第39話 新しい鱗
第二瀑の落水音は、夜の間も途切れなかった。
ルカたちは前日に到達した岩棚で野営し、明るくなるのを待って淵の観察を再開していた。
白泡が淵の縁を回り、岩壁に沿ってゆっくり流れていく。その下を、ときおり大きな魚体が横切った。
「まだ左にいる?」
「います。淵からは出ていません」
フィンが受信機を確かめる。
第一瀑の下から左岸を選び続けてきた雌だった。昨日、その魚が最初の滝を越えるところを、ルカたちは映像で確認している。
今は第二瀑の本流から外れた、岩壁沿いの淵に留まっていた。
黒い背が浮いた。
「あれだ」
ルカが身を乗り出す。
雌はゆっくり体を傾け、また沈もうとした。
その背に、青い光が走った。
「……今、青くなかった?」
ミンがカメラを向けた時には、魚はもう岩陰へ消えていた。
「水の反射じゃない?」
「何枚か、色が違った気がする」
ルカは淵から目を離さなかった。
次に雌が現れた時、ミンが連写する。
黒褐色の背。その一部に、青銀色の光が混じっていた。
水面が揺れても、同じ位置に残っている。
「これ、鱗だ」
フィンが下流で撮影した識別写真を開いた。
同じ雌の背には、黒褐色の鱗が隙間なく並んでいた。少なくとも、今見えている青銀色の部分はない。
リンも映像を確認した。
「近くで確かめたいですね」
ルカはすぐに答えた。
「釣ろう」
「一度だけ、短時間で捕獲します」
リンが淵を見下ろす。
「ただし、あの本流には出さないこと。魚にも人にも危険です」
◇
魚のいる淵は、すぐ下に見えていた。
だが、そこまで下りられるわけではなかった。
岩棚の縁は濡れた壁になって落ち込み、その下を第二瀑からの水が走っている。
マーカスは真下を覗いただけで首を振った。
「ここは使わない」
「近いのに?」
「近くても、戻れなきゃ意味がない」
マーカスは岩棚を上流側へ戻り、張り出した岩の裏へ回った。
ルカが追いかけると、そこには狭い亀裂があった。岩に手を入れ、足を掛けながら下れば、水辺へ近づける。
マーカスが先に下り、支点を確かめてロープを通した。
「ここから行ける。荷物は必要なものだけだ」
ルカはロッドを受け取った。
足元からは淵が見えない。さっきまで目の前にあった魚へ近づくために、わざわざ岩の裏を下りていく。
だが、マーカスの示した道を抜けると、淵の内側にある小さな足場へ出られた。
「ここなら届く」
ミンが水面を確かめる。
ルカもしゃがみ込んだ。
岩壁にぶつかった水は、淵の外側を速く回っている。その内側だけ、泡がゆっくり漂っていた。
第一瀑の上で見た反流と似ている。
「奥に入れるには、外から流した方がいいな」
ルカは落水の中央へ向けて投げなかった。
岩際の速い水にルアーを入れ、淵へ入る直前でラインを少し送る。
流れに拾われたルアーが向きを変え、岩陰へ横から入っていった。
黒い影が動く。
ルカは巻く手を止めた。
雌が追っている。
次の瞬間、魚体が反転した。
ラインが走る。
「来た!」
竿が大きく曲がった。
◇
ロンユウは淵の底へ突っ込み、そのまま大きく回った。
ドラグが鳴る。
「外へ出る!」
ミンが下流側を見た。
魚の頭が、淵から流れ出す速い水へ向いている。
ルカは無理に止めなかった。岩際へ一歩動き、竿を寝かせる。
ラインの角度が変わった。
魚は淵の外へ向かおうとしたが、横から圧を受けて再び内側へ戻る。
「そう、そのまま!」
黒い背が水面を割った。
青銀色が光る。
今度は、はっきり見えた。
背から体側にかけて、何枚もの鱗が違う色をしている。
ルカは魚を寄せながら、その位置を目に焼きつけた。
やがてミンが大型ネットを沈める。
「もう一周させて」
ルカは魚の向きを変えた。
黒い頭がネットの横を通り、尾が水を叩く。
もう一度、淵を回る。
「今!」
魚体が水中のネットへ収まった。
ミンが支え、ルカはすぐにフックを外す。
陸へは上げない。
ロンユウはそのまま、水中の保持スリングへ移された。
◇
「識別写真と照合します」
フィンが画面を並べた。
