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探釣師 ――まだ誰も知らない魚を求めて  作者: ヤマト


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第18話 月の縁

 その夜。


 月影湿地〈ムーンシェイド〉に、また月が昇った。


 白い水生花が浮葉の間で開き、薄い霧の向こうで葦が銀白色に縁取られている。


 開水面では、月雫魚〈ルナドロップ〉の銀斑が時折瞬いた。


 ルカは昨日と同じ場所にいた。


 だが、見ているものは昨日とは違う。


 黒い魚影ではない。


 その近くにいる、小魚の群れだった。


「いた」


 月光の外側。


 暗い水の中を、一匹の黒い魚がゆっくり進んでいる。


 昨日までなら、ルカ自身も見つけるのに時間がかかった。


 今は輪郭を探さない。


 揺れる鰭、水面のわずかな変化、時折浮かぶ淡銀色の線。


 それをつなげれば位置は追える。


 魚が小魚へ近づいていく。


「もう近い」


 それでも群れは動かない。


 距離がさらに縮まる。


 まだ逃げない。


 やがて黒い魚の頭部が月光の縁へ入った。


 体側の銀線が浮かぶ。


 その瞬間、小魚が弾けるように散った。


「……今?」


 ルカは竿へ手を伸ばさなかった。


 別の個体を探す。


 少し離れた暗部。


 いた。


 今度も魚は黒い水から近づいていく。


 小魚は動かない。


 月光の縁へ差しかかった瞬間、群れが一斉に向きを変えた。


 ルカの目が細くなる。


「見えてないんじゃない」


 魚は最初からそこにいた。


 だが、小魚が反応したのは遅かった。


「見えるのが遅いんだ」


 黒い水。


 葦や水草の影。


 ほとんど光を返さない魚体。


 細く柔らかな鰭。


 それらが重なる暗部では、輪郭を拾いにくい。


 魚が透明になるわけではない。


 ただ、見つかるまでに時間がかかる。


「だから月光の外側を通るのかもしれない」


 ルカはもう一度、魚と小魚の位置を見る。


 昨夜は、自分から見えない場所として考えていた。


 でも魚が相手にしているのは、自分ではない。


「こいつから見えるかじゃない」


 小魚を見る。


「向こうから、こいつがいつ見えるかだ」


 ルカは竿を取った。


◇


 小魚ほどの大きさのルアーを結ぶ。


 狙うのは黒い魚ではない。


 小魚が逃げる道だ。


 ルカは月光の中へルアーを落とし、群れの端を通した。


 黒い魚が動く。


 まだ追わせない。


 ルアーを月光の縁へ近づけ、そのまま暗い側へ入れる。


 魚影が距離を詰めた。


 ルカには見えている。


 小魚はまだ動いていない。


「もう少し」


 暗い側を通す。


 影がさらに寄る。


 そこでルカは竿先を返した。


 ルアーが月光の中へ逃げる。


 ゴッ。


「来た!」


 竿が曲がった。


 魚はすぐ横へ走る。


 月光と闇の境に沿って、一気に位置を変えた。


 ルカも足を動かす。


 昨日のように魚体だけを追わない。


 暗部へ入って輪郭が消えても、進もうとしている方向を見る。


「そっち」


 ラインの角度が変わる。


 魚が反転した。


 竿を寝かせて追従する。


 また月光へ出る。


 淡銀色の線が一瞬浮いた。


 すぐ消える。


「今度は分かる」


 魚がどこを通ろうとしているのか。


 明るい水へ長く出ず、その縁を選んで移動している。


 何度か切り返したあと、走りが短くなった。


 ルカは浅瀬に沈めておいた保持網を寄せる。


 魚を無理に引き込まない。


 一度網の前で反転した。


 ルカは待つ。


 再び魚が寄ってくる。


「今」


 頭部が入る。


 続いて胴。


 尾まで入ったところで、水中のまま保持網を閉じた。


「捕れた」


 ルカは息を吐いた。


◇


 魚は水中で保持したまま確認する。


 鰓の動きと姿勢に異常はない。


 ルカは手を水で濡らしてから、必要な範囲だけ魚体へ触れた。


 全長は五十センチほど。


 体は黒に近い暗色で、角度によってわずかに青みが見える。


