第46話 帰龍
翌朝、ルカが観測地点へ着いた時、白い礫地にはすでにロンユウが集まっていた。
昨日は湖の奥へ進んでいく魚たちを追うだけで精一杯だったが、今日は最初から礫地を見渡せる場所にいる。青緑色の深みから長い魚体が現れ、白い底の上を通っては、また暗い水へ戻っていく。
「……まだいた」
ルカが双眼鏡を構えると、隣でフィンが受信機を確かめた。
「L-07の反応も続いています。昨日から礫地のある方向で拾っていますね」
「じゃあ、あいつもあの辺か」
「そうですね。この位置から正確な場所までは絞れませんけど」
ルカは魚たちを探した。
青銀色の背がいくつも見える。昨日はその数に驚いていたが、同じ場所を眺め続けるうちに、泳ぎ方にも違いがあることに気づいた。
礫地を横切って深みへ戻る魚がいる一方、何度も同じ場所へ戻ってくる魚もいる。
ルカが追っていた大きなロンユウも、その一匹だった。
「フィン、あのでかいやつ」
「黒い岩の横ですか?」
「そう。さっきもあそこ通ったよな?」
「ええ。今朝は三度目です」
「何が気に入ってるんだろ」
大きなロンユウは黒い岩の手前で速度を落とした。
その進路へ、少し細身の個体が近づいてくる。二匹はすれ違うかと思われたが、大きな魚が向きを変えると、もう一匹もその脇へ回り込んだ。
青銀色の体が並ぶ。
「……あれ?」
ルカは双眼鏡を止めた。
一匹が少し先へ出ると、もう一匹が追いつく。しばらく並んだあと、二匹は礫地の端で離れたが、深みへ向かう前に再び近づいた。
「フィン、今の見た?」
「はい」
「ずっと一緒に泳いでない?」
フィンが記録画面へ目を落とす。
「昨日も似た動きが映っています」
「ほんと?」
ルカが画面を覗こうとした時、ミンの声が飛んだ。
「ルカ! こっちも!」
カメラの向いた先では、別の二匹が白い礫の上を泳いでいた。
片方が体を傾け、もう一匹がそのすぐ横へ寄る。二つの影が重なったところで長い尾が振られ、底の細かな砂がふわりと舞い上がった。
「うわっ!」
白く濁った水から、一匹が先に抜け出した。続いてもう一匹が姿を現す。二匹は少し離れたものの、礫地から去ろうとはせず、再び同じ辺りを回り始めた。
ルカは先ほどの大きな魚へ視線を戻した。
あの二匹も、まだ近くにいる。
その奥でも、別のロンユウが一匹に寄り添うように泳いでいた。
「……あっちもだ」
昨日は、こんなにたくさんのロンユウがいることに驚いた。
今日は、魚たちの動きから目が離せなくなっていた。
◇
「リン博士、ちょっと見て!」
ルカが呼ぶと、リンは記録端末から顔を上げた。
「どうしました?」
「あの二匹。さっきから近づいたり離れたりしてるんだ。ほかのやつも、似たことしてない?」
リンは双眼鏡を構え、ルカが示した場所を確かめた。
大きなロンユウが礫地の端で向きを変える。少し離れていた細身の魚がその後ろへ回り、再び二匹が並んだ。
リンは続けて、ミンの映像を覗き込む。
「ミンさん、今の二匹を追ってください。フィンさん、最初に同じ場所を通った時刻は分かりますか?」
「はい」
フィンが記録を開く。
ルカも画面へ顔を寄せた。さっきの大きな魚が一匹で礫地を回り、その後ろへ細身の個体が近づいていく様子が映っている。
「これだ。同じやつだよな?」
「体の特徴は一致していますね」
リンは映像を確認し、湖へ視線を戻した。
「ほかの個体にも似た行動が見られます。もう少し広い範囲を撮りましょう」
ミンがレンズを引いた。
それまで二匹だけを追っていた画面に、周囲のロンユウたちが入り始める。
「……あ」
ルカは思わず顔を上げた。
自分が見ていた二匹の向こうにも、魚がいた。
深みから近づいてくる個体。礫地を離れかけて、また戻る個体。別の魚の脇を通り過ぎ、そのまま並んで泳ぎ始める個体。
