第44話 天湖
L-07が消えた落ち口を、ルカはもう一度見上げた。
青銀色の魚体が、尾の先まで第九瀑を越えた。
あの瞬間は、まだ目に焼きついている。
だが、今は白い水しか見えない。
「全員、集まってくれ」
セイランの声がした。
ルカが振り返ると、マーカスは岩壁を見上げ、リンとミンは観測機材をまとめていた。フィンも受信機をしまい、セイランの前へ来る。
「L-07の登龍門突破は記録できた。次は我々が上へ向かう」
セイランは第九瀑の横を指した。
「ただし、ここから先に人が通れると確認された経路はない。マーカスの判断でルートを開き、全員が安全に続ける場所だけ進む」
マーカスがうなずく。
「正面の壁は使わん。右の亀裂から高度を稼ぐ」
「撤退する場合は?」
「稜線へ出るまでは、今から取る支点を使って下りられる。そこから先は地形を見て判断する」
セイランは全員を見渡した。
「一人でも行動を続けられない状態になれば、そこで止める。機材も無理には持たない。いいな」
ルカは、雲に隠れた壁を見上げた。
「……分かった」
ロッドの位置を直し、マーカスの後へ続いた。
◇
最初の亀裂には、細い水が流れていた。
マーカスは岩へ手を掛け、途中で動きを止める。
右側へ体を伸ばしかけ、すぐに戻した。
「そこは使わん」
小さな声が落ちてきた。
マーカスは別の亀裂へ手を移し、岩肌を確かめながら登っていった。
やがて岩棚へ上がると、支点を取り、ロープを下ろした。
「一人ずつ上げるぞ」
セイランがルカを見る。
「先に行け。上でマーカスの指示を受けろ」
ルカはうなずき、壁へ向き直った。
亀裂に手を入れる。
足を上げる。
濡れた岩に靴を押し当て、体を持ち上げた。
すぐ横を水煙が吹き抜ける。
第九瀑の音が近い。
「右へ寄りすぎるな」
上からマーカスの声がした。
「そこの岩は薄い。左足を上げろ」
ルカは言われた場所へ足を移した。
岩棚へ上がると、指先がじんじんしていた。
「……これで一段目か」
マーカスは次の壁を見上げていた。
「まだ先は長いぞ」
◇
フィンたちが合流すると、セイランが機材を確認した。
「次の壁はどうだ?」
「途中から岩が張り出してる。背負った荷物が引っ掛かる」
マーカスが答える。
「人を先に上げて、機材は別に引き上げたい」
「分かった。ミン、撮影機材をまとめてくれ。フィンのケースも一緒に上げる」
「はい」
フィンは機材ケースを下ろした。
「僕が背負っても――」
「次は両手を使う」
マーカスが遮った。
「持てる重さでも、登れる形とは限らん」
ルカは、自分の背中のロッドを見た。
「……俺のも?」
「それもだ」
ルカはロッドを下ろし、機材の横へ置いた。
セイランが固定を確認する。
「道具はマーカスの合図があるまで動かさない。人が上がりきってからだ」
ここまで追ってきた魚は、長い鰭と尾を使い、第九瀑を上った。
自分たちは、登るために荷物を手放さなければならなかった。
◇
二つ目の壁は、途中から先が見えなかった。
雲が入り、マーカスの姿を隠している。
しばらくして、上から声がした。
「支点を取った! ルカ、来い!」
ルカは登り始めた。
途中までは順調だった。
だが、外へ張り出した岩の下で動けなくなった。
手を掛けられる場所はある。
そこへ体を引き上げようとすると、足が岩から離れそうになる。
「……届かない!」
「上ばかり見るな。左だ!」
マーカスの声が返った。
ルカは顔を横へ向けた。
小さな出っ張りがあった。
さっきは張り出した岩ばかり見ていて、気づかなかった。
左足を移す。
体の向きを変える。
上の亀裂へ手が届いた。
「取れた!」
「そこで足を決めろ。急ぐな」
ルカは靴を岩へ押し当て、それから体を引き上げた。
張り出しの上へ出た時、胸が大きく上下していた。
「今みたいに、止まって見直せ」
マーカスが言った。
「力任せに登ろうとするな」
ルカはうなずいた。
下からセイランの声がした。
「ルカ、上がりきったか?」
「大丈夫!」
「よし。次、フィン!」
◇
全員が二つ目の岩棚へ上がり、機材を引き上げ終えた頃には、風が強まっていた。
第九瀑の水煙が横へ流れ、岩壁を白く覆っていく。
マーカスは次の壁へ近づいたが、登り始めなかった。
