第19話 候補
月影湿地〈ムーンシェイド〉から戻って三日後。
ルカの端末に、国際探釣機構から通知が届いた。
『翌日 午前十時
国際探釣機構本部・遠征統括局
第三面談室へお越しください』
その下に、本部内の案内図が添付されている。
「遠征統括局か」
雷帝湖で調査計画が動いていることは聞いている。
けれど、それと自分が呼ばれたことが繋がっているかは分からなかった。
「まあ、行けば分かるか」
◇
翌朝、ルカはブルーリーチを出た。
湖の多い地元を離れ、高速鉄道で数時間。
車窓の向こうから水辺が減り、建物の密度が上がっていく。
レグナードへ入る頃には、景色はすっかり変わっていた。
高架線がいくつも交差し、その間を列車が行き来している。遠くには航空機が低く進み、駅の案内表示にはルカの知らない都市名がいくつも並んでいた。
国際探釣機構本部がある街。
ブルーリーチとは、同じ大陸の街とは思えない。
駅を出て、本部へ向かう。
◇
国際探釣機構本部は、ルカが想像していたより騒がしかった。
大きなケースを二人がかりで運ぶ職員。
濡れたままの防水バッグを抱えた探釣師。
壁際では技術支援局の職員たちが、分解された通信機器を囲んでいた。
大型表示には世界地図が開かれている。
アルヴェリアの外にも、いくつもの観測点や遠征記録が散っていた。
ルカは歩きながら、少しだけ足を緩めた。
知っている水域の名前もある。
知らない場所は、それ以上に多い。
その中には、海を隔てた別大陸の記録もあった。
「……こんなにあるんだ」
受付で用件を伝えると、遠征統括局の区画まで案内された。
廊下の雰囲気も少し違う。
壁には魚の写真より、地図が多かった。
等高線や河川、湖岸に、避難地点や通信中継地点、医療搬送経路まで書き込まれている。
水域へ入るためだけの図ではない。
戻ってくるための図でもあった。
「ルカ・スケイルさん」
案内していた職員が足を止めた。
「こちらです」
扉が開く。
中には男が一人いた。
机いっぱいに資料を広げている。
四十代後半くらいだろうか。
短く整えた髪。
派手さはない。
けれど、机の横に掛けられた上着には、一枚の鱗章が留められていた。
「入れ」
ルカが中へ入ると、職員が扉を閉めた。
男は手元の資料から目を上げる。
「ルカ・スケイル」
確認するというより、名前を読むような声だった。
「座れ」
ルカは椅子へ腰を下ろした。
机の端に置かれた名札を見る。
ロベルト・ケイン。
国際探釣機構・遠征統括局長。
一鱗章。
ルカは名札と男の顔を見比べた。
「あのロベルト・ケイン?」
男の眉がわずかに動いた。
「どのロベルトだ」
「昔、極境とか高所の遠征に出てた」
「昔の話だ」
「やっぱり」
「それを聞きに来たのか?」
「違うでしょ」
「なら本題に入る」
ロベルトは一枚の記録を机の中央へ置いた。
「オーウェン・ハートがお前の名前を挙げた」
ルカは瞬きをした。
「オーウェンが?」
「ああ」
「何に?」
「まだ何にも」
「……何にも?」
「雷帝湖に連れていけとも、どこかの隊に入れろとも言われてない」
ロベルトはもう一枚、資料を重ねる。
「今後、遠征統括局が組む案件で使える候補の一人として、一度見ておけと言われた」
ルカは机の上を見る。
石柱湖。
砕岩大峡谷。
それ以前に生態記録局へ提出された記録も並んでいた。
「ずいぶんあるな」
「お前が出した記録だろ」
「全部見るの?」
「必要なら」
ロベルトが背もたれへ体を預けた。
「先に言っておく。今日は試験じゃない」
「じゃあ何?」
「確認だ」
「何の?」
「お前の名前を、今後の遠征計画に載せていいか」
ルカは少しだけ姿勢を直した。
「遠征って、極境も?」
「極境だけじゃない」
ロベルトは即座に答えた。
「大人数を動かす案件。長期間になる案件。撤退が難しい水域。医療や通信を別に組まなきゃ成立しない場所。そういう現場全部だ」
「なるほど」
「だから、魚が釣れるかだけは見ない」
ロベルトが一枚の記録を指で叩く。
「例えば」
視線がルカへ向いた。
「お前より、その魚を釣るのが上手い奴がいる」
「それで?」
「どうする」
「そいつに任せる」
答えると、ロベルトが少しだけ間を置いた。
「迷わないな」