みんなが同じ動きをしているわけではない。
けれど、白い礫地の周りでは、何匹ものロンユウが互いに近づき、離れ、また別の魚と出会っていた。
「……こんなにやってたんだ」
ルカがつぶやいた。
最初の二匹を追うのに夢中で、その周りを見ていなかった。
◇
やがて礫地の中央へ、ひときわ大きなロンユウが入ってきた。
深い場所から浮かび上がった魚体は青緑色を帯び、陽の届くところへ出ると、背から尾にかけて鱗が明るく光った。長い胸鰭を広げ、白い底のすぐ上をゆっくり進んでいく。
その脇へ、別の一匹が近づいた。
大きな魚が体を傾ける。
もう一匹も向きを変えた。
「……来た」
ルカは息を詰めた。
二匹の魚体が並び、長い尾が交差するように動く。白い礫に落ちた影が重なったかと思うと、片方が速度を上げた。
もう一匹が追う。
青銀色の体が礫地を横切り、黒い岩の手前で大きく向きを変えた。尾が水底近くを通ると、細かな砂が巻き上がる。
「うわあっ!」
ルカの声に、ミンがカメラを動かした。
二匹が白い濁りの向こうへ抜ける。
その先では、別のロンユウたちが泳いでいた。
一匹が近づくと、もともと並んでいた二匹の間隔が開く。離れた魚はそのまま深みへ向かわず、礫地の外側を回って戻ってきた。
ルカはどの魚を追えばいいのか分からなくなった。
「ミン、あっち! いや、こっちも!」
「両方は無理!」
「フィン、今の見た?」
「見てます! ルカさん、右の二匹は僕が追います!」
「頼んだ!」
ルカは左側の魚へ双眼鏡を向けた。
リンも、セイランも、マーカスも、湖を見ていた。
誰も、すぐには言葉を続けなかった。
白い礫地のあちこちで、長い魚体が重なり、離れていく。尾が振られるたび、砂が小さく舞った。深みから新しい個体が現れ、明るい水へ入ったところで青銀色に輝いた。
ルカは一匹を見失い、別の魚を見つけ、また視線を戻した。
見ている間にも、湖底の光景は変わり続けていた。
◇
雲の影が、礫地の端を離れた。
陽が差し込み、白い湖底がそれまでより明るく見える。
ルカは思わず双眼鏡を下ろした。
今まで暗がりに紛れていた魚まで、見え始めていた。
礫地へ近づくもの。
周囲の深みをゆっくり回るもの。
二匹で並び、そのまま別々の方向へ泳いでいくもの。
遠くから見れば、青緑色の湖の底を、いくつもの長い光が行き交っているようだった。
「……すげえ」
ルカはそれしか言えなかった。
隣ではフィンが受信機を持ったまま、湖を見つめていた。
ミンのカメラも、もう一匹だけを追ってはいない。広がった礫地と、その周囲を泳ぐロンユウたちを収めている。
リン博士はしばらく無言だった。
やがて、小さく息を吐く。
「……ここに、集まっていたんですね」
ルカは博士を見た。
リンは目を細め、湖の奥を眺めていた。
九つの滝の下でロンユウを追ってきたのは、自分たちだけではない。博士も、セイランも、ミンも、マーカスも、それぞれの場所でこの水系に関わってきた。
けれど、今は六人とも、同じ景色を見ていた。
ルカはもう一度、湖へ顔を向けた。
白い礫の上で、大きなロンユウがゆっくり向きを変えた。その隣へ別の魚が近づき、二匹は並んで泳ぎ始める。
ルカは、その姿が深みに消えるまで見送った。
◇
しばらくして、リンが口を開いた。
「繁殖に関わる行動である可能性があります」
ルカが振り向く。
「さっきの?」
「ええ。個体同士が近づく動きや、特定の礫地への集まり方です。帰龍との関連を調べるうえで、重要な観察になると思います」
「じゃあ、卵を産んでるの?」
「そこまでは、まだ確認できていません。今見ている行動が、産卵の前に起こるものなのか、別の意味を持つのかも、これから調べる必要があります」
「そっか」
ルカは素直にうなずいた。
分からないことは、まだたくさんある。
