第33話 上がってくる
カイの竿は、また曲がっていた。
「十一匹目!」
記録担当の声が飛ぶ。
ルカは少し離れた場所から、そのやり取りを見る。
魚を掛ける。
寄せる。
測る。
戻す。
そして、すぐ次へ。
ルカは自分の竿を見た。
「……俺も釣ろ」
カイばかり見ていても仕方がない。
ルカは湾の奥へ歩いた。
岸際には水草。
その外側に、小さな岩が点々と沈んでいる。
水面近くでは、小魚が細かく方向を変えていた。
ルカはしばらく見る。
小魚の群れ。
水草の切れ目。
岩の陰。
「ここ」
投げる。
ルアーをゆっくり通す。
反応はない。
少し角度を変える。
水面が弾けた。
「来た」
竿が曲がる。
魚は岩の横へ走った。
ルカはその動きに合わせて竿を倒す。
無理に止めない。
岩へ入り切る前に向きを変えさせる。
数秒後。
水面に暗いオリーブ色の魚体が浮いた。
「三匹目」
四十センチ台。
測定。
記録。
放流。
ルカはその場にしゃがんだまま、水面を見る。
少し離れた場所で、また声がした。
「十二匹目!」
ルカはそちらを一度見ただけで、別の場所へ移った。
今度は沈み木。
枝が水中へ斜めに伸び、その先だけ少し深くなっている。
ルカは枝の外側を通した。
反応はない。
角度を変える。
小さな魚影が追ってきた。
「いた」
今度は少し深く通す。
竿先が入った。
「よし」
四匹目。
取り込んだ魚は、これまでとほとんど同じくらいだった。
四十センチ台。
測って、戻す。
ルカは立ち上がった。
周りを見る。
水草。
岩。
沈み木。
湾。
どこへ行っても釣れる。
実際、ストライクバスはいる。
けれど、ここまで見た魚はほとんど四十から五十センチ前後だった。
オーウェンたちの話を思い出す。
六十を超えれば、そう何本も出るサイズではない。
七十台なら、さらに違う。
カイも数は圧倒的に多いが、飛び抜けて大きな魚はまだ見ていない。
「同じところにいない?」
ルカは湖を見る。
風が吹いた。
それまで静かだった水面に、小さな波が立つ。
岸沿いに広がっていた小魚の群れが、ゆっくり一方向へ寄っていく。
もう一度、風。
水面を押す。
小魚の群れも動く。
向かった先。
細長く湖へ突き出した岬。
その先端。
浅い岩場。
そして、そのすぐ外側。
水の色が急に濃くなっている。
「深い」
ルカは岬へ向かった。
付け根から先端へ。
近づくほど、風が強く当たる。
小魚が集まっていた。
群れの一部が波に崩されては、またまとまる。
ルカはすぐには投げなかった。
見ている。
風が少し弱まる。
小魚の群れが広がる。
岬の外側。
深い水は静かなまま。
しばらくして、また風が強くなった。
小魚が押される。
群れが先端へ寄る。
その瞬間。
深場側で、水がわずかに持ち上がった。
大きな波ではない。
けれど、小魚の動きとは違う。
ルカは目を離さない。
風が弱まる。
何も起きない。
また待つ。
数分後。
風が戻った。
小魚がもう一度、岬の先へ寄せられる。
今度ははっきり見えた。
深い水の下。
重い影が、浅い側へ近づく。
「いる」
ルカは竿を持ち直した。
小魚を見る。
深場を見る。
「ずっと浅いところにいるんじゃない」
もう一度、群れが岬へ寄った。
「餌が寄った時だけ、上がってくる」
投げる。
小魚の群れの少し外。
深場と浅場の境目。
着水。
巻く。
反応はない。
ルアーが岬の浅い側へ近づく。
その時だった。
深場から影が上がった。
「来る」
次の瞬間。
魚が横から突っ込んできた。
ドンッ。
竿が一気に曲がる。
魚体が水中でひねられた。
暗いオリーブ色。
その側面に走る青白い線が、一瞬だけ光を拾う。
大きい。
魚は食った勢いのまま横へ走った。
そしてすぐ。
向きが変わる。
「下だ!」
深場へ潜る。
竿先が水面へ引き込まれた。
ルカは足を踏ん張る。
無理に止めれば切れる。
でも走らせすぎれば、深い場所で主導権を取られる。
ルカは竿を立てすぎず、魚の向きを見る。
一度だけ距離を出す。
魚が止まった。
「今」
巻く。
魚が再び走る。
今度は横。
水面が大きく割れた。
「でかっ!」
近くにいた調査員が声を上げた。
ストライクバスが跳ねる。
太い頭。
厚い前半身。
後ろへ鋭く絞られる体。
着水と同時に、また深場へ潜ろうとする。
ルカは竿を支えた。
走る。
止まる。
巻く。
少しずつ距離を詰める。
魚が最後に大きく首を振った。
ルカはそれを耐えた。
「よし……!」
岸際。
調査員が保持網を入れる。
「入った!」
魚体が網の中へ収まった。
ルカはその場に座り込んだ。
「重……」
すぐに測定へ移る。
魚を測定板へ乗せる。
頭を基準へ合わせる。
尾を伸ばす。
担当者が目盛りを見る。
一瞬、黙った。
「七十四」
ルカが顔を上げる。
「七十四?」
「七十四センチ」
周囲の空気が少し変わった。
「七十超えたか」
「でかいな」
「今日出てた?」
数人がこちらを見る。
ルカは魚を見る。
七十四センチ。
四十センチ台の個体とは、同じ魚とは思えないほど厚みが違う。
でも形は同じだ。
太い頭。
後ろへ絞られる体。
体側の青白い線。
「深い方から上がってきた」
ルカは岬の先を見る。
「小さい魚が寄った時だけ、浅い方へ来てるのかも」
一匹だけで全部を決めることはできない。
それでも、見えたものは記録できる。
測定が終わる。
魚を水へ戻す。
七十四センチのストライクバスは、しばらく浅い場所で止まっていた。
それから尾を振る。
深い方へ消えた。
「十三匹目!」
少し離れた場所から声が飛んだ。
ルカが振り返る。
カイの竿が曲がっている。
数分後。
「十四匹目!」
ルカは少し笑った。
「まだ増えてる」
「それ、何センチ?」
今度は近くから声がした。
カイだった。
「七十四」
カイの目が魚の消えた水面へ向く。
「七十四?」
「うん」
少し黙る。
それからカイは笑った。
「それ、俺が欲しかったやつだ」
「欲しかった?」
「でかいやつ」
カイは自分の竿を肩に乗せた。
「数だけじゃ面白くないだろ」
ルカはカイを見る。
「あんなに釣ってるのに、まだ釣りたいんだな」
カイは一瞬黙った。
そして笑う。
「当たり前だろ」
竿を持ち直す。
「次はそっちも取る」
カイは岬の先を見る。
ルカも同じ方向を見る。
風はまだ吹いている。
小魚の群れは、少しずつ場所を変えていた。
ルカは水面を見た。
「また上がってくるかな」




