第26話 雨のあと
雨が細くなっても、誰も外へ出なかった。
雷鳴はもう遠い。
窓の向こうには対岸の山も戻り始めている。
それでもシエナは端末を見たままだった。
ルカも急かさない。
さっきオーウェンに言われたことは覚えている。
雨が止んだら、ではない。
安全確認が終わったらだ。
しばらくして、シエナが顔を上げた。
「雷検知、基準まで下がりました」
エヴァンも気象情報を確認する。
「後ろの雲も離れてる」
シエナがオーウェンを見る。
「再入域できます」
「行くぞ」
オーウェンが立った。
ルカもすぐに続く。
「まず同じ場所?」
「ああ」
「よし」
雷雨の前と同じ場所を見る。
それだけで、さっきから気になっていた。
◇
観測所を出たルカは、湖岸を見た瞬間に足を止めた。
「……何だ、あれ」
黒い岸の一部だけが白んでいる。
薄い。
低い。
青白いモヤが、水面すれすれを這っていた。
湖全体ではない。
黒い砂礫が水へ入っていく、その周りだけ。
ルカは目を細める。
「こんなのなかったよな」
「ありませんでした」
隣でフィンが記録機材を向ける。
その時。
モヤの下で、水面が小さく揺れた。
一つ。
また一つ。
黒い浅場から細かな気泡が上がってくる。
「泡?」
ルカはその場からシエナを見る。
「ここまで?」
「そこまでで」
「了解」
位置を変えず、しゃがみ込む。
黒い砂礫の隙間から、小さな泡が断続的に離れていく。
水面で消える。
少し離れた場所からも上がる。
青白いモヤはその上に薄く残っていた。
「雷が落ちたの、ここ?」
エヴァンが首を振る。
「そうとは限らない」
「でも、ここだけ変わってる」
「ああ」
「何で?」
「それを調べる」
ナディアが採水器を準備する。
ルカはそれ以上聞かなかった。
水を見る。
雷雨の前にはなかったモヤ。
なかった気泡。
同じ黒い雷脈なのに、数十分前とは景色そのものが違う。
その時だった。
「……あれ?」
ルカの視線が止まる。
黒い帯。
何度も見た場所。
けれど、そこにいるはずの黒い小魚が見つからない。
「フィン」
「見てます」
「マグネイト、いないよな」
フィンは雷雨前の記録と現在の場所を見比べる。
「この範囲には見えません」
「さっきはいた」
「いました」
ルカが黒い帯の先を追う。
「どこ行った?」
少し離れたところで、ジョナスが水中ドローンを入れる。
画面に黒い湖底が映った。
岸際。
いない。
そのまま黒い帯を沖側へ追う。
「いた」
ジョナスが言った。
画面の端。
数匹のマグネイトが黒い礫の上を動いている。
ルカが覗き込む。
「そっちにはいるのか」
「もっと先も見る」
機体が進む。
また数匹。
魚そのものが消えたわけではない。
ただ、雷雨前にいた場所から離れている。
ルカは画面と岸際を交互に見る。
「場所が変わった」
フィンが答える。
「少なくとも、この地点ではそう見えます」
ナディアが採った水を容器へ移す。
端末へ数値を入れたところで手を止めた。
サイラスが気づく。
「違う?」
「雷雨前との差があります」
「どれくらい」
「まだまとめます」
サイラスは頷くだけだった。
ルカはナディアではなく、また魚を見る。
青白いモヤ。
気泡。
岸際から離れたマグネイト。
「全部、同じ場所で起きてる」
フィンが言う。
「だから記録します」
「答えはまだ?」
「まだです」
「いいね」
「何がです?」
ルカは黒い水面を見る。
「分かんない方が見るもの多い」
フィンが少しだけ笑った。
「そうですね」
◇
別の基準点では、景色が違った。
青白いモヤはない。
気泡も見えない。
黒い雷脈の上には、マグネイトがいる。
ルカはすぐに気づいた。
「こっちはいる」
フィンが雷雨前の記録と照合する。
「大きな位置の変化はなさそうです」
「同じ雷脈なのに?」
エヴァンが答える。
「全部が同じように変わるわけじゃない」
ルカは最初の地点がある方角を見る。
雷がどこへ落ちたか。
それだけではない。
同じ湖の中でも、変わった場所と、ほとんど変わっていない場所がある。
「雷の跡じゃなくて、湖の中で何が変わったかを見るんだ」
「そうだ」
ルカが口元を上げた。
「面白くなってきた」
その時。
沖で銀色が光った。
一匹ではない。
続けて何十もの光が返る。
「フラッシュ・シャイナー」
フィンがすぐ機材を向ける。
沖から群れが入ってくる。
その横にもいる。
さらに遠くにも銀色が走った。
ルカの目が大きくなる。
「多くない?」
「雷雨前より、この場所に集まっています」
銀色の群れが重なる。
離れる。
また寄る。
水面の下で大きな光の帯が形を変えていく。
ルカは右を見る。
また別の群れ。
左にもいる。
「みんな、ここに来てる」
だが、理由は見えない。
水面に何かが浮いているわけでもない。
巨大魚が追っているわけでもない。
ただ、雷雨前には散っていた群れが、一つの一帯へ寄り始めている。
ジョナスが水中ドローンを外側へ回す。
ナディアもその地点の水を採る。
フィンは群れを追う。
ルカは何も聞かなかった。
今は、見る。
銀色が重なる。
また増える。
その瞬間。
群れの一角が大きく割れた。
ルカの表情が変わる。
水面に何も出ない。
数秒後、割れた群れがまた戻り始める。
「今の……」
「記録しました」
フィンが答える。
さらに沖。
別の群れが急に向きを変えた。
今度は一つではない。
少し遅れて、隣の群れも動く。
銀色の帯が、湖の上を次々に組み替えていく。
ルカはその光景を黙って見ていた。
雷はもう遠い。
雨もほとんど止んでいる。
それなのに、雷帝湖は雷雨の前へ戻っていなかった。
空ではなく。
今度は湖の中が動き始めていた。




