第34話 九十二
風が、少し弱くなっていた。
岬の先に集まっていた小魚も、さっきより広く散っている。
ルカはしばらく水面を見ていたが、やがて竿を持ち直した。
「もう一匹くらい、いけるかな」
七十四センチを釣った場所だけにこだわる必要はない。同じストライクバスでも、時間や水深が変われば入る場所は変わる。
ルカは岬を離れ、水草帯の外側へ歩いた。
水面の下。
濃い緑の水草が途切れ、その先だけ少し底が落ちている。
小魚が何度か出入りしていた。
「ここかな」
投げる。
水草の縁へ落とし、その外側をゆっくり通す。
反応はない。
少し立つ位置を変える。
今度は水草の切れ目へ通した。
ルアーが抜けた瞬間、ラインが鋭く張った。
「来た」
竿が曲がる。
魚は水草の中へ入ろうとする。
ルカは竿を横へ倒した。
「そっちはだめ」
魚の向きが変わる。
さっきの七十四センチほど重くはない。
それでも、近くまで寄せるとしっかりとした魚体が見えた。
暗いオリーブ色。
太い頭。
体側の細い青白い線。
「五匹目」
保持網に入れ、四十センチ台後半と測定する。記録を残してから放流した。
水へ戻した魚が、水草の外側を抜けて消えていく。
ルカはその方向をしばらく見ていた。
「ここにもいた」
少し離れた場所から声が飛ぶ。
「十五匹目!」
ルカが振り返る。
カイはもう魚を測定台へ運んでいた。
「まだ増えてる」
記録を終えたカイは、すぐに次の場所へ向かう。
その視線が止まった。
水草帯。
その先。
深く落ちる境目。
ルカも見る。
「そこ?」
カイは答えない。
竿を振る。
ルアーが飛んだ。
水草の端。
ぎりぎり外側。
着水すると、すぐに巻き始める。
数秒。
水面が大きく弾けた。
「来た!」
さっきまでとは違う。
竿が深く曲がる。
カイが一歩だけ前へ出た。
魚は水草へ走る。
カイはすぐに竿を反対へ倒す。
入らせない。
魚が向きを変えた瞬間に巻く。
魚は強く首を振る。それでもカイは進路を選ばせない。
水面へ浮いた魚体を見て、ルカの目が止まった。
これまでカイが釣っていた魚より、明らかに胴が太い。
ルカは測定地点まで魚を目で追った。
保持網が入る。
「入った!」
測定板へ乗せる。
担当者が目盛りを見る。
「六十一」
「六十一センチ?」
「そう」
周囲から声が上がる。
「六十超えたな」
「今日の中でも大きい方だ」
カイは魚を見る。
それからルカを見る。
「言っただろ」
「六十超えも取るって?」
「そう」
ルカは魚の太い胴を見る。
「ほんとに取った」
カイが少し笑う。
「七十四には届かなかったけどな」
「でも六十一だろ?」
カイは一瞬だけルカを見る。
「七十四を釣ったやつが、それ言うのか」
「六十一は六十一だろ」
カイは少し笑った。
測定が終わる。
六十一センチのストライクバスが水へ戻される。
尾を振り、水草の外側へ消えていった。
その後も調査は続いた。
残った時間は長くない。
それでもカイはもう一匹追加した。
「十六匹目!」
今度は四十センチ台だった。測定と記録を終え、そのまま放流する。
しばらくして。
「本日の捕獲記録を締めます!」
調査担当者の声が響いた。
湖のあちこちで、竿を持っていた参加者たちが動きを止める。
端末が回収される。
測定記録がまとめられていく。
ルカも竿を片付けながら、湖を振り返った。
島や湾、岬、水草帯、沈み木、岩場。ほんの一日では、湖の全部を見ることはできない。
ルカは湖を見回した。
「今日だけじゃ全然回れてない」
「今さら?」
近くにいたカイが言う。
「全部回った?」
「無理」
「やっぱり」
やがて、今回の記録が端末に表示された。
ルカは自分の名前を探す。
ルカ・スケイル。捕獲数は五匹、最大七十四センチ。
「五匹か」
隣から声がした。
カイだ。
「うん」
ルカも隣の記録を見る。
カイ・ロストラム。捕獲数は十六匹、最大六十一センチ。
「十六。やっぱ多いな」
「でも最大はそっちだ」
「うん」
カイは七十四という数字を見る。
「次は取る」
ルカは十六という数字を見る。
「じゃあ俺は、もうちょっと数釣りたい」
カイがルカを見る。
「そこ張り合うのか?」
「十六匹は気になる」
「そういう意味じゃない」
「?」
カイは少し黙った。
それから肩をすくめる。
「まあいい」
調査担当者が、今回の記録を過去の一覧へ追加していく。
画面が切り替わる。
過去の捕獲記録。
ルカは何となくスクロールした。
「あ」
見覚えのある名前。
オーウェン・ハート。
十八匹。
最大七十六センチ。
「ほんとだ」
さらに下。
ノーラン。
シエナ。
ギル。
事務所で聞いた数字が並んでいる。
「全部残ってる」
「記録だからな」
カイが言う。
「こういうの見る?」
「見る」
「自分の?」
「他のも」
ルカはさらに画面を送った。
その指が止まった。
ダンテ・ロッソ。
「……ダンテ?」
名前は知っている。
大型魚の実釣で名を知られた探釣師。
けれど、その下に並んだ数字は知らなかった。
捕獲数は三十八匹。
ルカの目が止まる。
「……三十八?」
もう一度見ても、数字は変わらない。
ルカが隣を見る。
「三十八匹?」
「そう」
「カイの倍以上じゃん」
「分かってる」
いつもより少しだけ、返事が短い。
ルカはもう一度画面を見る。
まだ続きがある。
最大魚の欄を見た瞬間、ルカの動きが止まった。
「……九十二センチ?」
自分が釣った七十四センチの魚体が頭に浮かぶ。太い頭と、深場から浮いてきた時の重い引き。記録にある魚は、それよりさらに十八センチ大きい。
「ストライクバスで?」
「そう」
カイは何も言わない。
ルカが横を見る。
「ダンテって、あのダンテ?」
「そう」
「この記録も知ってた?」
「知ってる」
「三十八匹で、最大九十二だよ?」
「俺も数字は読める」
ルカはまた画面を見る。
「どうやって釣ったんだろ」
「さあな」
「どこにいたんだろ」
その言葉で、カイが少しだけ笑った。
ルカは湖へ目を向けた。
岬の先、湾の奥、島の周囲、水草帯。その間には、ここからでは底の見えない深い水がいくつもある。
ルカはもう一度だけ記録を見て、それから湖へ視線を戻した。
「どこにいたんだろ」
隣で、カイが竿を肩に乗せた。
「それ、俺も知りたい」




