第20話 動き出す極境
遠征統括局を出たルカは、本部の廊下を歩いていた。
さっきより人の流れが増えている。
地図を抱えた職員。端末を見ながら足早に進む者。機材ケースを運ぶ者。
ルカはその間を抜けながら、出口へ向かっていた。
「あ」
前から歩いてきた少女が足を止めた。
ルカも気づく。
「あ、あの時の」
月影湿地〈ムーンシェイド〉で会った少女、リゼ・ラテラル。
若くして一鱗章を授かった探釣師だ。
その胸元には、一枚の鱗章が留められている。
「また会ったね」
「こんなところで何してるの?」
「付き添い」
「付き添い?」
その隣にいた女性が振り返った。
「リゼ」
「はい、先生」
リゼはすぐに返事をした。
「行きます」
女性はルカへ一度だけ視線を向け、そのまま歩き出す。
リゼもその後を追った。
数歩進んでから、こちらを見る。
「じゃあ、また」
「また」
少し先で待っていた職員が、女性へ頭を下げた。
「クラリス局長、会議室はこちらです」
ルカは二人の背中を見送った。
「先生で、局長か」
それ以上は追わず、そのまま出口へ向かった。
◇
国際探釣機構本部、中央会議室。
長い会議卓の向こうに、巨大な世界地図が映し出されていた。
西のアルヴェリア。
北のノルディア。
東のシェンラ。
南のヴァルガ。
その間の海には、セレスティア諸島が点在している。
地図の上には、七つの印が離れて浮かんでいた。
一つの地域に集まってはいない。
海を隔て、山脈を越え、気候も地形も違う場所に散っている。
会議卓の最奥に、一人の男が座っていた。
アレク・ヴァンデル。
国際探釣機構総裁。
そして、探釣史上わずか五人にしか授与されていない三鱗章。その現役保持者の一人だった。
三鱗章は、優れた探釣師ならいつか届くというものではない。
長年の探釣実績だけでも足りない。
記録、技術、保全、そして探釣界そのものへ残した功績。
それらを積み重ねた者の中でも、ごくわずかな者だけに授けられてきた章だった。
その三鱗章を持つ人物が、この部屋には他にも二人いる。
国際探釣機構・特別記録監、エレノア・グレイ。
国際探釣機構・特別技術監、ガレス・ホルト。
エレノアは記録と地図。
ガレスは大型魚の捕獲、ランディング、生体保持。
二人とも局長ではない。
だが重大案件では、各局の判断だけで進めず、この二人の専門判断を求めることがある。
そのほかの席には五局の責任者たちがついていた。
探釣事務局長、リディア・クロウ。
生態記録局長、サミール・ナディーム。
環境保全局長、クラリス・アルディア。
遠征統括局長、ロベルト・ケイン。
技術支援局長、テオ・バレット。
最後に入ってきたロベルトが席についた。
アレクが全員を見る。
「始めよう」
世界地図の北側が拡大された。
ノルディア大陸。
その南部に広がるグラント高原の中央で、一つの湖が大きくなる。
雷帝湖〈サンダー・クレーター〉。
「ロベルト」
「はい」
ロベルトが資料を開く。
「現地側との調整は進んでいます。入域条件にも大きな変更はありません。オーウェン隊には打診済み。ヴェイル釣査隊にも照会を入れています」
「返答は?」
リディアが聞く。
「オーウェンは前向きです。ヴェイルは人員調整中」
テオが端末を操作した。
「通信中継は二系統で組めます。気象観測設備も追加可能です。ただし雷雨が強まった場合、固定設備の一部は現地放棄を前提にした方がいいでしょう」
「回収を優先して人を残すな」
アレクが言った。
「承知しています」
その隣で、ガレスが湖岸図を見ていた。
「大型個体を生体で扱う可能性は?」
「あります」
ロベルトが答える。
「なら保持計画を先に作れ」
ガレスが地形図を指でなぞった。
「掛けてから考えるな。上げる場所、保持する場所、計測する場所、戻す場所まで決めてから釣れ」