「風が回ってきたな」
セイランが岩棚の奥を示す。
「全員、いったん待機。機材を固定して、ここから動くな」
ルカは岩棚へ腰を下ろした。
腕が重い。
いつもなら何ともないロッドまで、ずっしりと感じた。
隣に座ったフィンが水筒を渡してくる。
「飲んでください」
「ありがと」
ルカは一口飲み、第九瀑を見た。
雲の向こうへ消えたL-07。
あの魚は、白い水柱を上った。
自分たちは水を避け、岩を選びながら、まだその横を登っている。
「……簡単には行かせてくれないな」
「そうですね」
フィンは上を見た。
「天湖があるのは分かっていても、そこへ行く道は分かっていませんから」
ルカも顔を上げた。
天湖は、存在を知られていなかったわけではない。
九つの滝の上に水域があると考えられ、ロンユウの帰龍とも結びつけられてきた。
それでも、人が実際に到達して調べた記録はない。
ここまで来ても、まだ見えない。
「……見たいな」
ルカが言った。
「はい」
フィンが答える。
「僕もです」
◇
風が弱まると、マーカスが次の稜線を調べに行った。
ルカたちは岩棚で待った。
やがて戻ってきたマーカスは、首を横に振った。
「正面の割れ目は使えん。上の岩が浮いてる」
「別の経路は?」
セイランが聞く。
「右側を低く回れば、稜線の裏へ出られるかもしれん。ただ、途中に深い割れ目がある」
「渡れる見込みは?」
「今の位置からは分からん。そこまで行って確かめる」
セイランは隊員たちの様子を見た。
ルカとフィン。
リンとミン。
マーカス。
全員が揃っている。
「では、そこを次の確認地点にする。通れなければ、この岩棚まで戻る。引き返すための余力は残しておけ」
ルカは立ち上がった。
あと少しなのかもしれない。
だが、マーカスにもセイランにも、その言葉はなかった。
◇
稜線へ続く岩は、思っていたより荒れていた。
風にさらされた岩肌は乾いている。
ところどころに深い割れ目があり、崩れた破片が積もっていた。
マーカスが先行する。
一度、割れ目を越えかけて引き返した。
「こっちはやめる」
「渡れないの?」
ルカが聞く。
「向こうへは渡れる。だが、その先に支点を取れない」
マーカスは少し低い場所まで下がり、岩塊の裏へ回った。
ルカたちは、ロープを掛け直して後に続く。
登るために、高度を下げる。
その一歩が、疲れた足にはこたえた。
マーカスが岩の裏から顔を出した。
「こっちに亀裂がある。上へ続いてるぞ!」
ルカは顔を上げた。
今まで見えなかった、岩峰の裏側。
そこに、細い道があった。
◇
最後の稜線へ出た時、ルカはその場でしゃがみ込んだ。
左右に、雲が広がっている。
片側からは第九瀑の音。
反対側には、風の音しかなかった。
マーカスが先を調べに行く。
セイランは全員を風の当たりにくい場所へ集めた。
「体調を確認する。手足が動かしにくい者はいないか。機材に異常は?」
「ありません」
フィンが答える。
ミンもカメラの固定を確認した。
リンは息を整えながら、稜線の向こうを見ていた。
マーカスが戻ってくる。
「先は歩ける。大きな割れ目もない」
「滝の上へ出られるのか?」
「岩の縁までは行ける。その向こうは、まだ見えん」
セイランはうなずいた。
「全員、もう一度装備を確認。ここからは一緒に進む」
◇
岩盤の先へ向かうにつれ、第九瀑の音が背後へ移った。
ルカは振り返った。
落ち口は、まだ雲の中だった。
L-07が消えた場所。
その向こうを、今度は自分たちが見ようとしている。
「ルカさん」
フィンの声で前を向く。
マーカスが立ち止まっていた。
足元の岩が、緩やかな縁をつくっている。
その先は白い。
「……ここか?」
ルカが聞いた。
「まだ分からん」
マーカスは答えた。
「足元を見て、ゆっくり来い」
ルカはフィンと顔を見合わせた。
二人で縁へ向かう。
◇
最初に見えたのは、水面ではなかった。
雲の下に、黒い岩が並んでいた。
その奥から、風が吹いてくる。
ルカがもう一歩進むと、岩の間に淡い光が見えた。
空が映っている。
「……水?」
雲が動いた。
岩の向こうに、青い水面が現れる。
すぐに、別の雲がそれを隠した。
ルカは動けなかった。
