第32話 掛ける
調査当日の朝。
ルカは長距離列車でアルヴェリア北西部へ入った。
ブルーリーチを出た時には見慣れた湖水地方の景色が続いていたが、北西へ進むにつれて地形が変わっていく。
広い農地。
緩やかな丘陵。
いくつもの河川。
その間を列車は何時間も走った。
雷帝湖へ向かった時とは違う。
海は越えない。
飛行機にも乗らない。
それでも、ブルーリーチの近所ではなかった。
地域拠点の駅で降り、調査参加者用の連絡車へ乗り換える。
やがて道路の先に、水面が見え始めた。
最初は細い青だった。
丘を一つ越える。
その先で、一気に視界が開いた。
グランドフィッシャーレイクは、見た瞬間から忙しかった。
岸の向こうに小さな島がある。
その手前には水草帯。
右へ目をやれば、入り組んだ湾の奥に倒木が沈んでいる。
少し離れた場所では、細長い岬が湖へ突き出し、その先で水面の色が変わっていた。
「……ほんとに全部投げたくなるな」
ルカは荷物を背負ったまま、しばらく動かなかった。
事務所で話を聞いた時から気になっていた。
だが、実際に見ると話以上だった。
ここにもいそう。
あそこにもいそう。
視線を動かすたび、次の場所が見つかる。
「受付、先ですよ」
後ろから声をかけられ、ルカが振り返った。
「あ、はい」
調査員が苦笑している。
「湖は逃げませんから」
「でも魚は動くよね」
「それはそうですね」
ルカはもう一度だけ湖を見てから、受付へ向かった。
湖岸には簡易の調査拠点が設けられていた。
机の上には測定板、計量器、記録端末。
その横では、すでに何人もの探釣師が準備をしている。
年齢も装備もばらばらだった。
軽い竿を一本だけ持つ者。
何本ものタックルを並べる者。
湖岸図を広げて、誰かと話している者。
だが、全員の目的は同じだった。
ストライクバス。
「捕獲後は測定地点まで運ぶか、携帯端末で記録を送ってください。体長、重量、成熟状態の確認後、速やかに放流します」
担当者が説明する。
「無理に大型個体を狙う必要はありません。今回重要なのは、できるだけ多くの個体情報を集めることです」
ルカは頷いた。
大会ではない。
数そのものが記録になる。
「では、始めてください」
その声と同時に、人が散った。
ルカも湖岸へ向かう。
最初に目をつけたのは、細い水草帯だった。
岸から数メートル先まで、細長い葉が水面近くへ伸びている。
その外側。
少しだけ水が暗くなっている。
ルカは足を止めた。
「ここかな」
投げる。
ルアーが水草の際へ落ちた。
軽く誘う。
反応はない。
少し位置を変える。
今度は水草の切れ目へ。
着水。
巻き始めた直後だった。
竿先が入った。
「来た!」
竿が曲がる。
魚が水草へ突っ込もうとする。
ルカは竿を横へ倒した。
「そっちはだめ」
魚の向きが変わる。
水面が割れた。
暗いオリーブ色の魚体。
太い頭。
短く強い首振り。
そして、体の後ろ側へいくほど細く絞られた形。
「ストライクバス……!」
魚が跳ねる。
体側に走る細い青白い線が、一瞬だけ光を拾った。
ルカはその動きを見ながら距離を詰める。
最後にもう一度だけ魚が走った。
だが、水草へ入る前に止める。
岸際まで寄せ、慎重に取り込んだ。
四十センチを少し超えるくらい。
大きくはない。
それでも、持った瞬間に力が伝わってくる。
「頭、重いな」
ルカは魚体を見る。
前側に厚みがあり、後ろへいくほど急に細くなる。
じっとしている時は重そうなのに、走り出した瞬間だけ一気に軽くなるような体だった。
携帯端末で記録を取る。
体長、重量、状態。
必要な項目を確認する。
「一匹目」
水へ戻す。
ストライクバスは一度だけ尾を振り、そのまま水草の奥へ消えた。
ルカはすぐ立ち上がった。
正面に小さな張り出し。
その先に沈み木。
少し離れたところには、水面から枝だけを出した倒木がある。
視線が止まる。
沈み木の横。
水面との間に、わずかな隙間がある。
魚が付くなら、かなり良さそうだった。
投げようとした時。
別のルアーが飛んできた。
「え?」
ルアーは沈み木のすぐ脇へ落ちた。
ほとんど触れそうな距離。
着水。
短く誘う。
水面が弾けた。
竿が曲がる。
少し離れた場所にいた若い探釣師が、すぐに魚の向きを変えた。
