第43話 登竜門
雲の奥で、水が吠えていた。
第八瀑から続く岩棚を進むにつれ、その音は大きくなった。
足元の岩にまで、低い振動が伝わってくる。
「近いぞ」
マーカスが言った。
ルカは顔を上げた。
白い霧が横へ流れる。
岩峰を縦に断つ巨大な裂け目が現れた。
黒い岩壁に挟まれた空間を、一本の水柱が落ちている。
水は途中の岩に触れず、真下へ落ち続けていた。
その先で、滝壺が爆ぜる。
吹き上がった水煙が、落水の周りを覆っていた。
「……これが最後か」
ルカがつぶやいた。
「第九瀑〈登龍門〉です」
リンの声も、水音にかき消されそうだった。
ルカは双眼鏡を構えた。
落ち口は雲に隠れている。
滝壺は白泡に埋まり、岩壁の際にある水面さえ、時折しか見えなかった。
八つの滝を越えてきた。
そのどれとも、違っていた。
◇
「L-07、受信しています」
フィンが画面を示した。
「第九瀑の下です。昨日から反応は続いています」
「見える?」
「水煙が薄くなれば……」
ルカは滝壺を探した。
白泡の外側を、黒い影が横切る。
次の瞬間、青銀色の背が浮いた。
「いた!」
L-07だった。
第一瀑の下で標識した、百七十五センチの雌。
あの時は、厚みのある黒褐色の魚だった。
今は青銀色の鱗が背から体側を覆い、体の輪郭は細長く変わっている。
胸鰭が大きく開いた。
長く伸びた尾が、ゆっくり水を押す。
口元には、流れに揺れるひげがあった。
「あいつ……ここまで来たんだな」
ルカが双眼鏡を握り直した。
L-07は滝壺の外側を一周すると、第九瀑へ向きを変えた。
「行くぞ!」
魚は白泡の中へ入った。
落水の正面だ。
尾が振られ、青銀色の体が持ち上がる。
だが、水柱から押し寄せる流れに頭を叩かれた。
魚体が傾く。
長い尾が水を打った。
姿勢を戻しかけたところへ、さらに白い水がぶつかった。
「あっ!」
L-07は滝壺へ押し戻された。
水煙の中へ姿が消える。
ルカは双眼鏡を動かした。
「フィン!」
「反応はあります! 下側です!」
しばらくして、白泡の外側に青銀色が現れた。
L-07は生きていた。
だが、再び落水へ向かうことはなかった。
◇
「観測場所を変えるぞ」
マーカスが言った。
対岸の岩壁に、張り出した厚い岩盤が見えた。
そこなら滝壺と落水を、横から捉えられる。
「向こうへ行けるの?」
「下の棚は使わん。濡れた岩が途中で切れてる」
マーカスは上部の亀裂を指した。
「あそこを登って、岩盤の裏から回る」
ルカは水柱を見上げた。
「今から?」
「もうすぐ雲が戻る。今日はルートを確かめるだけだ」
ルカは滝壺へ目を戻した。
L-07の信号は、まだそこにある。
「……明日、絶対に見逃したくない」
「なら、見られる場所を取るぞ」
マーカスは岩壁へ手を掛けた。
◇
夜明け前、ミンがルカを呼んだ。
「ちょっと来て。L-07の頭が撮れた」
画面には、水面近くへ浮いた青銀色の魚体が映っていた。
伸びたひげ。
厚い口元。
そして、頭部の左右に小さな突起があった。
「……何だ、これ」
ルカは画面へ顔を近づけた。
L-07が向きを変える。
二つの突起も、頭と一緒に動いた。
リンが標識時の写真を開く。
さらに、第七瀑でひげを確認した映像を並べた。
以前の記録には、同じ輪郭がない。
「角状突起が形成されています」
リンが言った。
ルカは最初の写真に目を戻した。
あの日、自分たちが釣り上げた魚。
そこから、一つずつ変わっていった。
鱗が替わった。
鰭と尾が伸びた。
体が細長くなり、ひげが長くなった。
そして今、頭部にも新しい変化が現れている。
「フィン」
「はい」
「最初の写真、もう一回見せて」
フィンが画面を切り替えた。
ルカは二枚を見比べた。
「……すげえな」
それしか言えなかった。
◇
