第42話 雲の上へ
第六瀑の上へ回り込んだ時、ルカは足元を流れる雲に気づいた。
昨夜の野営地から見上げていた雲だった。
岩棚の向こうを白い塊がゆっくり通り過ぎ、その切れ間から第五瀑の上部がわずかに見えた。
「昨日、あそこにいたんだよな」
ルカが指さす。
フィンは受信機をしまいかけて、顔を上げた。
「もっと下から来たんですよ。第一瀑はもう見えませんね」
「魚はずっと水の中なのにな」
二人が追ってきたL-07は、第六瀑を越えたあとも上流へ動き続けていた。
現在の反応は第七瀑の下にある。
マーカスが岩峰の奥を指した。
「雲が戻る前に進むぞ。向こうへ入ると足元まで見えなくなる」
◇
第七瀑は、岩峰の内側を深く削った裂け目にあった。
上から白い水が落ちている。
だが、落ち口は見えない。
水煙が裂け目の中を満たし、魚のいるはずの滝壺も半分以上隠していた。
「この中にいるの?」
「L-07、第七瀑の下で反応しています」
フィンが受信機を向ける。
ルカは双眼鏡を構えたが、白泡しか見えなかった。
しばらく待つ。
水煙が横へ流れ、岩壁の一部が現れた。
その下に、青銀色の背が浮いた。
「いた!」
雌は落水の正面にはいなかった。
岩壁沿いの深みに留まり、水煙が薄くなるたび、背を水面近くへ浮かせている。
再び雲が入り、魚体が消える。
「今の撮れた?」
ルカがミンを見る。
「背中だけ。頭は岩の陰だった」
フィンが受信位置を確かめる。
「大きくは動いていません。もう少し待てそうです」
ルカは双眼鏡を下ろさなかった。
◇
次に雌が現れた時、ルカは最初から頭を追った。
青銀色の背が浮く。
長くなった胸鰭が開き、魚体がゆっくり横を向いた。
「……ん?」
口元で、何かが揺れていた。
細い糸のようなものが、流れに沿って後ろへ伸びている。
「フィン、頭を見て!」
「頭ですか?」
「口の横!」
ミンもカメラを寄せた。
雌がこちらを向いた。
その瞬間、ルカは二本の細いひげを見た。
雲が戻り、魚を隠す。
「見えた?」
ルカが振り返る。
フィンは画面を覗き込んでいた。
「映っています。少し待ってください」
ミンが撮影した映像を止める。
口元から伸びたひげは、水中で長くたなびいていた。
「鯉のひげって、最初からあるよな?」
ルカが聞く。
「あります。L-07を標識した時の頭部写真を出します」
フィンは記録を開いた。
第一瀑の下で釣った雌。
黒褐色の頭。
厚い口元に、短いひげがある。
今の映像と並べると、その違いは明らかだった。
「こんなに伸びてる……」
リンも確認した。
「新しく生えたものではなく、元からあったひげが伸長しています」
ルカは再び第七瀑へ目を向けた。
黒かった鱗が青銀色へ替わり、鰭と尾が伸び、体も細長くなった。
その頭まで、最初に釣った時とは違っていた。
水煙の向こうで、雌がまた浮いた。
長いひげが、白い水の中に揺れている。
◇
「動きました!」
フィンの声で、ルカは双眼鏡を上げ直した。
雌が第七瀑へ向かっている。
岩壁沿いの流れへ入り、白泡の端を上り始めた。
だが、すぐに水煙へ隠れた。
「見えない!」
ルカが岩棚の先へ移ろうとする。
「そこまでだ」
マーカスが止めた。
ルカの前では岩棚が細くなり、その先は裂け目へ落ち込んでいる。
「あと少し前なら見えるのに」
「下が見えない場所へ出るな。雲が抜けるのを待て」
ルカは足を止めた。
フィンが受信機を岩壁へ向ける。
「L-07はまだ下側です。上流側には入っていません」
姿が見えないまま、水音だけが続いた。
ルカは水煙の薄くなる場所を探した。
