第2話 クリア・スプリングス
木々の間を進んでいたルカ・スケイルは、ふいに足を止めた。
「……うわ」
森の中に、水があった。
一つではない。
岩の隙間から湧き出した水が丸い池をつくり、そこから細い流れになって次の池へ落ちている。
その先、さらにその先へと、木々の間を縫うように大小いくつもの湧水がつながっていた。
水底の白い砂が見える。
沈んだ枝も、石の影も、その上を泳ぐ小魚の影まで見えた。
あまりに澄んでいて、水そのものが消えているようだった。
「これがクリア・スプリングスか」
ルカが斜面を下りる。
その時だった。
足元の流れを、青い一本の線が走った。
「ん?」
ルカが止まる。
石と石の間を、十五センチほどの銀白色の魚が細い流れに逆らって上っていく。
細長い体の中央を、青緑色の一本線が頭から尾まで走っていた。
強い流れを受けても押し戻されない。
体を左右へ細かくくねらせながら、水草の間を縫うように上っていく。
「何あれ!」
後ろからフィン・テイルが追いついた。
ルカが指差す。
「あれ。青いやつ」
フィンもその先を見る。
「ああ。スプリングリボンです」
「スプリングリボン?」
「この辺りの湧水域にいる魚です」
「初めて見た」
ルカはすぐ水際へしゃがみ込んだ。
さらに一匹、その後ろから二匹と続く。銀色の体が流れの中で折れ曲がるたび、青緑の線だけが水中を滑っていく。
「すげえ。あんな流れの中ずっと泳いでる」
「湧き出しの近くを好む魚です」
「速いな」
一匹が岩陰へ消えた。
ルカは顔を横へ動かして、その行き先を追う。
「どこ行った?」
「ルカさん」
「いた」
「ルカさん」
「ちょっと待って。今あそこ――」
「調査に来たんですけど」
ルカがようやく振り返った。
フィンの背中には、例の大きなバックパックがある。
「見てるよ」
「魚を?」
ルカは再び水面へ目を向けた。
スプリングリボンが湧水の中を泳いでいる。
その周囲には、小さな銀色の魚。
底近くでは、石と見分けがつかない灰褐色の石紋ハゼがじっと流れに張りついている。ルカが目を向けた途端、一匹が小石の隙間へ滑り込んだ。
水草の葉裏では、橙色の腹をした指先ほどの魚が逆さになり、葉についたものをついばんでいる。
「ここを」
フィンは一瞬黙った。
「……そうですか」
「これ、他にも変わった魚いる?」
「いますけど」
「どんな?」
「後にしてください」
「一匹くらい――」
「調査が先です」
ルカは名残惜しそうに水中を見た。
「分かったよ」
フィンがバックパックを地面へ下ろした。
どすん。
ルカがそれを見る。
バックパックを開くと、小型の水中カメラ、三脚、細長い計測器、透明な容器、巻き尺、さらに別のケースまで次々と出てきた。
ルカが眉を上げた。
「ほんとに全部使うんだな」
「言ったじゃないですか」
「ちょっと疑ってた」
「でしょうね」
フィンは三脚を伸ばした。
「まず、前の映像が撮られた場所へ行きます」
端末には、白い砂地と水草、その間を泳ぐ小魚の群れが映った。
フィンは画面と目の前の流れを交互に見ながら歩いた。
しばらくして、水路の一角で止まる。
「この辺りです」
ルカも画面を見る。
「同じ場所?」
「ほぼ同じです」
「ほぼ?」
「前の撮影時より、水位が少し低いですね」
フィンは細長い器具の先端を水へ沈めた。
しばらく待つ。
数字を確認して、端末へ入力する。
「水温?」
「はい」
「それもいるんだ」
「必要です」
フィンは続けて時刻を記録し、流れを確認してからカメラの位置を決める。
ルカはその様子をしばらく眺めていた。
「映像があれば十分じゃないの?」
「同じような映像でも、撮られた条件が違えば意味が変わります」
「条件?」
「水温。水位。時間。流れ。それと魚の状態」
フィンがカメラの角度を調整する。
「後で比べられるように残します」
「なるほど」
ルカは頷いた。
少し間を置いて、
「で、何すればいい?」
フィンが手を止める。
「まず魚を見ていてください」
「それなら得意」
「でしょうね」
二人は映像と同じ周辺を観察した。
小さな銀色の魚が十数匹、流れに頭を向けて泳いでいる。
ルカは岸際をゆっくり移動した。
その時、木々の隙間から差していた光をルカの体が遮った。
影が水面へ落ちる。
魚群が一斉に動いた。
「お」
小魚たちが影から離れる。
まとまって横へ走り、明るい場所で止まった。
フィンがカメラを確認する。
ルカは魚の動きを追っていた。
「前と違う」
ルカが水面を指す。
「今はみんな同じ方へ逃げた」
「影から離れていますね」
「映像のやつは、ばらばらだった」
フィンが記録する。
「少なくとも、今の反応とは違います」
二人は少し上流へ移った。
岩の間から湧き出す水が、細い水路へ流れ込んでいる。
水草が流れに沿って傾いていた。
その近くにも魚がいる。
スプリングリボンが一匹、強い流れを正面から受けながら泳いでいた。
ルカの目がそちらへ動く。
