第36話 九瀑
参加が正式に決まってから数日後。
ルカとフィンは、アルヴェリアを発った。
大陸間便で海を越え、着いたのはシェンラ大陸。
そこからさらに山岳鉄道へ乗り継いだ。
窓の外から都市が消え、代わりに切り立った岩峰が増えていく。
谷の底には細い川。
そのさらに奥では、白い雲が山の中腹を横切っていた。
終点からは長い陸路だった。
天龍山系の前線拠点で現地調査班と合流し、荷物を組み直す。
最後は四輪駆動車。
舗装路は途中で消え、岩と土の道へ変わった。
それも長くは続かなかった。
「ここまでだ」
車両が止まる。
その先に道はない。
ルカは荷物を背負い、山の奥を見た。
ブルーリーチを出てから、飛行機、鉄道、車。
それだけ乗り継いでも、まだ目的地には着いていなかった。
◇
徒歩へ切り替えてしばらくすると、水音が聞こえ始めた。
最初は遠い川の音にしか聞こえない。
だが進むほど低く重くなり、尾根へ近づく頃には、靴の下の岩に細かな震えが伝わってきた。
ルカは何度か谷側を見る。
深い山の向こうに黒い岩壁が重なっている。
まだ滝は見えない。
前を歩くフィンの背には、いつもの荷物に加えて防水ケースが固定されていた。
「水音、ずっと大きくなってるな」
「近づいてますね」
道が細くなる。
左には湿った岩壁。
右側は深く落ち込んでいる。
最後の岩角を回ったところで、ルカの足が止まった。
写真で見た岩峰が、正面に立っていた。
周囲にも切り立った峰が連なっている。
その中央から、一つだけ桁違いに巨大な岩塊が突き上がっていた。
黒灰色の断崖が幾重にも折れ、その中腹を雲が流れている。
そして岩峰を、白い水が縦に走っていた。
最下部には巨大な滝。
遥か上にも、別の落水が見える。
その間では水が岩壁の裏へ消え、まるで関係のない場所から再び白く現れていた。
さらに高いところでは、雲の中から落水音だけが響いている。
ルカは岩峰を下から上まで追った。
「写真より、水のつながりが分かんないな」
見えている水だけでは、一つの川には見えない。
それでも、すべて同じ岩峰を流れている。
九瀑。
下流の第一瀑から、頂部近くの第九瀑まで。
その上には、ここからは見えない《天湖》がある。
雲が動いた。
中腹の白い落水が一瞬だけ姿を見せ、すぐまた岩の向こうへ消える。
ルカはしばらく、その岩峰から目を離さなかった。
◇
尾根から下り始めたところで、先頭が止まった。
道の先へ岩と泥が崩れ落ちている。
斜面ごと削られ、細かった足場が途中で消えていた。
その手前では、数人がすでに作業していた。
「そっちは通すな。ケースを先に下ろせ」
低い声が飛ぶ。
一人の男が岩壁へ支点を取り、ロープを張り直していた。
四十歳前後。
腰には登攀用の器具が並んでいる。
濡れた岩の上なのに、足を置く場所を探す動きがない。
男は支点を一度強く引き、角度を変えてもう一本ロープを通した。
それからルカたちを見る。
「追加要員か?」
「生態記録局のフィン・テイルです。こちらがルカ・スケイル」
「マーカス・ヴェイン。フロンティアだ」
名前を聞いて、フィンがわずかに姿勢を正した。
高所や岩壁への進入路開発で知られる探釣師。
天龍瀑でも、何年も上部への経路をつないできた人物だった。
一鱗章を持つ。
だが本人はそれに触れず、すぐ崩れた斜面へ視線を戻した。
「昨日の雨で落ちた。今日はこっちから回る」
新しいロープが岩壁沿いに伸びている。
その先にあるのは、人一人が横向きで通れる程度の岩棚だった。
さらに先は張り出した岩の裏へ消えている。
マーカスは荷物を確認し、二つに分けた。
「重いケースは先に送る。人は一人ずつ。濡れてるところで止まるな」
防水ケースが先にロープで送られる。
フィンが続く。
ルカもカラビナを掛けた。
岩棚へ出た瞬間、滝から吹き上がった細かな水が顔に当たる。
足元は濡れている。
右足を置く。
体を岩へ寄せる。
次の足場へ進む。
下を見れば、ずっと下に白い水が見えた。
「前を見ろ」
マーカスの声が飛ぶ。
ルカは視線を戻す。
数メートル進んだだけで、さっきまでいた道は岩壁の向こうへ消えた。
さらに回り込み、短い斜面をロープで下る。
広い足場へ着いた時、ルカは振り返った。
魚が進む水路は、遥か左下にある。
自分たちはそこから大きく離れ、岩壁の外側を回ってきていた。
「魚とは、全然違う道なんだな」
