第30話 雷角魚
翌日の午後。
雷帝湖に、また雷雨が来た。
雷鳴が山の向こうへ離れていく。
観測所では、誰も急がなかった。
シエナが気象情報と周辺の落雷状況を確認する。
ナディアは湖水の状態を見る。
フィンは過去二回の記録を開いていた。
「時間帯に入ります」
フィンが言った。
オーウェンが立つ。
「行くぞ」
◇
湖へ出ると、魚はすでに動き始めていた。
フラッシュシャイナーの群れが水面近くを走る。
その下を別の魚影が横切った。
遠くで一度、水面が割れる。
だがルカはロッドを持たなかった。
「まだ投げないのか?」
ギルが聞く。
「まだ違う」
ルカはフラッシュシャイナーを見ていた。
サイラスも同じ方向を見る。
「何を待ってる」
「でかいのが上がってくるまで」
ジョナスがソナーを追う。
中型。
大型。
いくつも反応が入る。
だが、これまで見てきたあの太い反応はない。
ギルの足元には、大型ネットと保持具がすでに準備されていた。
ダリオが固定具と補助ロープを確認する。
「こっちはいつでもいける」
ルカは群れから目を離さない。
突然。
フラッシュシャイナーが崩れた。
一斉に散る。
大型魚が下を通った。
群れはすぐ戻る。
「ストームトラウトか」
サイラスが言う。
ルカは首を振った。
「今の逃げ方、覚えとく」
もう一度。
別の方向から捕食魚が入る。
銀色の群れが横へ逃げる。
外へ出た数匹が一気に加速した。
すぐ群れへ戻る。
ルカは黙って見ていた。
「ジョナス」
「まだだ」
時間が進む。
フィンが記録する。
ナディアが水面を見る。
「前回と近い状態には入ってる」
その時。
ジョナスの声が変わった。
「来た」
深部。
太い反応。
ゆっくり上がってくる。
ルカがロッドを取った。
「方向は?」
「正面より少し右」
ノーランが岸を見る。
「ここなら動ける」
オーウェンが言う。
「無理に追わない。入る範囲でやれ」
「分かった」
巨大反応が中層へ入る。
その上。
フラッシュシャイナーの群れが動いた。
水面下を大きな影が通る。
ルカが息を止めた。
頭の前。
二本の影。
「いる」
フィンが記録機材を向ける。
ルカはルアーを結んだ。
フラッシュシャイナーに近い大きさ。
銀色。
サイラスが見る。
「どう通す?」
「まず普通に」
ルカが投げた。
一投目。
群れの外側へ入れる。
巻く。
ルアーが群れから離れる。
巨大な影が一度向いた。
だが追わない。
そのまま沈んだ。
「見た?」
「見てた」
ルカが回収する。
二投目。
今度は少し深く通す。
捕食魚が入っている層。
ルアーを速く引く。
巨大反応が近づいた。
「後ろ!」
ジョナスが叫ぶ。
ルカが巻く。
大きな影がつく。
あと少し。
だが。
魚は急に向きを変えた。
「離れた!」
ルカは止めた。
追わない。
ルアーを回収する。
サイラスが湖を見る。
「速さじゃないな」
「うん」
ルカは答えた。
だが、すぐには投げなかった。
フラッシュシャイナーを見る。
また捕食魚が入る。
群れが割れた。
一匹が外へ飛び出す。
短く加速。
止まる。
急に角度を変える。
もう一度だけ走る。
別の一匹も同じだった。
一直線には逃げない。
短く走る。
止まる。
方向を変える。
その瞬間だけ、追っていた魚がわずかに遅れる。
ルカの目が細くなる。
「……これか」
ルカは逃げる小魚の群れを見た。
「ずっと全速じゃない。切り返す場所が同じだ」
フィンも群れの動線を追う。
ルカはロッドを握り直した。
「ずっと速くない」
ルアーを見る。
「走って、止まって、ずらす」
サイラスは何も言わず湖を見た。
ジョナスが反応を追う。
「まだいる。少し下」
ルカが構えた。
三投目。
フラッシュシャイナーの群れより少し先へ落とす。
巻く。
短く速く。
止める。
ルアーが沈みかける。
横へ鋭く動かす。
もう一度だけ走らせる。
水面下の影が向いた。
「来る!」
ルカは動きを変えない。
短く走る。
止まる。
ずらす。
次の瞬間。
湖面が爆発した。
ドンッ。
ロッドが根元から曲がった。
「来た!」
ラインが一気に沖へ走る。
ドラグが鳴り続ける。
「でかっ……!」
ルカが腰を落とす。
「無理に止めるな!」
オーウェンが言う。
魚は沖へ走った。
次に横。
水面近くへ上がる。
巨大な背。
その前方。
二本の太い突起。
今度ははっきり見えた。
「二本!」
フィンが声を上げる。
魚が潜る。
ロッドがさらに絞られる。
「右へ行く!」