「……すごいな、あいつ」
「今はそっちじゃありません」
「見ながらでもできるって」
そのすぐ横では、小魚の群れが流れに押されて少し位置を変えている。
一匹が横へ流される。
別の魚もそれに合わせて移動する。
しかし群れは崩れない。
ルカはしばらく見た。
「これも違う」
フィンも頷く。
「流れには反応していますけど、前の映像とは動き方が違います」
その後も二人は周辺を歩き、魚群の位置や流れ、光の入り方を見て回った。だが、映像と同じ異変は起こらなかった。
太陽が少しずつ高くなる。
水面を通る光の角度が変わった。
青緑の線が、時折流れを横切る。
ルカは岸辺の平たい石へ腰を下ろした。
「何も起きないな」
少し離れたところで、フィンが記録を整理している。
「まだ一時間半です」
「もう一時間半だろ」
「まだです」
「待つの得意?」
「記録する仕事で待てなかったら困ります」
「俺は釣りなら待てるけどな」
「今もずっと魚を見てるじゃないですか」
「だって見てたら面白いし」
ルカは足元の水路へ目を戻す。
小魚の群れがいた。
大きさも色もよく似ている。
その中の一匹に目が止まる。
「あいつ、尾ビレちょっと欠けてるな」
フィンが端末から顔を上げた。
「どれです?」
「真ん中のちょい左」
フィンも見る。
「……ああ」
尾ビレの端が少し欠けた小魚が、他の魚と一緒に流れへ頭を向けている。
泳ぎにくそうには見えない。
「前に食われかけたのかな」
フィンは欠けた尾ビレへカメラを向けた。
「原因は記録できません。今は泳ぎ方を残します」
ルカは魚の動きを追った。
尾ビレの欠けた魚が群れから少し離れる。
水面へ上がった小さな虫を追う。
すぐに戻る。
その奥では、スプリングリボンが二匹並んで急流を上っていた。
銀色の魚と青緑の線が、白い砂と水草の上を行き来するだけで、何事も起こらない。
ルカは顎を膝へ乗せた。
「平和だな」
フィンは返事をしなかった。
水の音だけが続いた。
一匹が、進路を変えた。
ルカは最初、それをただ目で追った。
右へ進んでいた小魚が、急に上を向く。
そのまま群れから離れた。
ルカの眉がわずかに動く。
別の一匹は左へ向きを変えた。
ルカが体を起こす。
「フィン」
「はい?」
三匹目。
進もうとして――止まる。
そして反対側へ逃げた。
ルカが立った。
「来る」
フィンが顔を上げる。
その直後、群れが割れた。水面近くへ跳ねる魚、右へ走る魚、底へ潜る魚が一斉に四方へ散った。
その瞬間、白い砂の上を一筋の光が走った。
ルカが目を向けた時には、もう消えていた。
ルカの目が中央から底、水草、石の陰へと動く。何かがいたなら、見えるはずだった。
水は澄みきっている。
白い砂の粒まで見える。
魚が落とす影さえ見える。
なのに――
何もいない。
「……ほんとにいない」
フィンがすぐカメラへ手を伸ばした。
「何か見えました?」
「何も」
「僕もです」
二人は水中を見る。
散った小魚は少し離れた場所で止まり、やがて一匹、また一匹と集まり始めた。
水面も静かになる。
ルカだけが、まだ群れを見ていた。
視線が右へ動く。
左。
もう一度中央。
「……あれ?」
フィンが振り向いた。
「どうしました?」
「さっきのやつ」
「さっき?」
「尾ビレ欠けてたやつ」
フィンも群れを見る。
数匹が水草の陰へ入る。
別の魚が浅瀬へ戻ってくる。
「どこかへ逃げただけじゃないですか?」
「かも」
ルカは少し下流へ歩き、石の裏、水草の間、浅瀬から少し深くなった場所まで目で追った。
「……いないな」
「映像を確認します」
フィンが端末を開く。
二人が画面を覗き込んだ。
異変の少し前まで戻す。
小魚の群れ。
ルカが指を出す。
「これ」
尾ビレの欠けた魚がいる。
群れの中央近くを泳いでいる。
フィンが再生速度を落とした。
一匹が進路を変える。
もう一匹。
そして群れが崩れる。
画面いっぱいに銀色の魚が走った。
一瞬、どの魚がどこへ向かったのか分からなくなる。
フィンが停止した。
「もう一回」
再生すると、尾ビレの欠けた魚は群れが割れる直前までは確かに映っていた。ルカはその一匹だけを追う。
次の瞬間、別の魚が前を横切る。
水面近くから銀色の体が何匹も走る。
そして――
見失う。
フィンが映像を止めた。
「ここから確認できません」
「画面の外か」
「その可能性はあります」
ルカが実際の水面を見る。
「どっかに隠れてるとか」
「それもあります」
「食われたとか」
フィンはすぐには答えなかった。
「それを示すものは、まだありません」
ルカも頷いた。
「だな」
二人はもう一度、水を見る。
クリア・スプリングスは変わらず澄んでいた。
上流では、スプリングリボンが青緑の線を引きながら流れを上っている。
小魚たちも、少しずつ元の場所へ戻り始めていた。
底の白い砂まで、はっきり見えている。
それでも、尾ビレの欠けた一匹は戻ってこなかった。