マーカスは次のケースを受け取りながら言った。
「魚が通れる場所を、人が通れるとは限らない」
それだけ言うと、もう次の支点を確認していた。
◇
第一瀑が近づくにつれて、会話がしづらくなった。
落水音が空気を埋めている。
観測棟が見えた頃には、第一瀑の全体が岩壁の間から姿を現していた。
尾根から見た時より、はるかに高い。
落ちた水が巨大な滝壺を白くえぐり、その周囲を黒い岩が囲んでいる。
白泡の外側には、いくつもの黒い魚影があった。
ロンユウだ。
その手前で二人が水面を見ている。
一人は四十代ほどの男。
もう一人は双眼鏡を持った若い女性だった。
「また入った」
女性が言う。
一匹のロンユウが白泡へ近づく。
強い水へ頭を入れたところで魚体が横へずれ、深い方へ押し戻された。
それでも下流へ逃げない。
向きを変え、また滝の方を見る。
女性がこちらに気づいた。
「ミン・レイ。九瀑釣査隊」
「ルカ・スケイル」
「聞いてる。追加で来るって」
隣の男も振り返った。
「セイラン・カドウェル。隊長だ」
短く名乗り、すぐ水へ視線を戻す。
ルカも同じ方を見た。
セイランが見ていたのは、ロンユウそのものだけではなかった。
落水に押された水が滝壺の外へ広がり、岩際から戻る流れとぶつかっている。
その境目に、一匹のロンユウが留まっていた。
「またあそこだ」
セイランが言う。
ミンが前日の記録を開いた。
同じ辺りに、何匹ものロンユウが残っている。
ルカは現在の水面と見比べる。
「ここなら、流されにくい」
セイランがルカを一度見た。
「そう見える」
断定はしなかった。
その時、ロンユウの横で小さな光が走った。
銀青色の細い魚が群れになり、二つの流れが接する場所に沿って移動している。
ロンユウが近づくと一度散る。
それでもすぐ同じ辺りへ集まった。
ルカが群れを目で追う。
すると今度は、滝の端で別の影が動いた。
小さな魚だ。
強い落水の中央ではない。
岩壁を覆う薄い水の中を、胸ビレを広げるようにして少しずつ上っている。
「あれも魚だ」
フィンが向いた時には、岩の突起の向こうへ消えていた。
流れの境を泳ぐ魚。
滝の端を上る魚。
第一瀑だけでも、ロンユウとは違う動きをする魚がいる。
ルカはそこから中腹へ視線を上げた。
まだ見えていない水の方が多かった。
◇
観測棟へ入る。
一人の女性が地形図の前に立っていた。
こちらを見る。
「リン・シャオロンです。ここの研究所を預かっています」
フィンが会釈する。
ルカも名乗った。
リンは余計な自己紹介を続けなかった。
机上の地形図を開く。
「明日の朝から、ロンユウを捕獲します」
最下部の流れに印がついている。
「対象は八個体。計測して、個体を識別できるようにしたあと、すぐ放流します」
フィンは防水ケースを開き、受信機と固定カメラの時刻を合わせ始めた。
ミンは釣具を確認する。
セイランは窓の外の第一瀑を見ていた。
マーカスは、崩れた経路を地形図へ書き足している。
リンが表示を上へ送った。
第一瀑から始まった追跡線が、岩峰の途中まで伸びている。
そこで薄くなった。
消える。
もっと上には、別の時期に得られた記録が点々と残っていた。
「この区間を越えて、同じ個体の記録を連続させた例はまだありません」
ルカは、途切れた線を見る。
魚がそこで消えるわけではない。
人間側の記録が続かない。
「だから、今回は下からずっと追う」
リンが頷いた。
「同じ個体を、天湖まで」
短い言葉だった。
だが地図の上では、追う距離よりも高低差の方が目についた。
第一瀑。
その上で岩の裏へ隠れる水。
雲を挟んで、さらに上に残る観測点。
最上部の《天湖》。
一本の魚の記録をつなぐには、人間もそこまで上がらなければならない。
外からミンの声が飛んだ。
「入った!」
一同が窓際へ寄る。
一匹のロンユウが第一瀑の白泡へ向かっていた。
尾が強く動く。
魚体が流れの中へ消えた。
次の瞬間、横から押し出される。
黒い体が白泡の外へ戻った。
だが、下流へ逃げない。
深みを回り、再び滝へ頭を向ける。
その横では、銀青色の小魚が流れの境を走った。
岩壁の端では、小さな影が薄い水の中へ消える。
ルカは魚たちの向こうを見上げた。
第一瀑の上。
見えている滝。
岩の裏へ隠れた水。
雲の中から響く、姿の見えない落水。
そのすべてが、一つの巨大岩峰の中でつながっている。
明日から、人間もその中へ入る。