百七十五センチの雌。左岸側を進んできた個体。
「L-07で一致します」
ルカは魚の横へしゃがんだ。
近くで見ると、色の違いだけではなかった。
黒褐色の鱗が、何枚か浮いている。
縁が魚体から少し持ち上がり、その下に別の色が見えていた。
「これ……下にも鱗がある?」
ミンがライトの角度を変える。
黒い鱗の下から、青銀色の鱗がのぞいた。光が当たる方向によって、わずかに青緑にも見える。
「触らないでください」
リンがカメラを寄せる。
ルカは手を引いた。
魚体には、まだ黒褐色の部分が多い。だが背側から体側へ、同じ変化がいくつも現れている。
その時だった。
浮いていた黒い鱗が、水の動きに合わせて揺れた。
誰も触れていない。
鱗が外れ、スリングの中へゆっくり落ちた。
「あっ」
ミンが流される前に回収する。
ルカは、鱗のなくなった場所を覗き込んだ。
傷にはなっていない。
そこにはすでに、青銀色の新しい鱗が収まっていた。
「黒い鱗が青くなるんじゃないんだ」
リンが魚体を確認する。
「この個体では、古い鱗の下に新しい鱗が形成されています」
フィンが下流で撮影した写真を見せた。
標識した時は、全身が黒褐色だった。
同じ魚が、第二瀑の下では違う鱗を持っている。
「……すごいな」
ルカは小さく言った。
新しい種類の魚を見つけたわけではない。
第一瀑の下で釣り、放した一匹だった。
その魚が、自分たちの見ていない間にも変わり続けていた。
◇
「戻します」
リンの声で、全員が動いた。
必要な写真を撮り、自然に外れた鱗を記録する。それ以上、観察時間を延ばさない。
ミンとルカがスリングを開いた。
ロンユウはしばらく動かなかったが、胸鰭で水を押すと、尾を大きく振った。
黒と青銀の魚体が淵の奥へ走る。
「行った」
魚は岩陰へ消えた。
フィンが受信機を上げる。
「まだ淵の中です」
ルカは水面を見続けた。
やがて岩陰から黒い背が現れる。
雌は淵を一周し、左岸の岩壁へ向かった。
その先には第二瀑がある。
「上る気だ」
ルカがロッドを背負い直した。
◇
雌はすぐには落水へ入らなかった。
岩壁に沿って進み、押し戻されては淵の端へ戻る。しばらく留まってから、また同じ場所へ向かった。
ルカたちはマーカスの案内で、第二瀑の左側を見下ろせる岩棚へ移動した。
そこからは、落水の中央とは別に、岩のくぼみを伝う水が見えた。
淵から上がってきた雌が、その流れへ入る。
「あそこだ!」
ルカが指さす。
黒い背が白泡の端に現れた。
雌は中央へ向かわない。岩にぶつかって横へ逃げる水に体を寄せ、尾を振った。
一段、高くなる。
だが、その上から落ちる水に押され、魚体が横へずれた。
「あっ!」
ルカが身を乗り出す。
雌は落ちなかった。
岩のくぼみで向きを変え、落水の裏へ入る。
黒い背が消えた。
白泡の隙間から尾だけが見え、すぐにそれも隠れた。
「どこだ?」
ミンが双眼鏡を動かす。
下の淵には戻ってこない。
フィンが受信機を確かめた。
「下側の反応が弱くなっています」
ルカは岩壁の上を探した。
落水の脇で、水が外へ膨らんでいる。その向こうには、岩に挟まれた細い流れが続いていた。
そこへ黒い頭が現れた。
「いた!」
ルカが叫ぶ。
雌は水面から大きく跳ね上がったわけではなかった。
落水の裏から出ると、岩に沿って向きを変え、上流へ泳いでいく。
黒い背が一度だけ光った。
青銀色。
その魚体が、岩の向こうへ消える。
「上側で受信しました!」
フィンが画面を見せた。
反応は第二瀑の落ち口より上流にある。
もう下へ戻ってこない。
「第二瀑、突破です!」
ルカは滝を見上げた。
第一瀑の下で釣った時には、どこにでもいそうな黒い大型魚だった。
その同じ雌が、今は新しい鱗を持って、二つ目の滝を越えていった。
「追おう!」
マーカスが上流側の岩壁を指した。
「次はあっちだ」
ルカはロッドを背負い直し、先へ続く岩棚へ足を向けた。
第二瀑の上では、黒と青銀の魚体が、さらに高い水を目指していた。