マーカスが確保した岩盤へ登ると、第九瀑の姿が初めて横から見えた。
正面からは一本の白い柱だった落水が、滝壺へ突き刺さっている。
その直下で、奇妙な動きが起きていた。
「……何だ、あれ」
ルカが双眼鏡を止めた。
落水が滝壺を打つ。
白泡が膨れ上がる。
砕けた水の一部が、水柱の縁を逆向きに吹き上がっていた。
ある高さで落水に呑まれ、消える。
だが、次の瞬間には、また下から水が噴き上がる。
「フィン、見て!」
ルカが指した。
「あそこ、水が上ってる!」
フィンも双眼鏡を向けた。
「……本当だ」
ミンがカメラを寄せる。
白泡は同じ高さまで上るわけではなかった。
低い位置で崩れる時もある。
その次には、より高く吹き上がる。
「滝が……滝を上らせてる?」
ルカがつぶやいた。
リンが映像を確認する。
「落水が深みに衝突して、強い上昇流が生じています」
ただし、上流へ向かう一本の道ではない。
落下する水と、噴き上がる水。
二つがぶつかり、絶えず形を変えていた。
ルカは滝壺を見た。
青銀色のL-07が、その下を泳いでいた。
◇
L-07が動いた。
白泡の外側を回り、水柱へ近づいていく。
昨日と同じ、正面だった。
「来た!」
ルカが双眼鏡を構える。
L-07は滝壺の縁で向きを変えた。
胸鰭を開き、長い体を流れに沿わせる。
落水が滝壺へ突き刺さった。
水が膨れ上がる。
青銀色の魚体が、その中へ入った。
「上がった!」
L-07が持ち上がる。
激しく尾を振っているわけではない。
下から吹き上がる水を受け、胸鰭で姿勢を保っていた。
長い体が、水の勢いに沿って伸びる。
昨日届かなかった高さを越えた。
「まだ上がる……!」
ルカは双眼鏡を握り直した。
だが、上昇流の先で水が乱れた。
魚体が横へずれる。
落水の端へ巻き込まれた。
「あっ!」
青銀色が、白い水柱の中を落ちた。
フィンが受信機を確かめる。
「L-07、下で拾っています!」
ルカは滝壺を探した。
やがて白泡の外側に青銀色が現れ、岩壁沿いへ戻っていった。
ルカは大きく息を吐いた。
それでも、さっきの光景が頭から離れなかった。
あいつは確かに、上へ運ばれていた。
◇
「もう一回、見せて」
ミンが映像を戻す。
水が吹き上がり、L-07が持ち上がる。
胸鰭が開く。
尾は、水の向きが乱れた時だけ大きく振られていた。
「……前と違う」
ルカが言った。
「第七瀑でも第八瀑でも、あいつ、自分で上る場所を選んでた」
フィンは画面を見ている。
「ここでは、水に持ち上げられていますね」
「うん。でも、そこから先で落ちた」
リンが映像を止めた。
「上昇流が落水に巻き込まれる位置です」
画面では、魚体が下がる直前、ひときわ大きな白泡が下から上がってきていた。
L-07はその勢いを受ける前に、横へ流されている。
「……もう一つ、上がってきてたんだ」
ルカが言った。
フィンも画面を見た。
「さっきの水より、高く届いています」
ルカは第九瀑を見上げた。
滝壺から吹き上がる水は、一度きりではない。
水柱が落ち続ける限り、何度でも生まれる。
◇
しばらく、魚は動かなかった。
滝壺の外側を回り、時折水柱の下へ近づく。
その間にも、第九瀑は休まず落ち続けていた。
雲の切れ間が広がり、落水の上部が少しずつ見え始める。
ルカは双眼鏡を外さなかった。
「L-07、動きました!」
フィンの声がした。
青銀色が、白泡の縁に現れた。
L-07が正面へ向き直る。
「行け……!」
落水が滝壺を打った。
吹き上がる水の中へ、魚が入る。
長い体が持ち上がった。
胸鰭が開く。
青銀色の背が、白泡の中を上っていく。
下から噴き上がる水が、L-07を押し上げていた。
水柱の中ほどまで来る。
上昇流が乱れ始めた。
さっき落ちた場所だ。
「そこだ……!」
ルカは息を詰めた。
L-07の体が揺れる。