 背鰭や尻鰭、尾鰭の縁は薄く長く、水の動きに合わせて柔らかく揺れていた。


 体側には細い淡銀色の帯が走っている。


 自ら光ってはいない。


 月光が当たった時だけ、そこに線があることが分かる。


 ルカは撮影と計測を終え、公開されている既存記録と照合した。


 体型や鰭の形、暗い体色、淡銀色の側線状帯など、複数の特徴が一致する。


「月縁魚〈ムーンエッジ〉」


 世界で初めて見つかった魚ではない。


 別の水域では、すでに生体記録が残されている。


 だが、月影湿地の公開記録に残っていたのは、月夜に現れる大型の黒い魚影までだった。


「ここにもいたんだ」


 新種発見ではない。


 それでも、新しい記録だった。


 月影湿地での生息確認。


 月光の明暗境界付近を通る行動。


 暗部から接近した個体に対して、小魚の反応が遅れて見えたこと。


 複数個体が同じ餌場へ集まり、それぞれの動きによって結果的に小魚の逃げ道が狭まっていたこと。


 ただし、数夜の観察で生態を決めつけることはできない。


 ルカは観察した範囲だけを記録した。


「これでいい」


 端末を閉じる。


 捕れたことより、捕るまでに見えたものの方が多かった。


◇


 状態をもう一度確認してから、保持網を開いた。


「もういいよ」


 ムーンエッジはすぐには動かなかった。


 しばらく水中で姿勢を保ち、やがて尾を一度大きく振る。


 黒い水へ泳ぎ出した。


 月光の縁を横切った瞬間、淡銀色の線だけが現れる。


 次の瞬間には、また影へ溶けた。


「やっぱ見えにくいな」


 今度は見失っても、少し笑えた。


 ルカは周囲を見る。


 別のムーンエッジが離れた場所を動いている。


 もう一匹は水没根の近く。


 三匹。


 端末へ記録しようとした時だった。


「四匹」


 後ろから、静かな声が落ちた。


「え?」


 ルカが振り返る。


 月明かりを受けた葦が、風もないのにかすかに揺れていた。


 白い水生花の向こう、薄い霧の重なったその先に、人影が立っている。


 最初は葦の白い穂と見分けがつかなかった。


 けれど次の瞬間、月が雲の切れ間から少しだけ明るさを増し、細い輪郭が浮かび上がる。


 少女だった。


 片手に小さな記録端末を持ち、銀白色の葦の間に静かに立っている。


 この湿地の夜景に、ずっと前からそこにいたみたいに馴染んでいた。


「三匹じゃないよ。四匹」


 少女が、水没木の下を指さした。


 ルカは目を凝らす。


「どこ?」


「あそこ」


 枝と水草の影が重なる暗い場所だった。


 しばらく見ても分からない。


 だが、水面に砕けた月が揺れた時、その奥で黒いものがわずかに動いた。


 細い銀線が、ほんの一瞬だけ浮かぶ。


「あ、ほんとだ」


「ずっといたよ」


 ルカは少女を見る。


「君、誰?」


「リゼ・ラテラル」


 ルカの表情が変わった。


「……リゼ・ラテラル?」


「知ってる?」


「名前は」


「そう」


 リゼはそれ以上聞かず、水面へ視線を戻した。


 ルカも四匹目を見る。


「見てたの?」


「うん。面白かったから」


「いつから?」


「途中から」


「そっちは何しに来たの?」


「花と小魚」


「花?」


「水生花が開く時期と、その頃に小魚がどこへ出るか見てる」


 ルカは開水面を見る。


 月雫魚〈ルナドロップ〉の銀斑がまた一つ瞬いた。


「魚狙いじゃなかったんだ」


「今日はね」


 リゼが空を見る。


 月はまだ高い。


「月が出てる間に、まだ見たい場所があるから」


 記録端末を持ち直した。


「行くね」


「分かった」


「じゃあね」


「また」


 リゼは銀白色の葦の間へ入っていった。


 その姿が薄霧の向こうへ消えると、ルカはもう一度、水没木の下を見る。


 さっきまで完全に見落としていた四匹目が、今度は分かった。


「そこにいたのか」


 魚そのものは何も変わっていない。


 見える側が変わっただけだ。


 月光が揺れる。


 四匹目の体側に、細い銀線が一瞬だけ浮かんだ。

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