第31話 たまには
ノルディアからアルヴェリアへ戻って、まだそれほど経っていなかった。
雷帝湖では、大陸を渡ってからもグラント高原の奥まで入り込んだ。
その遠征を終えても、オーウェン隊の事務所は静かにはならなかった。
開いたままのケース。
壁際に立てかけられた竿。
乾かされた防水具。
机の上には、まだ整理しきれていない記録端末が何台も並んでいる。
「ルカ、それそっち」
「これ?」
「違う。黒い方」
「両方黒いじゃん」
「持てば分かる」
ダリオに言われ、ルカは二つのケースを持ち上げた。
「あ、重い」
「そっちだ」
少し離れたところで、ノーランが笑った。
「お前、雷帝湖じゃもう少し賢そうな顔してたぞ」
「ケース見ただけじゃ分かんないって」
「俺は分かる」
「じゃあ中身は?」
「……機材」
「全部そうじゃん」
ノーランが黙った。
シエナがその横を通りながら言う。
「手を動かして」
「はい」
返事だけは早かった。
机の端では、フィンが雷帝湖で使った記録端末を確認している。
画面を閉じると、ルカを見た。
「ルカさん」
「ん?」
「次の予定は決まっていますか?」
ルカはケースを棚へ置いた。
「まだ」
「でしたら」
フィンが別の画面を開いた。
「たまには、こういう調査もいいかもしれません」
「何?」
差し出された端末を覗く。
国際探釣機構が募集している調査協力者の案内だった。
対象水域。
グランドフィッシャーレイク。
所在地――アルヴェリア大陸北西部。
その名前を見て、ルカの目が止まる。
「あそこ?」
「ご存じですよね」
「うん。有名だから」
内水域で釣りをする者なら、一度は名前を聞く。
大小の島。
入り組んだ湾。
岬、岩礁、沈み木、水草帯。
場所によって、まるで違う釣りができることで知られる大湖。
魚を釣るために旅をする者たちの間では、特に有名な場所だった。
「何の調査?」
「ストライクバスの定期資源調査です」
「ストライクバス」
ルカが画面を送る。
捕獲。
測定。
記録。
放流。
一定期間に多くの個体を捕獲し、体長や重量、成熟度などを記録する。
「いっぱい釣るんだ」
「そうですね。確認できる個体が増えるほど、個体群の状態を把握する材料も増えます」
ルカは募集要項を読み進めた。
「あれ、今年もうその時期か」
横からオーウェンが画面を覗いた。
「知ってるの?」
「知ってるも何も、俺もやった」
ルカが顔を上げた。
「参加したことあるの?」
「ある」
「俺もあるぞ」
ノーランが割り込む。
ギルとシエナも頷いた。
ダリオがケースを閉じながら言う。
「俺も現場には行った」
「釣ったの?」
「俺は機材担当」
「やっぱり」
「何がやっぱりだ」
ルカは四人を見る。
「そんなに定番なの?」
「探釣師にはな」
オーウェンが言った。
「調査は調査だが、グランドフィッシャーレイクで一日中ストライクバスを追える。嫌いなやつは少ない」
「そんなに釣れる?」
「釣れる」
ノーランが即答した。
「最初はな」
「最初?」
「見える場所全部、良さそうに見えるんだよ」
ノーランが机の上に指で適当な湖岸線を描く。
「島がある。投げる。回ったら小さい湾がある。投げる。その奥に倒木。そこも投げる。抜けたら岬」
「結局全部じゃん」
「そうなんだよ」
「だから時間なくなる」
ギルが横から言った。
「お前は本当に全部投げてたけどな」
「あそこは魚いそうだったからな」
「三十分くらい同じ湾から出てこなかっただろ」
「何匹?」
「四」
「じゃあ残った意味あったじゃん」
ルカが言うと、ノーランが頷いた。
「分かってるな」
「その後、風が変わって全部外したけどね」
シエナが言った。
「それは言わなくていい」
ルカがシエナを見る。
「風で変わるの?」
「かなり」
オーウェンが答えた。
「俺の時は朝、水草帯に魚が入ってた。昼前に風が出て、小魚が岬側へ寄り始めた」
「ストライクバスも動いた?」
「ああ」
ルカの視線が端末へ戻る。
島。
湾。
岬。
水草。
沈み木。
そこを、魚が動く。
「全部回れる?」
「無理」
今度は全員がほとんど同時に答えた。
ルカが笑った。
「そんなに?」
「広いっていうより、撃つ場所が多すぎる」
ダリオが言う。
「一つの岸を流すだけでも、次から次に出てくる」
「迷いそう」
「迷う」
オーウェンが言った。
「そこも含めて面白い」
ルカはもう一度募集要項を見る。
「で、みんな何匹だった?」
「俺は二十一」
ノーランが即答する。
「最大六十三」
ギルが付け足した。
「六十三って大きい?」
「十分でかい。六十を超えれば、そう何本も出るサイズじゃない」
ルカがオーウェンを見る。
「オーウェンは?」
「十八。最大七十六」
ルカの視線が止まった。
「七十六……」
「その辺までいくと、かなり違う」
「ギルは?」
「十。最大七十二」
ノーランが顔をしかめた。
「お前ら数も見ろよ」
シエナが笑う。
「私は十二。最大六十八」
「ノーラン、数は一番じゃん」
「最初からそう言ってる」
笑い声が広がった。
ダリオが荷札をまとめながら、ぽつりと言った。
「まあ、あれ知ったら、その数字も霞むけどな」
ノーランが一瞬黙った。
「それは言うな」
オーウェンも何も言わない。
ルカが顔を上げる。
「何?」
「行けば分かる」
「気になるんだけど」
「なら行ってこい」
誰も続きを言わなかった。
ルカは少しだけその話が気になった。
けれど、画面を戻すと、別のところで指が止まる。
ストライクバス。
一種類の魚を、何匹も捕る。
同じ魚でも、大きさは違う。
育った場所も違う。
食べてきたものも違うかもしれない。
それが、島や湾や水草帯を使い分けている。
「これってさ」
「はい」
「大きいやつと小さいやつで、いる場所が違ったりする?」
「可能性はあります。ただ、それも実際の記録を見なければ分かりません」
ルカは画面を上まで戻した。
グランドフィッシャーレイク。
ストライクバス定期資源調査。
岬の先。
島の裏。
水草の切れ目。
沈み木の陰。
どこを見ても魚がいそうな湖で、同じ魚を何匹も追う。
募集欄の下に、調査協力者の申請項目がある。
ルカはそこを押した。
「これ、応募できる?」
「できます」
フィンが答えた。
「じゃあ行く」
オーウェンが横から見る。
「雷帝湖から帰って、次がストライクバスか」
「だめ?」
「いや」
オーウェンは申請画面を見る。
「そういうのも探釣師だ」
ルカは自分の情報を入力していく。
ついさっきまでいたのは、海を越えたノルディアの極境。
次に向かうのは、同じアルヴェリア大陸にある有名な大湖。
遠さも、危険度も違う。
けれど、そこにいる魚を知りたいことは変わらない。
最後に、もう一度だけ調査名を見る。
グランドフィッシャーレイク。
同じ魚を、何匹も追う。
「何匹いるんだろ」
ルカはそのまま申請を送った。




