第38話 龍道
第一瀑の上では、川が二つに分かれていた。
一方は岩の間を奥へ流れ、もう一方は黒い岩盤の下へ吸い込まれている。ルカが覗き込んでも、狭い隙間の先には暗い水しか見えなかった。
「L-03、どっちへ行った?」
フィンが受信機を向ける。
「上流側にはいます。ただ、ここからだと位置が絞れません」
朝まで第一瀑の下にいた雄は、もう姿が見えない。
マーカスが岩棚の先を確かめた。水路に沿った足場は途中で途切れ、向こう岸まで深い裂け目が走っている。
「正面は通れない。右から回る」
「魚はもう行ったのに」
「だから急ぐ。足元は見ろよ」
ルカはもう一度、岩の下へ消える水を見た。
同じ上流へ向かうだけなのに、魚の進路と人間の道は、第一瀑を越えた途端に離れてしまった。
◇
岩棚を登り、張り出した岩の裏へ回ったところで、ルカは足を止めた。
「……魚?」
濡れた壁に、細長い影が張りついていた。
体を平たくし、大きな胸鰭を左右へ広げている。ほとんど垂直の岩肌を、少し進んでは止まり、また上へ動いた。
「チョウバクだね」
ミンがカメラを構える。
「こんなところ、上れるんだ」
ルカは魚の進路を目で追った。
壁は一面濡れているように見えたが、よく見ると水の厚さが違う。チョウバクは岩の凹みを伝う、ごく薄い流れから外れない。
一匹が突起の裏へ消える。そこへ近づくと、岩の奥から細い水音が聞こえた。
ルカが顔を上げる。
「上にも水がある」
大きな水路から離れた壁の裏を、別の流れが通っていた。
マーカスも岩の形を見上げた。
「上で分かれた水だな。こっち側へ落ちてきてる」
チョウバクがいなければ、ただの濡れた岩壁として通り過ぎていただろう。
小さな魚は、ルカたちが見えていなかった流れを上っていた。
◇
岩稜を回り込んだ先で、下から響く水音が急に大きくなった。
足元の裂け目から水が現れ、奥の流れと合わさっている。
「さっきの岩の下からだ」
ルカがしゃがみ込む。
フィンが受信機を取り出すと、途切れがちだった反応が戻った。
「L-03、さらに上流へ移動しています」
「追いつけないな」
ルカは笑ったが、目は流れから離さなかった。
岩の下を通ったのか、正面の水路を進んだのかは分からない。ただ、第一瀑を越えた雄が、ここからさらに奥へ向かったことは確かだった。
フィンが地形図へ反応を加える。
「この区間も、以前の記録では経路が確定していません」
「じゃあ、俺たちが見たところも残しとこう」
「はい。チョウバクが上っていた流れも記録します」
ルカは岩壁を振り返った。
大きなロンユウと、小さなチョウバク。
体も上り方も違う魚が、それぞれ別の水を使っている。
◇
その日の午後、下流班から映像が届いた。
第一瀑の左岸を、一匹のロンユウが上っている。
ルカは画面へ顔を寄せた。
「あの雌だ」
前日に標識した、百七十五センチのL-07。
放流後からずっと、強い中央の流れを避けて左岸の岩沿いを進んでいた個体だった。
映像の中で雌は白泡に押し戻される。だが、深場へは下がらない。岩のくぼみに体を寄せ、そこから少し上の反流へ入った。
「昨日と同じだ」
ルカが言った。
「強いところを無理に通ろうとしてない」
雌は再び尾を振り、岩の陰へ消えた。
しばらくして、第一瀑上流側の受信点が反応する。
「L-07、上側で継続しています」
フィンが記録を確認した。
「第一瀑突破です」
「来た!」
ルカが思わず立ち上がる。
最初に越えた雄とは、通った場所も、かかった時間も違う。だが、下流で追い始めた雌が、今度は自分たちのいる高さまで上ってきた。
「迎えに行こう」
ルカがロッドを持ち直すと、マーカスが先に立った。
◇
左岸の水路へ向かうには、一度来た道を戻り、岩の張り出しを別の側から回る必要があった。
目の前には水が見えている。それでも、まっすぐ近づける足場はない。
ルカはマーカスの後ろを進みながら、何度も水面を覗いた。
「まだいる?」
「少しずつ上流へ動いています」
フィンの返事を聞いて、足を速めかける。
「走るな」
マーカスに言われ、ルカは速度を落とした。
ようやく左岸の流れを見下ろせる岩棚へ着くと、黒い背が水面近くを横切った。
「あれだ!」
ルカが指さす。
雌は、岩に沿って上流へ進んでいた。
滝壺で見た時よりずっと小さく見える。周りの岩が大きすぎるのだ。
黒い魚体は反流に入って少し流され、尾を振って向きを戻した。そのまま岩陰へ消えると、次に現れたのは一段高い水路だった。
「つながってる」
ルカは二つの水面を見比べた。
上からでは分からなかったが、岩の陰に狭い通り道があるらしい。
L-07が上ったあと、その水面を小さな泡が流れてきた。
◇
夕方、リンが追跡図を広げた。
第一瀑の上には、これまで別々に記録されていた流れがいくつもある。
表面を流れる水。
岩の下へ潜る水。
岩壁を薄く覆う水。
そして、見えない場所で合流する水。
「この一帯の流路網を《龍道》と呼んでいます」
リンが示した図には、まだ途切れた線が残っていた。
「存在は以前から分かっています。ただ、どの流れがどこへつながり、ロンユウが実際にどこを使ったのか、確認できていない区間もあります」
ルカは今日の記録を見た。
L-03が消えた岩盤下の水路。
チョウバクが上っていた壁。
L-07が通った左岸の反流。
どれも、ただ地図を眺めているだけでは分からなかった。
「魚を追ってると、水の道も見えてくるんだな」
「ええ。それを一つずつつないでいます」
リンは、L-07の新しい記録線を地図へ加えた。
第一瀑から左岸の水路を経て、さらに上流へ。
まだ天湖までは遠い。
それでも、昨日まで途切れていた一匹の道が、少し長くなっていた。
◇
翌日、ルカたちは第二瀑の下へ到達した。
先行した雄の反応は、さらに上流側にある。ただし、姿はまだ確認できていない。
一方、左岸の雌は第二瀑の本流から外れた小さな淵に留まっていた。
「L-07、ここです」
フィンが岩棚の下を示す。
ルカは腹ばいになり、水面を覗き込んだ。
白泡がゆっくり回る淵の底を、黒い影が横切る。
「あれか」
待っていると、影がもう一度浮いた。
昨日、第一瀑を越えた雌だった。
強い流れへは入らず、岩壁に沿って淵を回っている。
「ここから見えるな」
ルカが身を起こす。
マーカスは足場を確かめてから答えた。
「見るだけならな。水際へ下りるなら、別の場所を探す」
ルカはもう一度、淵へ目を戻した。
第一瀑の下から追ってきた雌が、今は第二瀑の下にいる。
あの魚が次にどの水を選ぶのか。
今度こそ、見失いたくなかった。




