第45話 瀑龍鯉
天湖で迎えた最初の朝、ルカは岸辺にしゃがみ込んでいた。
昨夜設けた野営地から少し下っただけで、昨日、岩盤の上から見た湖とはずいぶん印象が違った。遠くからは一面の青緑色に見えた水も、足元では底の小石まで透けている。黒い岩が湖へ沈む場所では急に深くなり、その隣には、白い礫が広がる浅瀬があった。
ルカは水へ指を入れ、すぐに引っ込めた。
「冷たっ!」
「何やってるの?」
カメラを持って下りてきたミンが笑った。
「どんくらい冷たいのかなって」
「どうだった?」
「思ったより冷たい」
「でしょうね」
ルカは濡れた手を振り、もう一度水面を覗いた。
自分の影が浅瀬へ落ちている。その端を、小さな銀色のものが横切った。
「……ん?」
目を凝らす。
白い小石の上を、細い魚が泳いでいた。背には淡い緑色が差し、透き通った鰭は水中でほとんど見えない。魚が止まると、銀色の体も小石の色に紛れてしまった。
見失ったと思ったところへ、別の一匹が現れた。
「ミン、魚!」
「どこ?」
「そこ! 黒い石の横!」
ミンがカメラを向けると、魚は岩陰へ入ってしまった。
「あれ、いない」
「さっきまでいたんだって!」
ルカが指した先で、また銀色が動く。
「いた!」
「ほんとだ。ちっちゃいね」
目が慣れてくると、魚は一匹だけではなかった。小石の間を抜けるもの、岩陰から出てくるもの、浅瀬の少し深いところで体を傾けるもの。光の当たり方によっては、銀の欠片が水中にいくつも浮かんでいるように見えた。
「リン博士! この魚、知ってる?」
観測機材を持って下りてきたリンが、ルカの隣へしゃがんだ。
「どれですか?」
「ほら、今あそこ通った!」
リンは浅瀬をしばらく見つめ、魚が再び姿を現すと、わずかに目を見開いた。
「……玉泉魚〈ギョクセン〉ですね」
「ギョクセン?」
「ええ。この湖で泳ぐ姿を見られたのは、私も初めてです」
リンが魚を追っている間に、フィンも水際へ来た。
「見つけたんですか?」
「うん。結構いるぞ」
ルカは足元の浅瀬を示した。
「最初、一匹しかいないと思ったんだけどさ。見てたらどんどん出てくる」
ギョクセンは波が寄せると岩陰へ入り、しばらくするとまた小石の間へ戻ってきた。群れを追っているうちに、ルカはどこに目を向ければ見つけやすいのか、少しずつ分かってきた。
「こういうの、いいな」
「何がですか?」
フィンが尋ねる。
「初めて来た場所で、初めて見る魚を見つけるの」
ルカは笑った。
「天湖って、ロンユウのことばっかり考えてたけど、こんな魚もいるんだな」
沖へ目を向ければ、湖はまだ雲の向こうまで続いていた。足元の浅瀬でさえ、さっきまでは何もいないと思っていたのだ。
ほかにはどんな魚がいるのだろう。
ルカはもう少しギョクセンを見ていたかったが、フィンが受信機を取り出すと、そちらへ顔を向けた。
「……あいつは?」
「今朝も反応がありますよ」
フィンが画面を確かめる。
「湖側から、継続して受信しています」
「よし」
ルカは立ち上がった。
「今度はL-07を探そう!」
◇
第九瀑の落ち口を越えたあと、L-07の姿は見ていない。
昨日、天湖へ到達した時には信号を拾えたものの、魚が湖のどこを泳いでいるのかまでは分からなかった。
ルカは双眼鏡を構え、岸に沿って水面を探した。
黒い岩の影。風がつくる小さな波。雲が映り込んだ青緑色の水。
どこを見ても、すぐには魚が見つからない。
「……広いなあ」
「上から見た時も広かったでしょう」
「その時は、あの辺までなら見えると思ってたんだよ」
ルカは遠くの岬を指した。
「でも、ここからじゃ岩の裏が全然見えない」
湖へ突き出した黒い岩の先を、双眼鏡で追う。
水面に細長い影が浮かんだ。
ルカはそのまま視線を止めた。
影がゆっくり動く。
光の当たる場所へ出た途端、青銀色が見えた。
「……いた!」
フィンが顔を上げる。
「L-07ですか?」
「まだ分かんない。でもロンユウ!」
青銀色の魚は、岬の先をゆっくり回っていた。
長い胸鰭が左右に開き、細長い体が水中で傾く。尾を一振りするだけで、魚は滑るように進んだ。
ルカは双眼鏡を覗いたまま、少し笑った。
「……あいつに似てる」
登龍門を越えた時、最後に見た青銀色の背。白泡の中で開いた胸鰭と、長い尾。
今、目の前の魚は、あの時とはまるで違う泳ぎ方をしている。落水に打たれることも、強い流れへ向かうこともなく、静かな水の中をゆっくり進んでいた。
ミンがカメラを向け、フィンは受信機を持ってルカの隣へ立った。
「L-07の反応は、岬の方向から入っています」
「じゃあ、あいつかな」
「追ってみます」
魚が岬の陰へ消えると、フィンは受信機の向きを変えた。ルカも、反対側から魚が出てくるのを待つ。
少しして、青銀色の頭が現れた。
「出た!」
魚は岬の先端で向きを変え、再び水面近くへ浮かび上がる。
ミンが撮影した映像には、体側から尾にかけての姿と、頭部の角状突起が収まっていた。
リンは映像と追跡記録を確かめ、うなずいた。
「L-07と見てよさそうですね」
ルカは双眼鏡を下ろさなかった。