「その方がいいなら」
「自分で釣りたくないのか?」
「釣りたいよ」
「なら?」
「でも、俺がやるよりそいつがやった方が魚をちゃんと捕れるなら、そっちの方がいいでしょ」
「それで納得できる?」
「近くで見れるなら」
ロベルトが初めて、ほんの少しだけ笑った。
「なるほど」
次の資料へ手を伸ばす。
「じゃあもう一つ」
「まだあるんだ」
「まだ見たことのない魚が目の前にいる」
ルカの目が少し上がった。
「隊長が撤退を決めた」
ロベルトは続ける。
「どうする?」
ルカはすぐには答えなかった。
机の端に置かれた地図を見る。
知らない水域ばかりだ。
そのどこかに、見たことのない魚がいる。
「……見たい」
「聞いてるのは感想じゃない」
「分かってる」
ルカはロベルトを見る。
「戻る」
「魚がそこにいても?」
「戻る」
「本当に?」
「……たぶん、何回か振り返るけど」
ロベルトが黙った。
「でも戻るよ」
「どうして」
「次に行けなくなるから」
ロベルトの視線が止まった。
ルカは続ける。
「そこで無理して終わったら、もう他の魚に会えないでしょ」
数秒して、ロベルトが資料を閉じた。
「それならいい」
「そっか」
「見たくない奴を遠征に入れても意味がない」
ロベルトは机の上に肘を置く。
「魚を見たい。先へ行きたい。確かめたい。そういう奴じゃなきゃ、そもそも遠征なんか続かない」
少し間を置く。
「問題は、それを止められるかだ」
ルカは小さく頷いた。
「分かった」
「もう一つ」
「まだあるんだ」
「雷帝湖の調査が動いてることは知ってるな?」
「聞いてる」
「動いてるのは雷帝湖だけじゃない」
ルカの視線が上がった。
「他の極境も?」
「ああ。今、いくつかの調査が並行して動いてる」
「じゃあ、次はどこ?」
「まだ決まってない」
「じゃあ、どうやって決めるの?」
「決めるというより――」
ロベルトは机の上の資料へ目を落とした。
「準備が整ったところから動く」
ロベルトは指を折る。
「現地の許可。季節。水位。天候。人員。輸送。通信。医療。保全条件。調査目的」
最後に手を下ろした。
「全部が同時に揃うことなんて、ほとんどない」
「待つ場所もある。先に進める場所もある。途中で止める場所もある」
ルカは少し考えた。
「じゃあ、先に動く場所はその時で変わるんだ」
「そういうことだ」
ロベルトは資料を一枚閉じた。
「水域には、水域の都合がある」
ルカは少し笑った。
「そりゃそうか。こっちの都合だけじゃ決められないもんな」
ロベルトは椅子から立った。
「今日は終わりだ」
「で、どうだった?」
「何が」
「俺」
ロベルトはルカを見る。
「候補には残す」
「何の?」
「今後、遠征統括局が組む案件だ」
「全部呼ばれるってこと?」
「違う。名前を挙げてもいいってだけだ」
「なるほど」
「案件ごとに必要な奴は変わる。お前が合わなければ呼ばない」
「分かった」
「呼ばれたとしても、行けるとは限らない」
「それでもいいよ」
即答だった。
「呼ばれなかったら、自分で魚探すし」
ロベルトが短く息を吐いた。
「オーウェンが名前を出した理由は、少し分かった」
「何て言ってた?」
「本人に聞け」
「教えてくれてもいいじゃん」
「帰れ」
ルカが少し笑った。
「分かった」
扉へ向かう。
手を掛けたところで、背後から声がした。
「ルカ」
「ん?」
「遠征に呼ばれるのを待つな」
ルカが振り返る。
ロベルトはもう次の資料を開いていた。
「それだけだ」
ルカは一度だけ頷いた。
「じゃあ、また」
扉を閉める。
廊下へ出ると、さっきまでより人の流れが増えていた。
地図を抱えた職員が横を通り過ぎる。
別の職員は機材ケースを抱えて走っている。
大型表示には、世界各地の水域が並んでいた。
どこか一つだけが動いているわけじゃない。
世界中で、いくつもの調査が進んでいる。
ルカは少しだけ立ち止まった。
「面白そうじゃん」
そのまま出口へ歩き出した。
◇
ルカが去ってしばらくして。
ロベルトの端末が鳴った。
『局長、合同会議の準備が整いました』
「ああ。今行く」
ロベルトは机の上の資料をまとめた。
いくつもの極境水域に関する報告書が重なっている。
それを抱え、部屋を出た。