落水の右側。
そこだけ、時折黒い岩肌が現れる。
「フィン、あの壁のところ見てて」
「分かりました」
しばらくして、白い幕が横へ流れた。
青銀色の魚体が現れた。
先ほどより高い。
「あそこ!」
雌は岩壁へ体を寄せ、細い水を上っていた。
長い尾が振られる。
ひげが水流に揺れた。
魚体が落水の上部へ消える。
次に雲が切れた時、ルカは滝の下ではなく、落ち口の先を見た。
青銀色の背があった。
「上にいる!」
フィンが画面を確認する。
「L-07、第七瀑の上流側です。反応も続いています!」
雌は短い浅瀬を横切り、岩峰の奥へ泳いでいった。
ルカは見えなくなるまで、その姿を追った。
◇
第七瀑の上へ向かう途中、風向きが変わった。
雲が岩峰の外側から吹き込み、マーカスの姿が白くかすむ。
「止まれ!」
全員が岩壁へ身を寄せた。
風が抜けると、目の前の岩棚が再び見えた。先ほどまで進もうとしていた場所には、横から水が吹きつけている。
マーカスは風が弱まるのを確かめ、ロープの支点を追加した。
「ここからは間隔を空ける。前の者が向こうへ着いてから次が動け」
ルカが頷く。
後ろのフィンは、機材ケースの留め具を締め直していた。
「大丈夫?」
「はい。機材も固定しました」
「そっちじゃなくて」
フィンが顔を上げた。
「僕も大丈夫です」
「ならいい」
マーカスの合図で、ルカは岩棚へ足を踏み出した。
魚を追い始めてから、何度も岩壁を登ってきた。
だが、ここでは足場が見えていることさえ当たり前ではなかった。
◇
第七瀑の上に出る頃には、陽が傾いていた。
フィンが雌の位置を確認する。
「L-07、第八瀑の下で止まっています」
「また先に行ったのか」
「僕たちが登っている間に」
ルカは奥を見た。
雲の切れ間から、高い岩壁と、そこを伝う白い水が見えた。
第八瀑。
ただし、その姿はこれまでの滝と違っていた。
水は途中の岩盤に何度もぶつかり、階段状の斜面を流れている。流れが集まる場所と、薄く広がる場所が交互に続いていた。
離れていても、水量が変わっているのが分かった。
白い水が斜面いっぱいに広がったかと思うと、しばらくして細くなる。
「何だ、あれ?」
ルカが見つめる。
リンも上流を確認した。
「上部の水路から流れ込む水量が変わっているようですね。明るいうちに記録を取っておきましょう」
ルカはもう一度、滝を見た。
雌はあの下にいる。
だが、今から近づいても、詳しく観察できる時間は少ない。
マーカスが岩棚の奥を指した。
「今日はここで止まる。第八瀑には明日入るぞ」
◇
第八瀑の下へ着いた時、岩峰の上部には強い風が吹いていた。
ルカは岩陰に身を寄せ、双眼鏡を構えた。
雌は滝の下にある狭い深みを回っている。
青銀色の魚体が浮き、また沈んだ。
その間にも、落水の形が変わった。
岩の斜面を覆っていた白い水が、少しずつ細くなっていく。
「また減った」
ルカが言った。
フィンは観測記録を見ていた。
「昨夜から何度も変わっています。上部の水量が増えたあと、少し遅れてここも増えていますね」
「じゃあ、上で何か流れ込んでる?」
「可能性はあります。ただ、ここからは見えません」
二人が話している間に、雌が動いた。
落水の端へ近づく。
斜面の水が細くなったところだった。
「今、行くのか?」
雌は体を伸ばし、最初の段差を上った。
尾鰭が大きく開く。
一段、さらに一段。
だが、斜面の途中で上からの水量が増えた。
細かった流れが白く膨らみ、雌の背を覆う。
「あっ!」
魚体が横へ流された。