ノーランが岸沿いを見る。
「ルカ、三歩下がれる!」
ルカが動く。
ラインが岩へ寄る。
「ダリオ!」
「見えてる!」
ダリオが補助ロープを引き、足元の機材をまとめて導線を空ける。
シエナが周囲へ声を飛ばす。
「後ろ空けて!」
ナディアとジョナスが下がる。
サイラスは魚の進路を見ていた。
「次、沖へ返す」
魚が反転する。
ルカがロッドを横へ倒した。
「今!」
サイラスの声と同時に、魚が岩から離れた。
ラインが沖へ出る。
「抜けた!」
ルカが巻く。
魚は止まらない。
長い。
太い。
水中で向きを変えるたび、二本の突起が見える。
ギルが大型ネットを取った。
魚が岸際まで来る。
次の瞬間。
強く尾を振り、また沖へ走った。
「うわっ!」
ルカの腕が伸ばされる。
「持ってかれるな!」
オーウェンが横に入る。
ルカは足を踏み直す。
止めない。
走らせる。
止まったところで巻く。
少しずつ距離を詰める。
魚の動きが変わった。
大きく走らなくなる。
「ギル」
「分かってる」
ギルが大型ネットを水へ入れた。
魚体全部を入れるためではない。
頭部の向きを取り、岸際で暴れさせないためだ。
一度。
魚が頭を振って外れる。
「まだ!」
ギルは追わない。
ルカが魚を回す。
サイラスが反対側を見る。
「次、左から入る」
ルカがロッドを倒す。
魚が向きを変えた。
「今!」
ギルがネットで頭部を取る。
「ダリオ!」
「保持具入れる!」
ダリオが準備していた大型魚用の保持具を水へ送る。
ギルが魚体の向きを安定させる。
オーウェンとサイラスが補助へ入った。
保持具が胴を支える。
「入った!」
魚体を水中に残したまま、頭部と胴を安定させた。
ルカはようやく力を抜いた。
腕が震えていた。
◇
魚は水中で保持された。
全身が見える。
暗い青灰色の背。
淡い腹。
細かな鱗。
太い尾。
そして頭部から前へ伸びる、二本の厚い突起。
ルカはしゃがみ込んだ。
「これ……」
フィンが記録機材を構える。
ナディアとエヴァンも近づく。
「生体確認」
フィンの声が少しだけ強くなった。
「頭部に二本の角状突起」
ギルが魚体を支える。
「計るぞ」
計測具を当てる。
フィンが数値を見る。
一瞬、黙った。
「二・八メートル」
ルカは頭部から尾まで視線を走らせた。
エヴァンは二本の突起を観察する。
「これが何のためにあるかは、まだ分からないな」
ナディアが言う。
「水圧や振動、流れを感じる器官の可能性はある。でも今は仮説」
「電気?」
ルカが聞く。
「それも証拠はない」
サイラスが魚を見る。
「分からないものは残しておけ」
フィンが記録へ入力する。
過去の報告。
今回の生体確認。
二本の角状突起。
二・八メートル。
捕獲地点。
時刻。
雷雨との時間関係。
一つずつ記録になっていく。
「名前は?」
ルカが聞いた。
エヴァンが答えた。
「古い観測記録に、呼び名だけ残っている」
「何て?」
「サンダーホーン」
ルカが魚を見る。
「正式な名前じゃなかった?」
「生体確認がなかったからな」
フィンも記録を確認する。
しばらく魚体を見てから、入力した。
「生体確認名――雷角魚」
その横へ通称が入る。
雷角魚〈サンダーホーン〉。
ルカがもう一度魚を見る。
「サンダーホーン」
魚が尾を動かす。
ギルが言った。
「戻すぞ」
全員が位置につく。
保持を緩める。
まだ動かない。
ギルが魚体を支えたまま待つ。
尾が一度動く。
もう一度。
力が戻る。
「離す」
手が離れた。
雷角魚〈サンダーホーン〉はゆっくり前へ進んだ。
次の瞬間。
大きな尾が水を押した。
暗い魚体が沖へ向かう。
深く。
さらに深く。
やがて見えなくなった。
ルカはしばらく水面を見ていた。
「結局、普段どこにいるかは分かんなかったな」
フィンが答える。
「分かったこともあります」
「何?」
「上がってくる可能性が高い時間です」
ルカは湖を見る。
青白いモヤは、もう薄くなっていた。
その向こうで、フラッシュシャイナーが銀色に光る。
雷雨のあとに動き始める、雷帝湖の食物連鎖。
その中で、深い場所にいた巨大魚まで上がってくる時間がある。
全部が分かったわけではない。
それでも、見えなかったものが一つ見えた。
オーウェンが荷物をまとめ始める。
「戻るぞ」
ルカが立ち上がる。
「次は?」
オーウェンが振り返った。
「帰ってから考えろ」
ルカは湖へ向き直った。
水面には、もう二本の角は見えなかった。