見間違いかと思った。
だが、風が吹く。
白い幕が、ゆっくり左右へ分かれていく。
水面が広がった。
右へ。
左へ。
岩峰の影を映しながら、見えている範囲の外まで続いていた。
「……あ」
ルカの口から、声が漏れた。
湖だった。
◇
ルカは岩の縁に立ったまま見つめた。
第九瀑へ向かって、水が流れている。
その上流に、広い湖面があった。
風が渡ると、細かな波が一斉に走った。
岩峰の影が水面に落ち、その先は雲に隠れている。
湖の向こう岸は見えない。
どこまで広いのかも、どれほど深いのかも分からない。
それでも、確かに水があった。
「……天湖」
ルカが言った。
フィンが隣へ来た。
何か言いかけ、そのまま黙った。
ルカも、もう言葉が続かなかった。
第一瀑の下でロンユウを釣った日。
標識した八匹を追い始めた日。
L-07が鱗を脱ぎ、青銀色の姿を現した時。
そして、登龍門を越えた瞬間。
ここまでに見てきた光景が、次々に浮かんだ。
その魚が向かった先に、今、自分も立っている。
ルカはようやく息を吐いた。
「……来たんだな」
フィンがうなずいた。
「はい」
少し間を置いて、もう一度。
「……来ましたね」
◇
「全員、縁から少し下がれ」
セイランの声がした。
ルカは振り返った。
リンとミンも、岩盤へ上がってきていた。
マーカスが最後の機材を引き上げ、ロープをまとめる。
セイランは六人が揃っていることを確かめてから、湖へ向き直った。
「……天湖か」
その一言のあと、誰もすぐには話さなかった。
リンが岩の縁へ近づく。
湖を見渡し、口を開きかけたが、言葉にならなかった。
ミンはカメラを構えた。
右を向けば、雲の奥へ続く岸。
左には、岩峰の影に沈む水面。
正面には、まだ先の見えない湖。
一枚には収まらなかった。
シャッターの音がした。
マーカスは全員の荷物を安全な場所へ寄せ、ようやく湖を見た。
「……着いたな」
ルカはマーカスへ振り返った。
「あんたがいなかったら、絶対ここまで来られなかった」
「まだ水際までは行ってないぞ」
「それでもさ」
ルカは湖へ目を戻した。
「ここまで連れてきてくれた」
マーカスは少しだけ笑った。
セイランが言った。
「マーカスだけじゃない。全員、よくここまで来た」
ルカは周りを見た。
機材を抱えて登ったフィン。
記録を守り続けたミン。
ロンユウを追ってきたリン。
経路を切り開いたマーカス。
全員を率いたセイラン。
そして、自分。
六人で、この湖まで来た。
◇
リンは記録端末を開いた。
到達地点。
時刻。
天候。
ここから確認できる水域の範囲。
書き込みながら、何度も湖面へ顔を上げる。
「……見えているのは、まだ一部ですね」
ミンが言った。
「ええ。岸線も、水深も、流入する水路も、ここからでは分かりません」
セイランがうなずいた。
「今日は到達地点と周辺の安全を確認する。湖の本格的な調査は、拠点を確保してからだ」
ルカは湖を見た。
聞きたいことは、いくらでもあった。
どんな魚がいるのか。
どれほど深いのか。
ロンユウは、なぜここへ向かうのか。
だが、今はまだ聞かなかった。
目の前の湖を、もう少し見ていたかった。
◇
フィンが受信機を取り出した。
「L-07の反応、拾えます」
ルカが顔を向ける。
「ここから?」
「はい。第九瀑の下にいた時より、信号が取りやすくなっています」
「どこにいる?」
フィンは受信機の向きを変えた。
湖側から反応が続いている。
「……まだ正確な位置は分かりません」
「そっか」
ルカは湖面を見渡した。
青銀色の魚体は見えない。
けれど、ここに来るまで途切れなかった信号が、今も続いている。
「探すのは、これからですね」
フィンが言った。
「うん」
ルカは笑った。
「今度は、俺たちもここにいる」
雲が動き、湖面のさらに奥が現れた。
見知らぬ岸が、また少しだけ広がる。
九つの滝を越えてきた。
誰も到達していなかった天湖に、ついに立った。
けれど、この湖で何が起きているのかは、まだ何も知らない。
ルカはロッドを握り直した。
「……すごいところまで来たな」
フィンが隣でうなずいた。
「はい」
風が湖を渡った。
ルカは、まだ見えない向こう岸を探した。