テオが資料へ書き込む。
「技術支援局で案を組みます。完成したら確認をお願いします」
「ああ」
アレクがロベルトを見る。
「人員は?」
「追加候補を絞っています」
一覧が表示される。
複数の探釣師、専門家、記録員。
その中に、ルカ・スケイルの名前もあった。
「ルカ・スケイル」
リディアが名前を読む。
「確認は済んでるの?」
「はい。今日、本人を見ました」
「問題は?」
「現時点ではありません」
アレクは一覧を一度見ただけだった。
「候補のままで進めろ」
「承知しました」
表示が世界地図へ戻った。
次の印は、海を越えた東。
シェンラ大陸西部へ画面が寄っていく。
無数の岩峰が連なる山岳帯。
その奥を、白い落水が縦に走っていた。
天龍瀑〈ドラゴン・フォールズ〉。
「サミール」
「はい」
サミールが資料を開く。
「フロンティア釣査隊は上部経路の確認を継続中です。現地研究機関からも最新の観測記録が届いています」
「リン博士からは?」
「〈帰龍〉にはまだ早いとのことです」
壁面に水位と水温の推移が表示された。
リン・シャオロン博士。
天龍瀑の現地研究機関を率いる所長であり、長年この水系と瀑龍鯉の動きを追ってきた研究者だった。
「今年は?」
「まだ読めないそうです。少なくとも、もうしばらく水位と魚群の動きを見るべきだと」
「フロンティアは?」
「経路確認だけ続けます」
アレクが頷く。
「なら待とう」
「はい」
画面が再び大きく引いた。
今度は大陸から離れ、中央海域へ移る。
点在する島々の中から、アステル島が拡大された。
地表ではなく、その下。
岩盤の奥に巨大な暗い水域が広がる。
星海地底湖〈コズミック・アビス〉。
「ノックスは?」
「深部調査を継続中です」
サミールが答える。
「少人数での調査範囲は広がっています。《無星域》周辺の記録も増えていますが、通信可能域は依然として狭い」
テオが補足した。
「中継器を増やせる地点はあります。ただし、人数を増やせば安全性が上がる水域ではありません」
「ミラには?」
「連絡済みです」
「返事は?」
「ありません」
一瞬だけ間が空く。
ロベルトが資料を見たまま言った。
「今回もですか」
「今回もです」
サミールが答える。
アレクは特に驚かなかった。
「ノックスの調査を継続。ミラへの連絡も切るな」
「承知しました」
再び海を越え、画面はシェンラ大陸へ戻った。
だが今度は天龍山系ではない。
大陸の南東部。
霧に覆われた巨大な森林と、その内部を走る複雑な水路が映る。
霧鳴樹海〈ミスト・ハウル〉。
「現在の経路記録です」
サミールが複数の地図を表示した。
「過去分も含めれば、進入記録そのものはかなりあります」
「かなり、ね」
エレノアが初めて口を開いた。
視線が集まる。
彼女は二枚の地図を重ねた。
「同じ区間を通った記録なのに、合ってない」
テオが画面を見る。
「測位誤差では?」
「それならまだいい」
さらに一枚重ねる。
三本の経路が、途中から明らかにずれていた。
「出発点は同じ。通過時刻も近い。でも水路の形が違う」
サミールが眉を寄せる。
「記録自体は?」
「全部残す」
エレノアは即答した。
「間違ってると決める材料もないから」
アレクが彼女を見る。
「エレノアはどう見る?」
「大人数を入れるには早い」
「理由は?」
「地図が地図として使えるところまで来てない」
エレノアは表示された空白部分を指した。
「記録が多いことと、分かってることは同じじゃない」
アレクが頷く。
「少人数での経路確認を継続」
「それがいい」
世界地図が南へ滑った。
ヴァルガ大陸中央部。
巨大な低地一帯へ無数の水路が広がる。
湖、川、湿原、氾濫原。
太古大湿原〈ロスト・デルージュ〉。
「ここは三局から」
まずロベルトが資料を開く。
