第41話 龍化
第四瀑の横で、マーカスがロープを引いた。
昨日、ルカたちが進めなかった岩棚は、今も滝の水煙に濡れている。途中から先が崩れ、残った部分も薄く剥がれかけていた。
「ここを渡るの?」
ルカが聞く。
「渡らん」
マーカスは岩棚の端を靴で軽く押した。
小さな破片が外れ、滝の下へ消えていく。
「残ってるように見えるだけだ。荷重を掛ける場所じゃない」
マーカスは水際から離れ、岩壁を見上げた。
少し高い場所に、縦へ走る亀裂がある。その上には、滝を横切るように張り出した厚い岩盤が見えた。
「あそこまで上がる」
「ずいぶん遠回りじゃない?」
「向こう側に降りられる。足元の棚をつなぐより確実だ」
マーカスは亀裂に手を掛け、岩の状態を確かめながら登っていった。
一度、途中で止まる。
右側へ体を伸ばしかけ、すぐに戻した。
「そっちは使わない。岩が浮いてる」
別の亀裂へ手を移し、支点を取る。
ロープが下りてきた。
「ルカ、上がれ」
ルカはマーカスが通った場所へ足を掛けた。
真下では、第四瀑の白い水が落ち続けている。
自分には濡れた岩の違いがほとんど分からない。だが、マーカスはどこに体重を預け、どこを避けるかを、登りながら選んでいた。
厚い岩盤の上へ出ると、第四瀑の落ち口が足元に見えた。
「抜けた……!」
ルカが息を整える間に、マーカスは後続のロープを張り直していた。
「ここなら機材も上げられる。次、来い」
◇
第五瀑の下では、二匹のロンユウの信号が入っていた。
「L-03です。第一瀑を最初に越えた雄ですね」
フィンが記録を開く。
百八十三センチの雄。第一瀑で先行した、あの個体だった。
先行していたはずの魚は、昨日から第五瀑の下に留まっていた。
「もう一匹は?」
「L-07です。左岸を進んできた雌で、今朝、第四瀑の上流からここへ移動しました」
「追いついたんだ」
ルカが画面を覗く。
「最初は雄の方がずっと先だったのにな」
「そうですね。僕も、もっと差が開くと思っていました」
フィンが二匹の移動記録を重ねた。
何度も上流側へ反応を伸ばしているL-03と、途中から着実に進んできたL-07。二つの線が、第五瀑の下で重なっていた。
ルカは水面へ顔を戻した。
第五瀑は、途中の岩にぶつかって二段に折れている。上段から落ちた水が中ほどの岩棚を叩き、向きを変えて下段へ流れ込んでいた。
落水の正面には、深い淵がある。
そこへ黒い背が浮いた。
「L-03だ!」
太い魚体が白泡へ入り、下段の流れを上り始める。
尾が振られ、黒い背が一段高くなった。
だが、中ほどの岩棚へ近づいた途端、上段からの水が頭を押した。
魚体が横へずれる。
雄は姿勢を戻そうとしたが、下段の落水へ押し出された。
大きな水音が響く。
しばらくして、雄の背が淵の外側に現れた。
「惜しい……!」
ルカが岩棚を握った。
雄は深場へ戻り、また滝へ頭を向けた。
フィンが画面を見せる。
「記録上は、昨日から何度か同じ高さまで進んでいます」
「毎回、あそこで?」
「上流側の反応は続いていません。少なくとも突破は確認できていません」
ルカは二段目の落水を見た。
「第一瀑でも、何回も戻されてたよな」
「ええ。あの時も、翌朝になって越えました」
「今回も越えられるといいな」
フィンは受信機から顔を上げた。
「僕もそう思います」
二人はしばらく、雄のいる淵を見ていた。
◇
左岸の雌が現れたのは、雄が淵へ戻ってからだった。
「あっちだ!」
ルカが指した先で、黒褐色と青銀色の背が水面を割った。
