日で足りるといいな」
「あっ」
フィンが顔を上げる。
「橋の向こうに、もう一か所ありました!」
「まだあるのかよ!」
両親が笑った。