「大規模合同遠征で組みます。単独の釣査隊では範囲を持てません」
リディアが続けた。
「参加候補の釣査隊を選定中です。現時点では七隊。地域側との調整もあるので、ここから絞ります」
「時期は?」
サミールが答える。
「雨季待ちです」
水位記録が表示される。
「乾季の今入っても、《太古奔流》には届きません。雨季に入って水路、湖沼、氾濫原の再接続が始まってから、生態系全体の動きが大きく変わります」
「遠征団は先に組めるか?」
「候補編成までは進められます」
「リディア」
「各隊との調整を進めます」
「サミール」
「雨季入りの観測を継続します」
「進めてくれ」
「はい」
画面は同じヴァルガ大陸の中を移動した。
中央低地から離れ、北東部へ。
一つの巨大河川が何本もの支流を集めながら大陸を横切っている。
太古大湿原とは別の水系だった。
万牙大河〈ビースト・アリーナ〉。
「タイタンは?」
「照会済みです」
ロベルトが答える。
「ダンテ・ロッソから返答待ちです」
ガレスが過去の捕獲記録をめくった。
「ここは分散させろ」
「理由は?」
「一か所に人と魚を集めすぎるな」
ガレスは河川図を指した。
「大型肉食魚が多すぎる。掛けた魚に別の大型魚が寄る可能性もある」
テオが別の記録を表示する。
「技術側でも同じ見立てです。複数地点に分けた方が、通信も回収も組みやすい」
ガレスが頷いた。
「掛けるのは難しくないかもしれない」
少し間を置く。
「問題は、掛けた後だ」
ロベルトが資料へ記録する。
「分散調査案で詰めます」
「そうしてくれ」
最後に、画面がヴァルガを離れた。
中央海域。
先ほどのアステル島とは別の方向へ移り、小さな島が拡大される。
エルネア島。
透明な水。
その岸辺から浅瀬まで、白く透き通った晶花が咲き広がっている。
陽光を受けた花々が水面に映り、まるで楽園のような景色が広がっていた。
天晶花園〈ヘヴンズ・ブルーム〉。
「クラリス」
「はい」
クラリス・アルディアが資料を開いた。
「現状では、本格調査への移行は認められません」
迷いのない声だった。
「理由を」
「人です」
クラリスは入域想定図を表示した。
「魚より先に、私たちが水域へ与える影響を見る必要があります」
晶花群落や水路、接近可能区域、避けるべき場所が地図上へ重なった。
「人数が増えれば移動経路も増えます。採取も捕獲もしなくても、踏圧、水の濁り、岸際の崩れだけで環境を変える可能性があります」
「条件を絞れば?」
「まだ足りません」
「なら?」
「入れません」
アレクは少しだけ間を置いた。
「分かった。保全審査を優先する」
「ありがとうございます」
表示が引いていく。
エルネア島が小さくなり、セレスティア諸島が現れ、その外側に四つの大陸が戻ってきた。
七つの印が、もう一度世界地図の上に並ぶ。
北の高原。
東の山岳と樹海。
中央海域の二つの島。
南の湿原と大河。
同じ七大極境でも、場所も、環境も、動かせる条件も違っていた。
アレクは世界地図を見た。
「天龍瀑は時期を待つ。星海は現行調査を継続。ミストは経路確認を優先。太古は遠征団の編成を進める。万牙はタイタンの返答を待ちながら分散案を詰める。天晶花園は保全条件が先だ」
誰も口を挟まない。
七つの印のうち、一つだけが大きくなる。
北方、ノルディア大陸。
雷帝湖〈サンダー・クレーター〉。
「雷帝湖は、次の段階へ進める」
「承知しました」
ロベルトが答える。
「ただし、急ぐ必要はない」
「はい」
アレクは湖の地図を見る。
「動ける条件が揃った。だから動く。それだけだ」
会議は一区切りついた。
それぞれが資料を閉じていく。
ロベルトの端末には、雷帝湖の編成人員候補が残っていた。
オーウェン隊。
ヴェイル釣査隊。
各分野の専門家。
追加候補。
その中に、ルカ・スケイルの名前もある。