第二瀑の下で再捕獲した雌だった。
青銀色の鱗は、昨日よりまとまって見える。
雌は雄のいた正面の淵へ入らず、岩壁に沿って進んだ。
途中で体を傾ける。
その時、尾鰭が大きく開いた。
「……あれ?」
ルカは双眼鏡を握り直した。
尾鰭の先が、以前より長い。
魚が向きを変えると、胸鰭も水中で広がった。黒褐色の体側から伸びた鰭の縁に、淡い青銀色が見える。
「ミン、今の撮れた?」
「撮ってる!」
ミンはカメラを向けたまま答えた。
雌がもう一度、岩際で体を返す。
胸鰭を広げた魚体が横へ滑り、流れの弱いくぼみに収まった。
「フィン、尾を見て。前からあんなに長かった?」
フィンは画面を開き、第二瀑の下で撮影した映像を探した。
「同じ向きの映像があります」
二人で画面を覗く。
以前の雌が尾を振る瞬間。
今、岩際で向きを変えた瞬間。
「やっぱり違う!」
「はい。尾鰭の外縁が伸びています」
ルカは水面の雌を見た。
「鱗だけじゃないんだ」
リンも二つの映像を確認した。
「尾鰭と胸鰭に形態の変化が見られます」
その間にも、雌は第五瀑へ向かっていた。
◇
雌は落水の正面へ入らなかった。
下段の横を上り、中ほどの岩棚へ近づく。
そこは、雄が何度も押し戻された高さだった。
「上から来るぞ……!」
ルカが声を漏らす。
上段から落ちた水が、岩に当たって左右へ弾けた。
雌はその片側へ入る。
一度、頭が下がった。
だが胸鰭を広げて体を傾けると、魚体は岩の際へ移った。
落水が横を抜けていく。
雌は尾を振り、そこから一段上へ進んだ。
「行った!」
青銀色の背が、上段の白泡へ隠れる。
ルカは息を詰めた。
次に見えた時、魚は第五瀑の落ち口にいた。
尾が大きく開く。
黒い魚体が上流へ抜けた。
「越えた!」
フィンの受信機にも、上側の反応が入った。
ルカは第五瀑の下へ目を戻した。
先に来ていた雄は、まだ淵にいる。
雌が上った道を、雄が使えないと決まったわけではない。
それでも、今この瞬間、二匹のいる場所は入れ替わっていた。
◇
人間側は、その日のうちに第五瀑を越えられなかった。
予定していた岩棚が増水で濡れ、下側の足場まで水をかぶっていたからだ。
マーカスは滝の脇へ近づき、流れを確かめてから引き返した。
「今日はここまでだ」
「向こうに雌がいるのに」
「今ここへ入ったら、次の足場まで戻れなくなる」
マーカスは地図を広げた。
「明日は水際を使わず、外側の尾根から上へ出る。上で川へ戻ればいい」
ルカは第五瀑を見上げた。
雄はまだ下にいる。
雌は上へ進んでいる。
自分たちは、同じ高さへ上がるだけでも一日がかりだった。
◇
翌日、尾根を回って第五瀑の上へ出た時、雲の切れ間から陽が差していた。
マーカスが確保した岩棚の先に、静かな淵がある。
フィンが受信機を向けた。
「L-07、ここです」
ルカは岩棚の端へ近づいた。
淵の底を、大きな影が横切る。
「あれだ!」
雌がゆっくり浮いた。
青銀色の鱗が背を覆い始めている。まだ黒褐色の部分も残るが、昨日より明るい魚体に見えた。
そして、鰭だけではなかった。
「……長くなってる?」
ルカは双眼鏡を下ろし、もう一度覗いた。
雌が横を向く。
頭から背、尾の付け根までが、以前より細長い。
最初に釣った時の、厚みのある黒い魚体とは輪郭が違っていた。
ミンが識別映像を開く。
第一瀑の下で計測したL-07。
第二瀑の下で再捕獲した同じ個体。
そして、今の雌。
ルカは三つの姿を見比べた。
「同じ魚だよな……」