胸鰭を広げて向きを戻そうとするが、次の落水が頭を押す。
雌は斜面を滑り落ち、下の深みへ戻った。
ルカは思わず息を吐いた。
「今の、もう少しだったのに」
フィンが時刻を記録する。
「上っている途中で水が増えましたね」
「減ってる時を選んだのかな」
「一回だけでは分かりません。でも、次も見てみましょう」
◇
雌は、すぐには再挑戦しなかった。
深みの奥で向きを変え、落水から距離を取る。
白い水が斜面全体へ広がる。
しばらくして、また細くなる。
その時だった。
雌が動いた。
「フィン!」
「はい。見ています!」
雌は先ほどと同じ斜面へ入った。
最初の段差を越え、次の段差へ進む。
尾が水を押す。
魚体が持ち上がった。
だが、今度は途中で止まった。
細い流れの中に体を収め、頭を上へ向けたまま動かない。
「何してるんだ?」
ルカは双眼鏡を覗いた。
魚はすぐ先の段差へ飛び込まなかった。
上からの水が増える。
白泡が魚体を覆う。
「また来た!」
ルカが声を上げる。
雌は段差へ向かわず、岩盤の横にある深いくぼみへ体を寄せた。
増えた水が、その脇を通り過ぎていく。
尾を振りながら、その場に留まる。
やがて落水が細くなった。
雌が動く。
くぼみを出て、一段上へ進んだ。
「待ってた……?」
ルカがつぶやく。
フィンが映像を確認する。
「少なくとも、流れが強い間はあそこに留まっていました」
雌は次の段差へ進む。
斜面の途中には、同じようなくぼみがいくつかあった。
一度上る。
水量が増すと、岩の陰へ入る。
細くなれば、また上る。
ルカは夢中で追った。
勢いだけで、一気に滝を越えようとしているわけではなかった。
◇
最後の段差の手前で、雌は動きを止めた。
その上からは、まだ強い水が落ちている。
岩陰に収まった青銀色の魚体が、わずかに揺れた。
ルカは双眼鏡を握り直す。
「もうちょい……」
雌は動かない。
水が細くなる。
頭が上がった。
伸びたひげが流れに揺れる。
長い尾が、大きく開いた。
雌が岩陰から飛び出した。
最後の落水へ入る。
一度、体が下がった。
だが、すぐに尾が振られた。
青銀色の背が白泡の上へ出る。
雌はそのまま落ち口を越え、浅い流れへ抜けた。
「行った!」
ルカが叫ぶ。
フィンの画面にも上流側の反応が入る。
「L-07、第八瀑を突破です!」
雌はすぐには岩陰へ消えなかった。
浅瀬をゆっくり進み、一度だけ体を傾けた。
黒褐色の鱗がわずかに残る背。
青銀色の体側。
長い鰭と尾。
口元から伸びたひげ。
その姿を、ルカは双眼鏡越しに見送った。
◇
第八瀑の上には、厚い雲がかかっていた。
その奥から、低い水音が響いている。
ルカは受信機の画面を覗いた。
「まだ動いてる?」
「はい。上流へ向かっています」
「あと一つだな」
フィンが顔を上げた。
「第九瀑です」
第一瀑の下で標識した八匹。
捕食されたL-02。第五瀑で足止めされていたL-03。
ほかの個体がどこまで進んだか、ここから見ているルカには分からない。
ただ、左岸を選び続けたL-07の記録は、第一瀑の下から今まで途切れずにつながっていた。
ルカは雲の奥を見た。
「登龍門か」
「ええ」
リンが答えた。
「第九瀑〈登龍門〉です」
まだ、その姿は見えない。
雲の向こうから、これまでとは違う重い水音だけが届いていた。
ルカはロッドを背負い直した。
「あいつが上るところ、見たいな」
フィンは受信機を確かめ、同じ方へ目を向けた。
「ここまで追ってきたんですからね」
二人はマーカスの後を追い、雲の中へ続く岩棚を歩き始めた。