落水に押され、頭が下がった。
だが、今度は横へ流されなかった。
長い胸鰭が開き、魚体が水柱の中で向きを保つ。
次の瞬間――
滝壺から、新しい水が噴き上がった。
白泡がL-07の下へ追いつく。
「来た!」
ルカが叫ぶ。
L-07が尾を打った。
吹き上がる水へ、長い体を合わせる。
その勢いを受けた魚体が、一段高く持ち上がった。
さらに、尾を振る。
落水の中に、青銀色の背が伸びていく。
水柱の外へ逃げたわけではない。
L-07は、その正面を上っていた。
◇
雲が切れた。
第九瀑の落ち口が見えた。
黒い岩の縁から、大量の水があふれ落ちている。
その下へ、L-07が迫っていた。
「あと少し……!」
ルカが双眼鏡を握りしめた。
上から落ちる水が、魚体を打つ。
長い背がしなった。
胸鰭が開き、傾きかけた体を戻す。
下からは、また水が吹き上がってくる。
L-07はその流れに合わせて尾を振った。
頭が持ち上がる。
短い角状突起が、白泡の間に現れた。
ひげが後ろへ流れる。
落ち口まで、あとわずか。
だが、そこでは上流からあふれる水が、まとまって真下へ落ち始めていた。
L-07の頭が押される。
魚体が止まった。
「……っ!」
ルカは声を出せなかった。
L-07の尾が、水柱の中で大きく開いた。
第一瀑の下で見た、厚い黒褐色の尾とは違う。
長く伸び、広がった尾だった。
それが、吹き上がる水を捉える。
L-07が、最後の一振りを放った。
「行けええっ!」
青銀色の頭が、落ち口を越えた。
続いて、胸鰭。
長い背。
体の後半が、水の縁へ持ち上がる。
ルカは双眼鏡を動かさなかった。
尾の付け根が見えた。
最後に、長い尾鰭が白泡を叩く。
水が跳ね上がった。
尾の先まで、岩の縁を越えた。
L-07の姿が、落ち口の向こうへ消えた。
◇
「…………」
ルカは双眼鏡を下ろせなかった。
落ち口には、もう魚の姿がない。
ただ、白い水が変わらず落ち続けている。
その向こうに何があるのかは、ここからでは見えなかった。
「……越えた」
誰かが言った。
自分の声だと気づくまで、少しかかった。
「越えたぞ……!」
ルカが振り返る。
「フィン! 見たよな!」
「見ました!」
フィンが受信機から顔を上げた。
「尾まで、全部!」
「上ったんだ!」
「はい!」
ルカはもう一度、落ち口を見た。
青銀色の魚体は現れない。
ミンのカメラには、最後の一振りまで収まっていた。
リンは映像を確認し、静かに息を吐いた。
「L-07、第九瀑〈登龍門〉を突破」
フィンが記録へ打ち込む。
第一瀑の下で標識した一匹が、九つ目の滝を越えた。
ルカは、知らないうちに笑っていた。
腕が震えている。
双眼鏡を握り続けていたせいだけではなかった。
「……やったな」
水音に消えそうな声だった。
それでも、フィンには届いた。
「はい。やりましたね」
◇
しばらくして、マーカスがロープを肩に掛けた。
「そろそろ行くぞ」
ルカが顔を上げる。
マーカスは、第九瀑の横にそびえる岩壁を見上げていた。
魚は、上った。
だが、自分たちはまだ下にいる。
登龍門の向こうも、天湖も、誰も見ていない。
ルカは、もう一度落ち口を見た。
L-07が消えた場所だ。
「……そうだな」
ロッドを背負い直す。
フィンも機材ケースを持ち上げた。
「L-07がどこへ行ったのか、確かめないと」
「それだけじゃないだろ」
ルカは笑った。
「あの上、俺たちも見たいじゃん」
フィンが顔を上げる。
「……ですね」
マーカスは岩壁を見極めながら、最初の支点を取る場所を探していた。
ルカはその背中を追った。
九つの滝を越えた魚がいる。
その先には、まだ誰も到達していない水域がある。
今度は、自分たちがそこへ向かう。
「次は俺たちの番だ!」
雲の中で、第九瀑が轟いていた。