「はい。発信器の反応もつながっています」
フィンが答える。
リンは映像を止めた。
「水中での撮影なので正確な全長は測れません。ただ、体の輪郭が変化していることは確認できます」
ルカは淵へ目を戻した。
あの雌は、鱗だけを取り替えていたわけではない。
鰭も、尾も、体の形も。
上へ進む間に、少しずつ変わっていた。
◇
第六瀑は、淵のすぐ奥にあった。
白い水が一気に落ちる滝ではない。岩の斜面を流れながら向きを変え、途中で深い溝へ吸い込まれている。
斜面の中央には水が集まり、両側には細い流れが走っていた。
雌はまず左側へ近づいた。
岩に沿って進もうとしたが、水が横から当たると向きを変えた。
少し下がり、斜面の中央を見上げるように留まる。
「どこ使うんだ?」
ルカがつぶやいた。
魚は再び進み始めた。
中央からわずかに外れた場所へ入り、岩の傾斜に沿って体を伸ばす。
尾が大きく開いた。
一振りすると、魚体が持ち上がる。
もう一振り。
青銀色の背が斜面を上っていく。
「行ける……!」
だが、途中には深い溝があった。
流れはそこで急に落ち込み、上ってきた水の筋も一度途切れている。
雌が溝の手前へ差しかかった。
尾を振る。
頭は上へ向いたが、体の後ろが横へ流された。
「危ない!」
ルカが声を上げる。
魚体が斜めになる。
そのままでは溝へ落ちる。
雌は一度、上るのをやめた。
胸鰭を広げ、斜面に対して体を横へ向ける。
「えっ?」
ルカは双眼鏡を覗き直した。
魚が上流を向いていない。
溝の手前で、横へ動いている。
岩の向こうから流れ込む水が、雌の体側に当たった。
広がった鰭が水を受け、魚体が横へ運ばれる。
雌はそれに合わせて尾を振った。
溝の中央から外れた。
「あっちにつながってる!」
ルカが指さす。
溝の反対側には、細い水が斜面へ戻っていた。
雌はその流れへ入り、再び頭を上へ向けた。
尾が大きく振られる。
長い魚体が岩の傾斜に沿って伸び、白泡の中へ消えた。
ルカは息を止めた。
次に青銀色の背が現れたのは、溝の上だった。
「越えた……!」
雌はそのまま第六瀑の落ち口へ向かう。
最後の流れへ入ると、尾を二度振った。
黒と青銀の魚体が、上流へ抜けた。
フィンの受信機が鳴る。
「第六瀑、上流側で継続しています!」
ルカはゆっくり息を吐いた。
◇
「さっき、上を向くのやめたよな」
ルカは第六瀑の途中を指さした。
「溝の手前で横へ動いて、別の水に入った」
フィンが映像を再生する。
「僕、最初は押し流されたと思いました」
「俺も。でも、途中で尾を振ってた」
雌は斜面を上りかけて姿勢を崩し、胸鰭を広げていた。
横から入る水を受け、溝の脇へ移っている。
「鰭が変わったから、あれができたのかな」
ルカが聞く。
リンは映像を確認した。
「そうかもしれません。ただ、以前の体で同じ流れを通れなかったとまでは言えません」
「そっか」
「でも、変化した鰭を広げて水を受けたことと、進路を変えたことは記録できます」
フィンが二匹の受信位置を記録した。
第五瀑の下には、先行していたL-03。
第六瀑の上には、左岸を進んできたL-07。
同じ滝を目指した魚たちが、今は違う場所にいた。
「まだ上があるんだよな」
ルカは雲の奥を見上げた。
そこから先にも、水音が続いている。
青銀色の魚体は、もう見えなかった。
ルカはロッドを背負い直した。
「次は、どんな姿で出てくるんだろうな」
フィンも、雌が消えた上流へ目を向けた。
「また見つけましょう」
ルカはうなずいた。




