第37話 伏虎
第一瀑の滝壺には、空が明るくなる前から人の声が響いていた。
岸には大型の生体保持槽が置かれ、フィンが受信機と固定カメラの時刻を合わせている。ミンは竿の先からラインを引き出し、セイランは白泡の広がりを見ながら立ち位置を確かめていた。
滝壺では、黒褐色のロンユウたちが深みをゆっくり回っている。昨日より数が増えたように見えた。
「対象は八個体です。捕獲した順に番号を振ります」
リンが発信器を確認した。
捕らえ、計測し、個体の特徴を記録して放流する。そのあと、同じ魚がどの流れを通り、どこまで上るのかを追跡する。
ルカは滝壺を見た。
「じゃあ、まずは釣るんだな」
「そこは頼むよ」
ミンが竿を手に笑った。
◇
最初のロンユウが掛かると、竿は根元近くから大きく曲がった。
魚は浮かず、滝壺の底を横へ走る。白泡へ向かうたびにミンが岸沿いへ動き、竿の角度を変えた。
「中央へ入れないで」
セイランの声に、ミンが短く答える。
「分かってる」
ようやく浮いた背は、映像で見ていた時よりずっと厚かった。
二人がかりで魚を保持槽へ移し、リンたちが手早く計測する。撮影と発信器の装着が終わると、黒い魚体は再び深みへ戻っていった。
「L-01、受信しました」
フィンの画面に一つ目の印が灯った。
捕獲はそのまま続いた。
二匹目は百五十八センチの小柄な雌だった。保持槽でも激しく体を振ったため、リンの判断で作業を早める。
L-02と記録されたその魚は、放流されると群れの中央へ戻らず、滝壺の外側へ回っていった。
「群れに戻らないんだ」
ルカがその行方を追う。
「放流直後ですから、まだ分かりません」
フィンは位置だけを記録した。
三匹目は百八十三センチの雄だった。掛かった直後から上流へ向かおうとし、ミンが何度も白泡の外へ誘導する。
L-03。
その雄は放流後も深場に留まらず、すぐに滝の近くへ戻った。
「さっきから、あいつだけ上向いてる」
「動くかもしれんな」
セイランも水面を見た。
捕獲が進むにつれ、太陽は滝壺の上まで昇っていた。
七匹目は百七十五センチの雌。L-07と記録されたその魚は、放流後、強い中央の流れを避けて左岸の岩沿いへ入った。
別の雌はもっと本流に近い場所を泳いでいる。
「同じ上に行くんでも、通るところ違うんだな」
ルカが二匹を見比べる。
最後の個体を放した時、フィンの画面には八つの信号がそろっていた。
だが、その印はすでにばらばらだった。
深場に残る魚。岩際へ入った魚。白泡へ寄る魚。
番号をつける前には、一つの黒い群れに見えていた。
◇
午後、機材を整理していたフィンが顔を上げた。
「L-03が動きました」
朝から滝へ向かっていた雄だった。
黒い背が白泡の端へ入り、尾が強く振られる。下流側の信号が弱まり、数秒後、第一瀑の上流側に反応が入った。
「上が拾いました!」
「越えた?」
ルカが滝を見上げる。
だが、上流側の反応はすぐに消えた。
下側の受信機が再び鳴る。
白泡から押し出された黒い魚体が、水面近くへ現れた。
「戻った……」
L-03は深場までは下がらなかった。滝の外側を回り、また落水へ頭を向ける。
ルカはその動きを見続けた。
「もう一回行く気だ」
◇
夜が明けても、L-03は第一瀑のそばを離れていなかった。
フィンの記録によれば、夜の間にも何度か上流側へ動いていたらしい。
ルカたちが水辺へ出た時、雄はすでに白泡の外側を回っていた。
「今日も行くな」
セイランが双眼鏡を上げる。
その言葉が終わるより早く、L-03が落水へ頭を入れた。
昨日は流れの外縁で押し返された。今日はさらに内側まで進んでいる。
尾を振るたびに、黒い背が白泡の間から見え隠れした。
やがて姿が消える。
「下側、弱くなります」
上流側の受信機が鳴った。
昨日と同じだった。
ルカは息を詰める。
だが今度は、下側の反応が戻らない。
十秒、二十秒。
上流側の信号が、さらに先へ移った。
「越えました!」
フィンが画面を見せる。
滝の上を、L-03の印がゆっくり動いていた。
「本当に上った……!」
ルカは第一瀑を見上げた。昨日と変わらない白い落水の向こうへ、一匹のロンユウが抜けていった。
◇
昼前、小柄な雌のL-02も動いた。
一度白泡へ入ったものの、強い水に押されて横へ流される。深場へ戻れず、外側の岩場へ向かっていた。
ルカはその進路を追い、眉を寄せた。
大きな岩が水面から半分だけ出ている。
昨日から、ほかのロンユウがほとんど近づかなかった場所だった。
「そっち――」
水面が盛り上がった。
岩の下から黒灰色の魚影が飛び出し、L-02へ横から食いついた。
幅の広い頭と、上向きについた目が一瞬だけ見える。
「来た!」
ミンが岸際へ走る。
小柄な雌が激しく尾を振った。だが、捕食魚は追い回そうとはしない。一度の突進で獲物を捉え、そのまま岩陰へ戻っていった。
水面が静まる。
「L-02の信号……岩の裏で止まっています」
フィンの声が落ちた。
「シュイフーだ」
セイランが双眼鏡を下ろす。
リンが固定カメラの映像を開いた。
「伏虎瀑魚〈シュイフー〉。第一瀑の滝壺にいる大型の捕食魚です」
水中映像には、岩の下で胸鰭を広げ、ほとんど動かずにいる魚体が映っていた。
リンが映像を戻す。
L-02が白泡から押し出され、泳ぎを乱した瞬間だけ、シュイフーが動く。
「ずっと待ってたのか」
ルカは昨日から空いていた岩の周りを見た。
滝へ挑んで押し戻された魚が、あそこへ流れてくる。
シュイフーは強い流れへ出る必要がない。
ルカが再び画面へ目を向けると、リンがL-02の記録を閉じた。
「この個体の追跡は、ここまでです」
フィンは少し間を置いてから、捕食時刻を入力した。
八つあった追跡記録の一つが終わった。
◇
「上へ行くぞ」
マーカスの声で、ルカが振り返った。
L-03は第一瀑の上を進んでいる。追跡を続けるなら、人間も上らなければならない。
マーカスは滝の横へ伸びる岩壁を指した。
「水際は通らない。こっちから回る」
固定ロープをたどると、斜面はすぐに細い岩棚へ変わった。滝から吹きつける水煙で、岩は絶えず濡れている。
ルカは体を壁へ寄せ、一歩ずつ進んだ。
途中で見上げると、第一瀑はすぐ横にあった。
L-03が抜けた水は、白い塊となって落ち続けている。
魚はあの中を上った。
自分たちは岩壁を大きく回り込まなければ、同じ高さにすら立てない。
ようやく最後の岩棚へ体を引き上げた時、滝音が下から聞こえた。
「上……」
ルカが息を整える。
第一瀑の落ち口が、今は足元にあった。
フィンが受信機を取り出す。
「L-03、まだ動いています」
その先では、水が岩の間で二つに分かれていた。一方は表面を流れ、もう一方は岩盤の下へ消えている。
「どっち行った?」
ルカが身を乗り出す。
マーカスはロープをまとめながら、奥へ続く岩棚を見た。
「追えば分かる」
ルカは背負い直したロッドを確かめ、流れの先へ目を向けた。