けれど、さっき目の前で起きたことは、確かに見た。
「……リン博士」
「はい?」
「ここまで来てよかったな」
リンは少しだけ驚いた顔をした。
それから、湖へ目を戻した。
「ええ。本当に」
フィンが受信機を確かめる。
「L-07の反応も続いています。今も礫地のある方向です」
「あいつも、あっちにいるんだな」
「はい」
ルカは白い礫地を見た。
どの魚がL-07なのか、今は分からない。
けれど、昨日その姿を確かめた。第一瀑の下で出会った一匹が、登龍門を越え、この湖を泳いでいる。
そして今、目の前には、ロンユウたちが互いに近づき、泳ぎ続ける光景が広がっていた。
「……よかったな、あいつ」
ルカがつぶやくと、フィンが隣でうなずいた。
もう一度、青銀色の魚体が礫地を横切った。
◇
午後の観測を終える頃には、陽が少し傾き始めていた。
「今日はここまでだ」
セイランの声で、ミンがカメラから顔を上げた。
「最後の映像、保存できたよ」
「フィン、受信記録は?」
「問題ありません」
「よし。戻って整理しよう」
「えー、もう?」
ルカが振り返ると、マーカスが笑った。
「お前、ここに住む気か?」
「ちょっと思った!」
「俺は下りるぞ」
「分かってるって!」
ルカは笑いながら双眼鏡を下ろした。
白い礫地では、まだロンユウたちが泳いでいた。朝から追っていた大きな個体は、もう見分けられない。その代わり、別の魚が明るい水へ出てきていた。
ルカは、その姿を少しだけ眺めた。
明日も観測は続く。
その時にはまた、違う魚の動きが見られるかもしれない。
「よし、戻ろう!」
フィンが機材ケースを持ち上げると、ルカもロッドを背負い直した。
◇
夕暮れの天湖は、朝とは違う色をしていた。
黒い岩峰の影が長く伸び、遠くの水面が淡い金色に染まっている。第九瀑へ流れ込む水の音が、風に乗って野営地まで届いていた。
ルカは岩盤の端に腰を下ろし、湖を眺めていた。
もう双眼鏡は持っていない。
遠くで魚の背が光った気がしたが、取りに戻ろうとは思わなかった。
「やっぱり、ここでしたか」
フィンが隣へ来た。
「何が?」
「ルカさんです。映像を整理していたら、いつの間にかいなくなっていたので」
「ここにいるって分かったんだろ?」
「まあ、ほかに行きそうな場所もありませんし」
フィンが隣へ腰を下ろす。
しばらく、二人で湖を眺めた。
「……今日、すごかったな」
ルカが言った。
「ええ」
「あんなにいると思わなかった」
「僕もです。昨日は、あの深みに何匹いるのかも分かりませんでしたから」
「なあ。追いかけたら、あんな景色があったんだな」
フィンは湖を見つめたまま、うなずいた。
「……来られてよかったです」
「うん」
ルカも笑った。
「俺も」
風が吹き、湖面に細かな波が広がった。
「……フィン」
「はい?」
「また、ああいう魚を追いかけたいな」
「ロンユウみたいな魚ですか?」
「ううん。最初は何にも知らなくてさ。追いかけてるうちに、どんどん違うところが見えてくるやつ」
フィンは少し考えてから、湖へ目を戻した。
「……いると思いますよ。まだ行ったことのない水域も、たくさんありますから」
「だよな!」
ルカは立ち上がり、フィンへ手を差し出した。
「じゃあさ、また一緒に行こうな」
フィンはその手を取って立ち上がった。
「ええ。僕も一緒に行きたいです」
「よし! じゃあ決まり!」
「次はどこへ行くんですか?」
「まだ決めてない!」
「……決めてから誘ってくださいよ」
「いいじゃん。どうせ行くんだから!」
フィンは呆れたように笑った。
ルカも笑いながら、もう一度だけ天湖を振り返る。
黒い岩峰に囲まれた湖では、青銀色のロンユウたちが、今も泳いでいる。
ルカはフィンと並び、野営地へ歩き出した。