「……いたなあ」
「はい」
フィンも魚を見ている。
ルカは、少し前まであの魚が第九瀑の下にいたことを思い出した。何度も白泡へ入り、押し戻され、最後に尾の先まで落ち口を越えた。
それが今は、湖を泳いでいる。
「……なんか、ほっとした」
ルカが言うと、フィンが隣でうなずいた。
「僕もです」
魚は大きく尾を振り、岬の外側へ進んだ。
ルカはその後ろを双眼鏡で追った。
◇
L-07は岬の先端へ近づくと、徐々に深い方へ沈んでいった。
岸に近い場所では湖底の岩まで見えるが、岬の外側は急に水の色が濃くなる。青銀色の背がその暗がりへ入り、長い尾が一度揺れたあと、姿が見えなくなった。
「潜った……」
ルカは魚が消えた場所を見つめた。
少し待っても、浮かんでこない。
もう一度、岬の下へ双眼鏡を向ける。
黒い岩の陰で、何かが動いた。
ルカは焦点を合わせ直した。
「……あれ?」
岩だと思っていた長い影が、ゆっくり傾いている。
その端が持ち上がり、尾の形になった。
「フィン、下!」
影が深みから浮かび上がった。
L-07より大きく見えるロンユウだった。青緑色の体を傾け、岬の横を通って沖へ出ていく。
「……別のやつだ!」
ルカは大きな魚体を追った。
その下で、また影が動く。
今度は細長い魚が現れた。青銀色の背が光り、長い胸鰭が広がる。
「もう一匹!」
「まだいますよ」
フィンが岬の下を指した。
ルカは双眼鏡を戻した。
そこには、さっきまで気づかなかった影がいくつもあった。
一匹が動くと、その奥に別の魚が見える。明るい水へ浮かび上がった魚は青銀色に光り、深みへ戻ると、すぐに黒い岩と見分けがつかなくなった。
「……ちょっと待って」
ルカは双眼鏡を下ろした。
岬の周囲を、肉眼で見渡す。
水面は穏やかだった。朝の風が波をつくり、岩の縁で小さく砕けている。
その下を、大きな魚たちが泳いでいた。
「……あの下、全部ロンユウ?」
ミンがカメラの倍率を下げ、岬の周囲を広く収めた。
画面の中で、長い影がいくつも動いている。
「……すご」
ミンの声に、ルカも顔を寄せた。
魚たちは一か所に密集しているわけではなかった。岩の下へ潜るものもいれば、岬を離れるものもいる。大きな個体の後ろから小柄な魚が現れ、別の魚がその下を通り過ぎていった。
ルカはカメラから顔を上げた。
昨日は、あの辺りに魚がいることさえ知らなかった。
「……こんなにいたんだな」
リンも湖を見つめていた。
「ええ。深い場所に、かなりの数がいますね」
「みんな、九つの滝を上ってきたのかな」
「それはまだ分かりません。個体ごとの移動を確認できていませんから」
「そっか。あいつらも、どこを通ってきたんだろうな」
ルカは再び双眼鏡を構えた。
ロンユウたちは、それぞれ少しずつ姿が違っていた。青銀色の鱗が目立つもの。緑色を帯びたもの。胸鰭が長く見えるもの。頭部の突起が大きなもの。
追い続けた一匹と似た姿の魚が、目の前に何匹もいる。
「……あいつだけじゃなかったんだな」
フィンが隣で答えた。
「ええ」
ルカは笑った。
「すげえな、天湖」
◇
しばらくすると、岬の下から現れた魚たちが、少しずつ沖へ向かい始めた。
大きなロンユウが一匹、深い場所を抜けていく。その後ろから別の個体が現れ、少し離れた場所でも青銀色の背が同じ方へ進んでいた。
ルカは一匹を追い、見失うと次の魚へ視線を移した。
「あいつら、あっちへ行くんだ」
「どこかに集まるんでしょうか」
フィンも魚たちを見ていた。
沖には、周囲より水の色が淡い場所がある。底に白い礫が広がっているらしく、その上を魚が通るたび、大きな影が動いた。
リンが双眼鏡を向ける。
「礫地ですね。あの周辺にもロンユウがいます」
「ほんとだ」
朝から見ていた岬には、まだ魚が残っている。
一方、沖の明るい湖底にも、青銀色の背がいくつも現れていた。
ルカは、どちらへ双眼鏡を向ければいいのか迷った。
「……忙しいな、ここ」
ミンが笑う。
「さっきまで、魚がいないって探してたのにね」
「だって、こんなにいると思わなかったし!」
ルカはもう一度、岬の下を覗いた。
暗い水には、まだ長い影が見える。
それから沖へ双眼鏡を向けた。
白い礫の上でも、ロンユウたちが泳いでいる。
最初に見つけたギョクセンは、今も近くの浅瀬にいるだろう。足元の小さな魚から、深みを泳ぐ大きなロンユウまで、天湖にはそれぞれの暮らしがあった。
「……ここ、ずっと見てられるな」
ルカが言うと、フィンが笑った。
「本当に一日中見ていそうですね」
「一日じゃ足りないかも」
フィンが受信機を確かめた。
「L-07の反応も、岬の方から礫地のある方向へ移っています」
「じゃあ、あいつもあっちか」
「ええ。この位置から正確な場所までは絞れませんけど」
ルカは双眼鏡を構え直した。
沖へ向かった魚たちが、白い礫の周囲をゆっくり泳いでいる。
その中のどれがL-07なのか、もう見分けられなかった。
けれど、あの一匹が天湖にたどり着き、ほかのロンユウたちと同じ水を泳いでいることは、確かめられた。
ルカはしばらく、何も言わずに湖を眺めていた。