ストライクバスが沈み木へ突っ込もうとする。
だが、その前に引き剥がされる。
魚が跳ねる。
着水。
もう一度走る。
それも短い。
数秒後には、完全に開けた場所へ出されていた。
そのまま取り込む。
ルカは竿を下ろした。
「……今の」
うまい。
もちろんそうだった。
だが、それより先に気になったのは、掛かるまでの短さだった。
若い探釣師が魚を測定板へ乗せる。
「四十六センチ」
近くにいた記録担当が端末へ入力した。
魚を水へ戻す。
若い探釣師は立ち上がる。
次の瞬間にはもう湖を見ていた。
少し歩く。
止まる。
投げる。
今度は岩の影。
着水。
短く誘う。
竿が曲がった。
ルカはその一連の動きを追った。
今度の魚は小さい。
それでも同じだった。
掛けた瞬間に主導権を取る。
魚が行きたい方向へ行く前に向きを変えさせる。
取り込む。
測る。
戻す。
すぐ次を見る。
「カイ!」
少し離れた記録担当が呼んだ。
「今ので四匹目!」
「分かってる」
若い探釣師が短く返した。
ルカは、その名前を頭の中で繰り返した。
カイ。
聞いたことのない名前だった。
けれど、名前を覚えるより先に、カイはもう次の場所を見ていた。
ルカもその視線を追う。
岸際の小さな影。
水草と岩が重なるところ。
「あそこ?」
ルカが考えた直後。
カイのルアーが飛んだ。
狙った場所から、ほとんどずれない。
短い誘い。
魚が出る。
フッキング。
まただ。
「五匹目!」
記録担当の声が飛ぶ。
周囲の探釣師が少しだけカイを見る。
「もう五?」
「早いな」
それだけ。
誰も騒がない。
調査は続いている。
ルカも竿を持ち直した。
「俺もやろ」
別の湾へ移る。
浅い場所には小魚がいる。
その少し外側。
水草の切れ目で、一度だけ水面が揺れた。
ルカは足を止める。
今度はすぐ投げない。
小魚の動きを見る。
一群が岸へ寄る。
また離れる。
そのたびに同じ場所だけ、動きが乱れる。
「そこにいる」
投げる。
小魚の群れの外側。
ルアーを通す。
反応はない。
角度を少し変える。
群れが割れた。
直後、竿先が引き込まれる。
「よし!」
二匹目。
今度の魚は一匹目より少し大きい。
強く首を振る。
ルカは無理に寄せず、走る方向を見ながら竿を動かした。
魚が一度だけ沖へ出る。
そこで止まる。
「今だ」
向きを変えさせる。
岸へ寄せる。
取り込んだ。
「四十八センチ」
記録担当が測る。
「二匹目ですね」
「うん」
水へ戻す。
ストライクバスが消える。
ルカは足元の水草と、その先で小魚が揺れた場所を見比べた。
「場所ごとに違うな」
視線を感じた。
顔を上げる。
少し離れた場所で、カイがこちらを見ていた。
ルカの足元の水面を一度見る。
それから、その先の水草帯を見る。
「そこにもいたか」
それだけ言うと、カイはすぐ別の場所へ向いた。
ルカもその背中を見る。
「……見てたんだ」
次の瞬間。
カイのルアーが飛んだ。
水面が弾ける。
「六匹目!」
また別の場所へ移る。
数分後。
「七匹目!」
さらに移動する。
狭い隙間へルアーを落とし、短く誘う。
「八匹目!」
ルカはカイの動きを追った。
自分が魚の位置を見ている間にも、カイは次の魚を掛けていく。
適当に投げているわけではない。
むしろ逆だった。
狙う場所は狭い。
沈み木の端。
岩の影。
水草の切れ目。
ほんの少し水深が変わる境目。
そこへ、ほとんど迷わず落とす。
そして、魚がいる場所へ入った後が短い。
ルカが目を細めた。
カイがまた投げた。
今度は細い枝の下。
普通なら引っかけそうな場所。
ルアーは枝の手前を抜け、その奥へ落ちた。
短く動く。
魚が出る。
「掛けた」
竿が曲がった瞬間、カイが一歩下がる。
魚が枝へ入ろうとした。
だが、もう向きが変わっている。
開けた側へ出される。
取り込む。
「九匹目!」
ルカは黙って見ていた。
キャストが正確。
魚に見せる時間が短い。
食った瞬間に掛ける。
掛けた後も魚に選ばせない。
一つ一つは分かる。
何をしているかも、見れば分かる。
それでも、次の魚がもう掛かっていた。
「十匹目!」
カイは魚を水へ戻すと、すぐ立ち上がった。
もう次の場所を見ている。
ルカは自分の竿を見る。
それからカイを見る。
「どうやって、あんなに掛けてるんだ?」




