第25話 雷雨
山の向こうが白く光った。
少し遅れて、低い雷鳴が湖面を渡ってくる。
シエナが端末を見る。
「警戒域、近づいてます」
オーウェンはすぐに言った。
「終わりだ。戻るぞ」
誰も続きを取りにいかなかった。
ナディアが採水器を上げ、容器を閉じる。
「採水終了」
ジョナスは水中ドローンを岸へ戻し始めた。
「あと少し」
ダリオが電源ケースの横へしゃがむ。
「上がったら切る」
「了解」
フィンも湖へ向けていた記録機材を下ろした。
ルカは沖を見る。
フラッシュ・シャイナーが銀色の群れを作っている。
黒い雷脈にはマグネイトもいる。
さっきまでと変わらない。
変わっているのは空だった。
湖を囲む山の向こうから、灰色の雲が急速に広がってくる。
水面を走る風も強くなっていた。
「来ました!」
ジョナスが水中ドローンを引き上げる。
ダリオが受け取る。
「切るぞ」
電源が落ちる。
機体が防水ケースへ収まった。
「全員、水際離れて」
シエナの声が飛ぶ。
ナディアが試料をまとめ、サイラスが観測機材を確認する。
フィンは記録機材をしまう。
ルカも手近なケースを持ち上げた。
「これ運ぶ」
「お願いします」
フィンが答える。
オーウェンが全員を見る。
「戻るぞ」
全員で、観測所へ続く道を戻り始めた。
◇
最初の雨粒が落ちてきた。
一粒だけだった。
黒い岩へ丸い跡を残す。
すぐ隣にも落ちた。
その次は、数えられなかった。
雨音が一気に広がった。
「速いな」
ルカが言う。
前を行くエヴァンが振り向かずに答える。
「だから早めに切る」
風が湖面を押している。
灰青色だった水が暗くなり、細かな波が次々と岸へ寄せてきた。
また光った。
今度は近い。
雷鳴が腹に響く。
ルカは反射的に湖を見た。
「ルカ、前」
シエナだった。
「分かった」
すぐ視線を戻す。
足元の黒い岩が濡れ始めている。
急がなければならない。
けれど走らない。
前を進むノーランの動きに合わせて、全員が一定の速度で戻っていく。
さらに一度、空が光った。
雨脚が強くなる。
ジョナスの端末が鳴った。
「東側の固定機、通信落ちました」
エヴァンが聞く。
「完全に?」
「応答なしです」
「そのままでいい」
ジョナスは一度だけ画面を見た。
「了解」
戻ろうとする者はいない。
ルカも、東側がどこだったか思い出しただけで足を止めなかった。
機材より先に、人が戻る。
それはもう説明されることではなかった。
◇
観測所へ入る。
最後の一人が入ったところで、シエナが人数を確認した。
全員いる。
外ではもう、雨が湖を隠し始めていた。
対岸は見えない。
黒い水面だけが、窓の向こうで大きく揺れている。
ルカは少し離れたところから外を見る。
雷光。
一瞬だけ湖全体が白く浮かび上がる。
暗くなる。
また光る。
「すげえ……」
声が漏れた。
七大極境だからでもない。
珍しい魚がいるからでもない。
ただ雷帝湖そのものが、さっきまでとは別の場所に見えた。
轟音が観測所まで響く。
フィンが窓の方を見る。
「さっきまで普通に観測してた場所ですよね」
「そうなんだよな」
ルカは答えた。
数十分前まで、自分たちはあそこにいた。
マグネイトを見ていた。
フラッシュ・シャイナーを見ていた。
今は誰も水際へ近づけない。
オーウェンが壁際で腕を組んでいる。
「これ、どれくらい続く?」
ルカが聞いた。
エヴァンは気象表示を確認する。
「抜けるまで待つ」
「時間じゃなくて?」
「時間で決める湖じゃない」
「そっか」
ルカは窓へ戻る。
待つしかない。
でも、退屈ではなかった。
雷が落ちる場所。
風が水面を走る場所。
さっきまで見えていた雷脈も、今は黒い水の下だった。
白い閃光が湖を照らす。
その直後。
ルカの視線が止まった。
「……今の」
「何です?」
フィンが窓へ寄る。
「沖」
もう一度、雷が光る。
何も見えない。
雨だけ。
波だけ。
「何かいた」
「魚ですか?」
「分かんない」
ルカは窓から離れない。
さらに雷光。
一瞬だけ、水面の下に黒いものが見えた。
細長くない。
フラッシュ・シャイナーでもない。
マグネイトとは大きさが違う。
大きな影が、湖の中を横切った。
「いた」
今度はフィンも見た。
「……大きいですね」
ジョナスが固定カメラの映像を呼び出す。
雨で乱れている。
ノイズ。
水滴。
白い雷光。
その間に、一度だけ黒い影が入った。
ルカが画面へ近づく。
「止めて」
ジョナスが戻す。
一コマ。
次。
黒い影。
魚体全体は映っていない。
形も分からない。
ただ、これまで見た魚より明らかに大きい。
「これ、さっき沖で水面動かしたやつ?」
誰も答えなかった。
もう一度雷が落ちる。
観測所の窓が震えた。
画面の影は、その一瞬だけだった。
ルカは再び湖を見る。
雨の向こう。
雷帝湖の奥。
黒い水のどこかに、まだ見えていない魚がいる。




